レトロな造りを残す駅舎は戦後築??

銚子電鉄・海鹿島駅、改札口跡

 銚子電鉄に乗り、海鹿島駅(あしかじまえき)で下車。関東最東端の駅だとか…。古い改札口の「ご乗車 ありがとうございました 海鹿島駅」に出迎えられた。

 銚子電鉄の起源と言える銚子遊覧鉄道は1913年(大正2年)に開業。同時に海鹿島駅も開業。当時は他に仲ノ町駅、観音駅、本銚子駅、犬吠駅しかなかったので、海鹿島駅の歴史の古さを感じさせる。

 銚子遊覧鉄道の経営は苦しく、4年後の1917年に廃止となった。しかし1923年(大正12年)、廃線跡を転用し、銚子電鉄が開業し、海鹿島駅も復活した。

銚子電鉄、レトロな駅舎が残る海鹿島駅

 海鹿島駅には何年築かは不明だが、古さを残した木造駅舎が健在。

 シンプルな形状で、中ほどに改札口があり、別棟のような左右の部屋を屋根が繋ぐ造りは、昭和30年~40年代の高度経済成長期に建てられた国鉄のコンクリート駅舎を連想させる。そんな国鉄駅舎の場合は、それなりの規模でもっと大きい。しかし僅か6.4㎞のミニ私鉄の小さな駅、同じような造りでも、サイズは最小感溢れる。大正以来の歴史がある海鹿島駅だが、造りや壁の素材なども考えると、昭和30年~40年代に建てられたのではないだろうか…

 駅から東に700m位歩くと海鹿島海水浴場がある。そして沖合の海鹿島には、かつてはアシカやトドが住み、地名の由来となったという。

銚子電鉄・海鹿島駅、手押しポンプが残る古井戸跡

 駅舎前には、壊れた手押しポンプがのある古井戸が残る。かつては駅員さんが水をくみ上げていたんだろうなぁ…

銚子電鉄・海鹿島駅、木の造り付けベンチがある待合室

 正面右手は待合室になっている。狭い室内の壁沿いにぐるりと巡らされた造り付けベンチと天井は木造で、レトロさ溢れる。

銚子電鉄・海鹿島駅、駅舎出札口跡

 左手は駅事務室で、木の出札口跡が残っていた。こんな小さな駅でも、二つの窓口があったのだ。中は埃っぽく雑然と物が置かれていた。

民家の不思議な近さ

銚子電鉄・海鹿島駅、駅舎と駅前

 駅の敷地は、ホームの高さに合わせ盛土され、道路より少し高く位置していた。

 駅舎の敷地に面して民家が建っているのが面白い。ホーム銚子寄りの外れにも民家があり、駅の中を通らなければ、家に出入りできない。駅の中に民家が建っているような不思議な光景だ。

銚子電鉄・海鹿島駅、小さな一面一線のホームと駅舎

 廃線は一面一線の棒線駅。ホームは2両分程度の短さだ。古い木製ベンチに取り付けられたホーローの広告は、しょう油の醸造業が盛んな銚子らしく、地元しょう油業者のものだ。

銚子電鉄・海鹿島駅、ローカル私鉄らしい風景残る

 デハ801が民家の間をすり抜けるように入線してきた。

[2007年(平成19年)10月訪問](千葉県銚子市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎


 久しぶりにちほく高原鉄道へ。転換直前のJR池北線時代に乗りに来て以来で約15年振り。

ちほく高原鉄道・川上駅、無人地帯の秘境駅に佇む木造駅舎

 1920年(大正9年)6月1の開業以来の木造駅舎が残る川上駅で下車。左半分程度が新建材で改修されているものの、古い木造駅舎らしい趣をよく残した駅。正面出入口上部が、三角の切妻屋根になっているの北海道の駅舎らしさ感じさせる。

 駅近くに、草で埋もれた鉄道官舎の廃墟が残存する以外は、今やこれと言った建物が無い無人地帯。日常的な利用者はほぼゼロらしい。ほんももの秘境駅。

ちほく高原鉄道・川上駅の木造駅舎、ホーム側の佇まい

 まだ駅巡りをはじめて数年の頃、このホーム側の佇まいは、私の心に深い印象を刻んだ。古びた木の質感、柱、ポツンと取り付けられた裸電球…、目の前の全てのものが味わい深い。

 木の扉を開けるとガラガラと盛大な音が待合室に響いた。祖父母の家の扉も開け閉めすると、大きな音が鳴ったなぁ…。扉の吊り下げ金具を見ると、レトロでごつごつとし年季もかなり入ってた。まさに古道具が息づく待合室。


 ちほく高原鉄道は2006年(平成18年)4月21日に廃止。この川上駅舎は廃線後も意外と長い事残存したが、2013年1月頃、遂に取り壊されたという。

[2004年(平成16年)7月訪問](北海道足寄郡陸別町)

レトロ駅舎カテゴリー:
JR・旧国鉄系の失われしレトロ駅舎

意外と木造駅舎らしい!?佇まい

 中央本線(中央西線)の藪原駅へ…。塩尻駅から約30㎞ほど南の木曽の山中に分け入った所にある駅だ。

 約20年ほど前、駅を巡るようになった頃に訪れて以来の訪問だ。ハーフティンバー調の装飾が施された木造駅舎という記憶がある。

JR東海・中央本線(西線)・藪原駅、木造駅舎らしさ溢れるホーム側

 久々に訪れると、ホーム側の木造駅舎らしい佇まいに驚いた。柱や軒は年季が入った木のまま。こういう風だったんだ。

中央本線・藪原駅、改札口横にある放送機器

 改札口近くの壁に、古びた機器があるのが目に入った。音量調整のつまみがあり、下には「接」と「断」のセットができる三つのスイッチがあった。駅員さんの構内放送用操作用の機器だろう。三つのスイッチは、待合室、1番ホーム、島式の2番3番ホームだろうか?現在は委託された人が出札業務しかしない簡易委託駅。全てのスイッチは「断」に入っている。いや、古くてそもそももう動かないだろう。

JR東海・中央本線、藪原駅、待合室

 待合室は広めで、後付けで壁が付けられた。今日は冬にしては暖かいが、木曽の山間部、もっと寒くなる日もあるのだろう。外気が遮断できるのは有り難い。

藪原駅の木造駅舎、待合室の木の造り付けベンチ

 後付けの壁にぶった切られながらも、木の造り付けの長椅子は残る。木造駅舎の待合室らしい風情が存分に残る。

山荘風の造りが目を引く駅舎

中央本線・藪原駅、車寄せ越しに見る駅前の風景

 車寄せの柱は丸太で、その台座は表面が石で固められた野趣感じさせるもの。

 車寄せ越しに駅前の街並みが見えた。急斜面を切り開いた地で、上った所に道の駅があるらしい。線路に並行して道があり、旅館が数軒ある。中山道の藪原宿は駅の西北一帯だ。

 久しぶりに藪原駅の木造駅舎を眺めてみた。開業の1910年(明治43年)以来の木造駅舎だが、よく手入れされそれ程古さは感じない。

 駅舎の壁上半分が木組みを露出させたハーフティンバーという造りを模した装飾が施されている。

中央本線・藪原駅、板張りや車寄せなどユニークな造りの木造駅舎

 野趣あふれる車寄せの造り、そして斜めに模様を描くような板張りなど、山荘やロッジを感じさせる造りだ。また車寄せ先端には、神社建築見られる屋根の頂上で木の棒を交差させた「千木(ちぎ)」を思わす装飾が見られる。

 何で山荘風なのかと思ったが、駅の北側にハイキングコースとして知られる鳥居峠がある。かつては駅舎前の植込みに「鳥居峠登り口」とアピールした木のモニュメントがあったようだ。

 そしてかつてはこの駅から上高地駅へ向かうバス路線もあった。名古屋方面から見ると、上高地方面への最短ルートだったとか。

 しかし1986年11月の時刻表を見ると、休日と休前日のみの一日2往復の運行で冬期運休。利用しやすい本数とは言えず、現在は廃止されている事を考えると、主要なルートではなかったのだろう。

中央本線・藪原駅。木造駅舎の前に荒れた庭園跡がある

 駅舎の左側約3分の1は、元の板張りの造りを残していた。かつての藪原駅舎は写真を見ると、サイズ感は今と変わらないが、板張りのありふれた感じの木造駅舎で、山荘風でも無かった。どうやらある時期に今の姿に改修されたようだ。

 駅舎前の植込みは広く取られていて庭園のよう。昔からの駅らしいゆったりとした風情だが、荒れているのがもの悲しさを誘う。

藪原駅の木造駅舎、ホーム側の腰壁は丸太風の板張り

 さあ列車の時間だと思い2番ホームに向かおうとすると、ホーム側腰壁の板張りもちょっと変わっているのに気付いた。良く見ると丸太と言うか、切り出した木の丸みを残したのような板だった。板張りは平らな場合が多いが、こんな所まで山荘風に仕上げたのだ。

長野県木曽村、中央本線の藪原駅、JR東海313系電車が停車

 上り列車は、基本的に駅舎側の1番線からの発車となるが、14時27分発の木曽福島行きは島式の2番線からだった。今でこそ普通列車しか停車しないが、主要駅ばりにホームは広く長かった。

[2023年(令和5年)2月訪問](長野県木曽郡木祖村)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

藪原駅改修に関する推測のようなもの

 藪原駅の木造駅舎が建てられたのは1910年(明治43年)だが、現在の姿になったのは、後年の改修によるものだ。

 改修前の写真が載っている本(※1)が発刊されたのは1972年。それ以前に撮影されたとしたら、単純に考え、駅舎が山荘風に改修されたのはその後という事になる。

 私の推測になるが、1970年から始まった「ディスカバージャパン」から「いい日旅立ち」と言った一連の国鉄のキャンペーンで、旅行気運が高まっていた頃、上高地や、5kmほど西北にある藪原スキー場の玄関口の駅として行楽ムードを高めるため、その頃に山荘風の駅舎に改修されたのではないだろうか…

 1986年11月の時刻表で、2本あった上高地行きのバスの1本は4時5分発という日さえ上っていない早朝。朝が早い登山家向けの設定なのだろう。きっと当時はまだあった中央線の夜行急行で降り立った人々が利用した事だろうと思ったが、定期の急行ちくまは通過で、11月に数日運行される臨時急行ちくま81号が停車するだけだった。もっともそのバスは木曽福島駅始終着だったので、特急や急行利用が全て止まる木曽福島駅の方がはるかに利用しやすかったのだろう。


 うだうだ言ったが、改修駅舎とは言え、約半世紀にもなると、古き良き味わいが出て来るもの。

 今回の旅は岐阜県奥飛騨の平湯温泉が主な目的で、藪原駅には松本経由でやって来た。平湯温泉と上高地はさほど離れていない。藪原駅‐上高地間のバスで来れたら面白かっただろうなぁ…


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初めて訪れてから、はや18年…

「時が止まったような…」
「タイムスリップした気分…」
「建てられた昭和初期のまま…」

よくそう評される美作滝尾駅の木造駅舎。国内でも最上級の木造駅舎の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。岡山県津山市にあるJR西日本・因美線の駅で、映画「男はつらいよ」最終作の「寅次郎紅の花」のロケ地になった事でも広く知られている。

 私が初めて訪れたのは2004年の12月。もう一度、見たくて再訪した2009年。3回目の2012年は、みまさかスローライフ列車で訪れ駅事務室の中に入り深い感銘を受けたもの。そして2022年8月には、4回目の訪問を果たした。

2004年当時、JR因美線・美作滝尾駅の木造駅舎
(初訪問、2004年当時の美作滝尾駅の木造駅舎)

変わらない駅の移り変わり

 開業した昭和3年(1928年)に建てられた木造駅舎はほとんど変わっていなかった。やはりここだけ時は止まっている。

 しかし初訪問時の写真と比べると、細かい変化はあるもの。欠けた屋根瓦は補修されていた。車寄せには木の駅名標が掲げられ、入り口横には壁に登録有形文化財認定プレートが埋め込まれている。しかしあれから18年経っているのに、味わいを損なう改修が施されていないのは素晴らしい。使い古された木の風情が本当に味わい深い。

 小さな変化があるのは、駅舎まわり…。例えば、駅舎を飾るような2本の松は、時々手入れされているが、時の流れの割にさほどではないとは言え、枝勢は広がり、幹はどっしりした感がある。木々はよりわさわさと茂っていた。

 右側の「男はつらいよ ロケ記念碑」や駅舎中ほどの「鐵道七十周年記念碑」はそのまま。しかし駅舎左手には、いつの間にか謎の岩が置かれていた。

木造駅舎が残る美作滝尾駅、折りたたみ自転車・DAHON K3を共に訪問

 今回は愛車・折りたたみ自転車のDAHON K3と共に訪問。津山駅前のホテルに重い荷物を置いて、幾分か身軽な姿で因美線の列車に乗って来た。1時間半後という、ちょうどいいタイミングの津山行き列車で折り返せるので、帰りも列車にしようかなと思っていたが、結局K3を輪行袋から出し展開した。そして記念撮影。

JR西日本因美線・美作滝尾駅、木造の駅舎と貨物上屋

 駅舎だけでなく、少し離れた所にある側線跡の木造貨物上屋も健在で何より!

 駅前を見渡すと、
「あれ?こんなふうだったっけ!?」
と不思議に思った。駅前が開けたというか広くなっているような気がした。以前はもうちょっと何かあった気がするのだが、思い出せない。

 駅舎正面から外を向いて右手あたりは砂利敷きとなり、駐車場のようになっている。バス数台までなら停められそうだ。片隅には飲料の自動販売機がポツンと置かれていた。津山市の観光名所の一つとなり、たぶん車での来訪を考え、駐車スペースを作ったのだろう。


~家に帰った後、かつて何があったのか写真を引っ張り出しよく見てみた。はっきりとらえた写真が無かったのは悔やまれるところ。取るに足らないと撮影しなかったのだろうが、いざ無くってしまうと、何があったのか…本当にあったのかさえ、さっぱり思い出せない。

 それでも片隅に写り込んでないか探すと、駅舎から外を見て左手には倉庫か何か建物があったよう。そしてトイレの側には、何かコンクリートの建物が建っていたようだ。民家と言った感じではなく、公民館か役所か何かの出張所っぽい雰囲気に思えた~

岡山県津山市・美作滝尾駅前、農協の跡地は公民館に

 駅から坂を下って交差点の右側に、かつて農協があったもの。十数年前、食べ物を買おうとしたが、棚卸しのため休業で、結局その日は、夕方の智頭駅まで何も食べられなかったのは今ではいい思い出(笑)

 現在では公民館が建っている。まだ新築の雰囲気をまとっているが、外壁の一部が木なのは、今年で築92年の美作滝尾駅舎へのオマージュだろうか…?

駅舎に負けなレトロな貨物上屋

JR美作滝尾駅、側線跡と木造の貨物上屋

 鳥取方にある行き止まりの側線跡は、いつの間にか2本の木に占拠されていた。十数年前は木なんて生えていなかった。

 どうやらこの木々、桜らしい。駅前には桜並木があり、駅舎横にも背の高い桜の木がある。春に訪れるのが楽しみだ。

 幸いにも側線ホーム上木造の貨物上屋(貨物上家)は健在。その奥には腕木式の信号が設置されていた。以前は無かったように思うのだが。

美作滝尾駅、薄れた木造上屋柱の注意書き

 貨物上屋の柱に巻き付けられていた鉄板に書かれた注意書きは、だいぶ読めなくなってきた。
「ここは貨物の積卸をする処ですから車両類の放置固くお断りします」
と書かれている。しかしこちらも錆が進み、もうあと少しで読めなくなりそうだ。

美作滝尾駅、レトロな国鉄時代を感じさせる貨物上屋と木造駅舎

 貨物上屋の下に立つと、丸太など木組みで造られた木の大きな屋根に圧倒された。昔はこんな小さな駅でも、貨物のやり取りが盛んに行われていたのだ。まさに日本の鉄道が元気だった頃を伝える鉄道遺産。昔の国鉄駅の風情を伝えるここまでの貨物上屋は、日本全国探してももうほとんど残っていないのではないだろうか…?駅舎同様に貴重だ。

美作滝尾駅、駅舎と貨物上屋の産業遺産学会による認定書

 壁を見る日本産業遺産学会による認定証の写しが2部掲示されていた。

 1つはこの貨物上家1号が推薦産業遺産120号になった事が標されていた。木造駅舎は知られるようになっても、同様に貴重な貨物上屋が注目されないのに歯がゆく感じていた。だけどようやく!と言った思いだ。

 もう一つは美作滝尾駅本屋と貨物上家を保存してきた滝尾駅運営委員会に対する功労賞を贈ったものだ。

 二つとも日付は2021年5月10日。利用は少なくなってしまった無人駅。使われなくなった建物は廃れていくもの。だけど運営委員会の方が丹念に手入れして、木造駅舎は引き立つ。評判を聞き人々が訪れる。結果として美作滝尾駅は生きた駅となっているいのかもしれない。できれば列車で訪問しやすくなれば言う事無いが…

待合室、窓口跡…レトロさ溢れる駅舎

美作滝尾駅、駅舎ホーム側の定位置に収まる古い秤

 駅舎ホーム側には秤が置かれていた。小荷物を扱っていた頃は盛んに使われていたのだろう。コンクリート面が窪んでいて定位置が作られているのが面白い。

 以前はこの秤、無かった。どこかから持ってきたのだろう。同じく味わいある木造駅舎が残る知和駅にも、かつてこんな秤があった。しかし、翌日訪れると無かった。もしかしたら知和駅にあったものを、美作滝尾駅に持ってきたのかもしれない。

 この駅の配線は、現在では1面1線とシンプル。ホームからは田んぼや山々など、のどかな田舎風景が望める。田んぼではかつて田んぼアート展が開催されたとか。

美作滝尾駅の木造駅舎、改札口と待合室

 木目浮かぶ木のラッチ、その奥の年季の入った待合室…、寂れる事無く昔のままの姿を留めた小さな空間こそ、時が止まっていると言われるゆえんだろう。

美作滝尾駅の木造駅舎、昔のままの切符売場など窓口跡

 二つの出札口と、一段低い手小荷物窓口…、昔の造りを完璧に留めた窓口跡は、もう骨董品の域、本当に絶品。

美作滝尾駅窓口跡、手荷物小荷物貨物取扱所の古い看板

 窓口跡には古い看板が掲げられていた。よく見ると「手荷物小荷物貨物取扱所 携帯品一時預り所」という看板で、下には取扱時間が標されていた。昔は全国の駅から駅へ荷物の発送がさかんに行われいたという。昔のままの窓口跡には、そんな時代思い起こさせるそんな看板が相応しい。

 看板をよく見ると、文字の下にも何か文字が見える。古い看板を塗り直し使いまわしているが、色が薄れ、以前の文字が浮かんでいる。JR比婆山駅の駅名標など、駅ではこんな看板の使いまわしはたまに見る。

 以前の内容を見ると、新しい方と内容は大まかには同じだが、新しい方には取扱時間が書き足されていた。時間を書いてより分かりやすくしようとしたのだが、新しく看板を作らずに、同じ看板を使いまわしたのだ。天下の国鉄が、たかが板切れ一枚と思ってしまうが、物を大切にする「もったいない」の精神は、鉄道の現場にも根付いていたものだ。

美作滝尾駅の木造駅舎、駅事務室内部

 待合室から窓越しに
「また、中に入りたいなぁ…」
と思いながら、駅事務室の中を見つめた。10年前、この中に入った時の感動は、まだ心の中に残っている。

夕刻迫るひと時

折りたたみ自転車・DAHON K3と美作滝尾駅の木造駅舎

 折りたたみ自転車と列車で一日中、駅を巡っていると、やはり疲れは溜まる。自販機で冷たいドリンクを買うと、日陰のベンチに避難、美作滝尾駅舎を眺めながら一休み。夕涼みには程遠い暑さだが、しばし癒しのひと時…

美作滝尾駅、夕刻、帰宅する学生を迎えに来た車

 誰も居なかった駅に、一台、また一台と何台かの車が立て続けにやってきた。見学者かと思ったら、降りてこない。ああ、もうすぐ列車がやってくるのだろう。たぶん、車は帰宅する学生を迎えに来た家族の方だ。

JR西日本・木造駅舎が残る美作滝尾駅と三江線カラーのキハ40

 しばらくすると、16時56分発の鳥取行きが1分ほど遅れてやってきた。廃線となった三江線でも活躍した浜田色と呼ばれる色のキハ120だった。


 迎えに来ていた車は、下車した学生達を乗せると去り、駅はまた私一人になった。日はどんどん傾き山の向こうに隠れようとしている。慣れない道を暗い中走るのは、出来れば避けたいと思うと、私も立ち去らなけらばいけない。

 最後にもう一度、足を止め振り返ると、津山駅に向けてペダルを踏んだ。

[2022年(令和4年)8月訪問](岡山県津山市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

この記事の後編的な記事、津山駅までの帰路は以下へどうぞ!
木造駅舎・美作滝尾駅、そして折りたたみ自転車で津山駅へ戻る


その他の美作滝尾駅関連記事は以下へどうぞ!
美作滝尾駅(JR西日本・因美線)~懐かしさ溢れる昭和初期の木造駅舎~(第2回目訪問)
木造駅舎の窓口跡の向こう側、気になる駅事務室の中…(1)-美作滝尾駅(第3回目訪問)

大正時代の木造駅舎が現役

JR九州・日豊本線、東中津駅で下車した人々

 JR日豊本線・中津駅から一駅、中津市街の外れにある東中津駅。私が乗って来た下り列車からは、何人かの下車客があった。

日豊本線・東中津駅プラットホームと駅舎横の空地

 ホームは1面3線だが、真ん中の番線はレールが剥がされ廃止されている。

 駅舎正面の右側、南隣には空地のような空間が広がっていた。かつては駅舎から続きで建物が建っていたようだが、不要になり取り壊されたのだろう。

JR日豊本線・東中津駅、木造駅舎に残る古い駅名標

 駅舎ホーム側には縦型の古い駅名標が取り付けられたまま。毛筆体のホーロー看板はレトロさに溢れる。作製されて半世紀以上過ぎていそうだが、耐久性のあるホーローのため、多少の錆びはあるが色艶は十分。

 駅名標の上には、木製の手書き建物財産標が残っていた。この駅本屋のもので、標された年月は「T4(大正4年). 5. 30」。

JR九州・日豊本線、大正築の古い木造駅舎が残る東中津駅

 東中津駅の開業は1901年(明治34年)5月25日。起源となる豊州鉄時代で、当初の駅名は大貞。

 今も残る木造駅舎は、大貞駅時代の1915年(大正4年築)築。今年2022年で、何と築107年だ!築サッシ窓に換装されるなど改修されているが、それでも古い木造駅舎らしい、いい佇まい。東中津駅と改称されたのは、戦後の1952年(昭和27年)11月15日だ。

日豊本線・東中津駅の木造駅舎、軒を支える木の柱

 軒を支える柱は長年、風雨に晒され続けすっかり風化している。それでも土台のコンクリートは新しいものに作り変えられている。

日豊本線・東中津駅、木の軒と柱・レトロな駅名標

 軒の骨組みは新しいものに取り替えられている。風化し皴が入りでこぼこの柱と違い、真っ平でつるつるしている。古い駅舎を維持するだけでも大変なのに、よくイメージに合わせたいい改修をしてくれるものだ。大切に使い継いでくれているのを感じる。

日豊本線・東中津駅の待合室

趣ある待合室

 待合室と出札口。荷物扱いはだいぶ昔に廃止され、窓口は大きく改修されている。

 近年、JR九州では駅の無人化が進んでいるが、東中津駅は中津市により簡易委託駅の駅員さんが配置されている。一日の乗客数は300弱位で、ICカードの普及で仕事は減っていそうだが。

日豊本線・東中津駅、木造駅舎らしい古い木の扉

 木の扉というのが重厚で味わいある。吊り具こそは換えられてるが、いかにも木造駅舎らしい風情に溢れる。

日豊本線・東中津駅待合室、木造駅舎らしさ溢れる天井

 天井を見上げると見事な板張り。改修された待合室を木の味わいで包み込むかのよう。

折りたたみ自転車で巡る日豊本線の駅舎、東中津駅から次の駅へ…

 東中津駅を堪能した後は、折りたたみ自転車で隣の今津駅へ。袋から出し展開する作業を、少し離れた所から委託の駅員さんが興味深そうに眺めていた。

[2022年(令和4年)11月訪問](大分県中津市)

レトロ駅舎カテゴリー:
二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

念願の貴賓室公開日

 奈良県のJR畝傍駅の木造駅舎を訪れてから6日後、再び畝傍駅を訪れていた。畝傍駅をメイン会場にした音楽イベント「畝傍駅音楽マルシェ」の一環で、畝傍駅舎内に残るあの貴賓室が公開されるからだ。長い間、貴賓室を見たいと思い続けていたが、なかなか機会に恵まれなかった。大阪で他の用事もあり6日前に畝傍駅を訪れたばかりだが、これは訪れずにはいられない。駅舎は取り壊しの危機に瀕していて、この機会を逃すと、もう次は無いかもしれない…

JR桜井線・畝傍駅で開催される畝傍駅音楽マルシェ

 近鉄の大和八木駅から歩き突き当りにある畝傍駅は、いつもひっそりとしていた。しかし畝傍駅音楽マルシェの今日は賑やかだ。駅舎の屋外改札口跡では生バンドの演奏が行われている。あの大きな軒下は、こんなちょっとしたイベントにぴったり。

 駅前の露店では、地元のレストランや食べ物やさんが出店している。後でランチに何か頂こう。

奈良県橿原市、JR畝傍駅舎、貴賓室の公開日

 駅舎正面右側、固く閉ざされたままだった貴賓室前の扉は確かに開かれていた…

そして一歩

普段は非公開の畝傍駅貴賓室、ホームへ続く通路

 中に入ると、駅舎を南北に抜ける通路があった。貴賓室の写真は見た事があり、扉の向こうにいきなりあれがあるかと思っていたが、想像力が貧困過ぎた…。普段は非公開の貴賓室。イベントもあり賑わい、撮影も一苦労だ。

 通路の両側には、畝傍駅の歴史や各地にあった駅の貴賓室などを紹介したパネルが展示されていた。そしてパネルの間を通り抜けた反対側にも木の扉…、宮廷のような荘厳な駅舎ホーム側、そして木の手摺りがあるあの階段に続いているのだろう。

 こうしてちょっと見る限りは、老朽化はさほど感じない。質素だが、木造駅舎という響きがしっくり来る味わいある空間。でも昔はもうちょっと装飾があったのかもしれない。

 初代天皇の神武天皇の即位から2600年、1940年(昭和15年)に国家の威信を発揚する紀元2600年祭が大々的に挙行された。神武天皇を祀る橿原神宮でも行事が執り行われ、橿原神宮に近い畝傍駅も、その一環として現駅舎に改築された。しかし時代は戦争の色は濃くなっていく一方なので、控えめに仕上げられたのかもしれない。

畝傍駅貴賓室、貴賓室前の控えの間・次室

 貴賓室は通路の右側に配置されている。

 しかし手前にもう一つ部屋があった。門司港駅の貴賓室にもあったが、次室などと呼ばれるお付きの人々が控えた部屋だったのだろう。

例え朽ちようとも…

JR桜井線・畝傍駅の木造駅舎、天皇陛下が利用された貴賓室が残る

 次室の南隣に、貴賓室の主室があった。貴賓室として最後に使われたのは、現上皇ご夫妻が、ご成婚を橿原神宮に報告に来られた1959年(昭和34年)。それ以来、ほぼ当時の姿のまま、時だけが流れた空間はすっかり色褪せセピア色だ。屏風の後ろに幾重に波状の折り目が付けられたカーテンは手が込み上等そうだが、完全に朽ち色あせてしまった。十数畳ばかりの古びた室内は、閉塞感というか廃墟のような重苦しささえ漂わす。それでも玉座が、いつでも貴人を迎えられるかの如く配されている光景は重厚で威厳溢れる。打ち棄てられたように時を経てどれだけ古くなっても気高さは失っていない。

畝傍駅貴賓室、天井と壁の紋様

 よく見ると、壁紙には紋様が標されていた。だいぶ色あせてはいるが。天井の隅も丸みが付けられ丁寧に仕上げられている。その辺は廊下や次室と違い、高級な造りとなっている。

 照明はシンプルだが、以前はシャンデリアが吊るされていたという。そのシャンデリアは撤去こそされたが、現在でもJR西日本が保管しているという。

 貴賓室は主室を除けば意外と簡素で、主室も今でこそ色を失っているかのよう。しかし、半世紀以上も昔、この部屋は和洋の豪奢さが詰まった荘厳さ溢れる空間だったのだ。

畝傍駅貴賓室、お手洗い

 貴賓室と次室に隣接しお手洗いが設置されている。タイル張りでこちらも意外と簡素だが、昭和10年台で洋式便器というのは、珍しいのかもしれない。

畝傍駅貴賓室、お手洗い便器横の文字

 洋式便器の横には「ご使用後はこの紐を御引き下さい」という注意書きが残ったままだ。紐はもう無いけれど…

畝傍駅貴賓室のお手洗い、石鹸の蛇口

 洗面台は二つあって、一つの方は石鹸用の蛇口があった。もう一つの洗面台はお湯が出たという。簡素でも、このあたりが、やんごとなき人への気遣いというものなのだろう。

 このお手洗い、貴賓室と次室の両方から出入りできる。お付きの人にしてみれば、共用とは恐れ多い気もするが、陛下や殿下がご在室の時は利用を控え外のお手洗いを使ったのかもしれない。

畝傍駅貴賓室の玉座。元々は新大阪駅のもの。

 お手洗いから玉座をより間近に見た。元々は新大阪駅のものだという。花の紋様が織り込まれた白い布地はいまだ艶々としている。

JR桜井線・畝傍駅、ホームから駅舎貴賓室への階段

 貴賓室を見た後、ホームと貴賓室を繋ぐ階段の前に立った。駅舎という空間は、より一層重厚に私の目に映った。

[2022年(令和4年10月訪問)](奈良県橿原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

ちょっと昔の油須原駅

 国鉄田川線から第三セクターの平成筑豊鉄道に転換された油須原駅。かつて2回訪れた事がある。

平成筑豊鉄道、2006年木造駅舎改修前の油須原駅

 豊州鉄道として開業した明治28年(1895年)以来の駅舎が残ると聞き、初めて訪れたのは2006年6月。古い木造駅舎にはレトロな丸ポストが良く似合っていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅、趣ある木造駅舎だが傷みが進む…(2015年)

 2回目に訪れたのは2015年6月。9年の歳月は古い木造駅舎を、いっそう古色蒼然とさせた。いや…古くなり過ぎで心配になるほどだ。この前に訪れた同じ田川線の崎山駅ほどではないが、つるが絡み外壁や柱もボロボロだった。もしかしたら、今度来る時にこの駅舎は無いかもとさえ思った。

改修され蘇った木造駅舎

 しかし油須原駅の木造駅舎は改修される事になり、2022年2月、工事が完了した。昔の資料は残っていないものの、明治時代の姿をイメージし復元改修に取り組んだという。

平成筑豊鉄道、秋晴れの油須原駅

 11月、東海道山陽新幹線、日豊本線と乗り継ぎ、行橋駅から平成筑豊鉄道に乗換え、油須原駅に到着した。空は気持ちいいほどの秋晴れ。3回目の訪問だが、3度とも快晴。どうやら油須原駅との相性はいいようだ。

平成筑豊鉄道田川線・油須原駅、改修された木造駅舎と国鉄型駅名標

 先行きを心配した木造駅舎は、古き味わいを残しつつすっかりきれいに改修されたもの。復刻された国鉄型駅名標もよく似合う。

油須原駅、千鳥式ホームなど石炭輸送で賑わった国鉄田川線時代を留める構内

 ホームを互い違いに配置した千鳥式のプラットホームと、その真ん中には中線を剥がした痕跡、片隅には側線跡。いち無人駅にしてはかなり広い構内だが、国有鉄道時代は石炭で活況を呈した筑豊の名残をを留めていた。きっと石炭を満載した長大編成の貨物列車が、一日に何度もすれ違ったのだろう亥。

 側線ホームには、腕木式信号機が一本あった。以前は無かったように思うのだが、どこかから移設し保存しているのだろう。

3度目の油須原駅、駅舎の造りとムードを堪能

 駅舎正面に回ってみた。屋根瓦は取り替えられピカピカ。以前はサッシだった窓枠は木のものに取り替えられた。だけど木の外壁は古びたまま。新しくなりながらも、昔からの古さが調和した味わい感じさせる姿に仕上げられた。

 丸ポストは以前と同じ場所に、コンクリートの高い台座にのっかっているのは相変わらずだ。

平成筑豊鉄道油須原駅、レトロなムード溢れる木造駅舎

 軒下に立つと、まさに昔のままの木造駅舎の風情感じる。軒は古いままで、こちらも昔からのものを続けて使っているのだろう。裏側を見ると、碍子や壁を伝うように古い電線が繋がれたままだった。電線はすっかり錆び付きもう使わていない事を物語っていたが…

油須原駅の木造駅舎、軒の古い柱は石炭色に…

 ちょっとした装飾がワンポイントの木の柱は塗装越しにすっかり古びているのがわかる。石炭をイメージしたのか…柱の色は真っ黒だ。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎土台コンクリート縁のレンガ

 駅舎の床はコンクリートで塗り固められ、まわりはレンガで縁取られていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎側面のレトロな「預所」の看板

 改修前には駅舎正面の出入口左側に「預所 自転車 手荷物」の古い看板が掲げられ、油須原駅を象徴的な風景だったもの。改修後の写真では無くなっていて、あんなレトロで味わいあるもの撤去したのかと残念に思っていたが、右側側面に移設されていた。軒下のこの部分は自転車置場として利用されちょうどいい。

待合室

平成筑豊鉄道・油須原駅舎、待合室もレトロな造りを残す

 待合室に入ると
 「うわぁ…」
思わず感嘆のため息を漏らした。古い木が敷かれたままの天井、木枠の窓、昔ながらの形が復元された出札口跡…、古き良き時代の光景が目の前に広がったかの心地。

平成筑豊鉄道・油須原駅、古いままの駅舎窓枠

 駅舎の窓枠台座は古い木のまま。すり減った木の無数の傷が年月を物語る。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎待合室の伝言板・拾得物案内板

 待合室には伝言板、拾得物のお知らせ掲示板まで残っていた。私が学生服を着ていた頃までは、こんなモノが地元の駅に残っていたもの。懐かしく何か書きたくなってくる…

平成筑豊鉄道田川線・油須原駅待合室、呉服店のレトロな広告

 片隅には手書きのレトロな駅広告が掲示されていた。

 後に帰宅し、過去の油須原駅の画像を見た限り、この広告は無かったよう。どこか他の駅から持ってきたのだろうか…?

 呉服店は、地方の街を歩いていると今でもよく見る。伊田本局前とは、郵便局か電話局か…?伊田とは昭和57年に田川伊田駅と改称された国鉄の伊田駅あたりの事だろうか?この店は今も健在なのかとGoogleマップで検索してみたら見つけられなかった。やはり時の流れ、無常を感じずにはいられなかった。

油須原駅待合室、レトロな広告下部の古いプレート

 この駅広告で気になったのは、額の下に金属の小さなプレートが取り付けられていた事だ。プレート後半の「…司支部」読めたが、他はほとんど消えとても判読し辛い。

 旧字交じりで
「鐵……司」ん?「…弘…」「…廣告部」かな…?
さらに目を凝らし判読できた文字を繋ぎ合わせ、頭の中で文脈を考えると、恐らく 「鐵道弘済会門司支部廣告部」と書いてあるのだろうと推察できた。

 鉄道弘済会…私の中では、かつてJR・国鉄駅の駅構内で売店のキヨスクを運営していたというイメージだが、1931年(昭和6年)に、鉄道業務で殉職や負傷をした鉄道公傷職員に対する福利厚生を目的に設立された。鉄道弘済会は今でも存続しているが、昔は駅広告の事業も取り扱っていたのだろう。

 左読みというのを考えると、戦後に作られた広告なのだろうが、それにしても支部が門司にあるというのが、かつて九州の入口が門司港駅がある門司だった頃の名残よとしみじみと感じさせた。

レトロな看板たち

 再びホームに出てみた

平成筑豊鉄道・油須原駅、古い国鉄仕様の縦型駅名標

 軒の柱には古い縦型の駅名標が取り付けられたままだった。色あせた毛筆体の看板…、かなり古そうだ。

油須原駅、国鉄のキャンペーン・ディスカバージャパンのポスター

 壁には1970年台の国鉄のキャンペーン「ディスカバージャパン」のポスターが貼られていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅の木造駅舎、閉塞器室

 閉塞器室とも呼ばれる駅舎ホーム側の出っ張りも、綺麗に改修されていた。

 周囲には「気象告知板」「通票仮置場」など古い表示があり、中には鉄道資料館なんかで見る赤い道具・通票閉塞器が置かれていた。「通票」とは単線区間の通行証と言えるもので、自動化以前はタブレットなど通票を持つ列車だけが、その区間を通行する事ができた。

 ガラス窓には「次の鉄道作業体験室公開は…」という貼紙がしてあった。月に一回程度、旧事務室が公開され、タブレット取扱いなどかつての駅員さんの作業が体験できるという。昔の駅の仕事を現代の人に伝える…、言うなれば鉄道無形文化遺産だろうか。

輪行の旅、平成筑豊鉄道・油須原駅からDahonK3で…

 思わず長居してしまったが、そろそろ出発しなければいけない。折りたたみ自転車のDahonK3を展開し、惜しみつつ振り返り油須原駅を発った。途中まで田川線を辿りつつ、今日は同じ福岡県内の築上市を目指して走る。

[2022年(令和4年)11月訪問](福岡県田川郡赤村)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

建て替えか…?今後に揺れる歴史ある駅舎

 JR桜井線(愛称: 万葉まほろば線)には、貴賓室を備えた木造駅舎が残っている事で知られている。

 畝傍駅の開業は1893年(明治26年)。桜井線の起源となる大阪鉄道・高田‐桜井間の開業時に開業した。初代天皇の神武天皇陵や、神武天皇と皇后を祀る橿原神宮に近く、参拝客で駅は賑わったという。皇族の利用も想定され、駅は開業時から貴賓室を備えていたという。

 神武天皇即位から2600年にあたる昭和15年(1940年)、皇紀2600年祭が大々的に執り行われた。記念事業の一環として、畝傍駅は現在も残る木造駅舎に改築された。

 そんな貴重な木造駅舎が取り壊しの危機に瀕している。JR西日本は畝傍駅舎の橿原市への無償譲渡を提案し、橿原市は活用する民間業者を募る方向だったが、維持費の高さから断念。耐震化工事など初期費用だけで2億円と莫大が額が試算され、財政状況が厳しい中、橿原市がそこまで負担するのは困難だろう。

 しかし駅舎の保存を望む人々が「JR畝傍駅舎の保全活用を進める会」を立ち上げた。会の設立は最後の希望。しかし無償譲渡の期限は2023年3月。それまでに保全活用の道筋が立てられなければ取り壊され、悲しい位の小さな駅舎に変わり果ててしまうだろう…

シンプルだが宮廷を思わす風格ある木造駅舎

 名古屋から近鉄特急に乗り大和八木駅で下車した。JR西日本・畝傍駅から歩いて10分もしない大和八木駅は、橿原線、大阪線の4方向からのレールが交わり、京都、奈良、大阪にも繋がる。特急列車もほとんどが停車する主要駅で、もっと近くには、橿原線の八木西口駅がある。近鉄は畝傍駅よりはるかに利便性は高く、畝傍駅はいつも閑散としているものだ…

 大和八木駅から南に歩くと、JR畝傍駅に突き当たった。

 何回か訪れているが、相変わらず壮大な木造駅舎だ。左側の屋外改札口跡を覆う上屋はまるで大きな翼を広げているかのよう。そんじょそこらの駅をはるかにしのぐ威光。駅舎右側の約3分の1程が、あの貴賓室となっている。

桜井線・大柄で威容感じる木造駅舎のある畝傍駅、右側に貴賓室。

 貴賓室という稀有な個性こそがあるが、駅舎の造りは特に手は込んでいなく素朴な雰囲気で、よくある木造駅舎がそのまま大きくなったような感じだ。

桜井線・畝傍駅舎、左側降車用改札口跡の広大な木造上屋

 駅舎左手に広がる屋外の降車用改札口跡に来てみた。一つ一つ古びた木で組まれた空間は郷愁溢れ深い渋味感じさせる。かつては出雲大社の参拝駅として賑わった旧大社駅のように、いくつも改札ラッチが連なっていたのだろう。橿原神宮、神武天皇陵への参拝客でで賑わった過去を思い起こさせる。

桜井線・畝傍駅舎、軒を支える木の柱と打ち込まれた釘

 広大な上屋を支えるのは一本一本の木の柱。長い年月で風化し木目浮かぶ。その昔、職人さんが打ち込んだのだろう…、根元に打ち込まれた釘はすっかり錆び付いていた。

畝傍駅、大柄な木造駅舎の軒は宮廷の回廊を思わす

 普通の木造駅舎よりも大きな駅舎は人を小さく見せ、不思議な感覚にさせられる。

 大柄な駅舎に回廊のように巡らされた軒の下を歩いていると、まるで宮廷にいるかのような心地になる。昭和天皇や皇太子時代の上皇と上皇后も利用された駅という歴史がそう思わせるのか…?でも、ヨーロッパの宮殿や邸宅のきらびやかさを思えば、寺社など和風の歴史的建造物は木造でシンプルではあるが、荘厳さを感じるもの。畝傍駅舎もそんな風に思う。

 古い畝傍駅舎の写真を見ると、かつては降車用改札口の上屋が南に90度曲がり、更にもう一つの建物と繋がっていた。それが何の建物かは知らないが、益々、宮廷のような風情に満ち溢れていた。

閉ざされた貴賓室

 駅舎右手の貴賓室の方に行ってみた。駅舎前全体はコインパーキングとなっていて、貴賓室前にも車が止められていた。少し撮影しずらいが、幸い隣二区画は開いていた。シャッフル状態で、全部埋まっていたら不運だったが…

桜井線畝傍駅、駅舎右側の貴賓室の木の扉

 貴賓室の辺りは屋根は入母屋風の造りになっている。出入口は木の扉で固く閉ざされている。貴賓室として最後に利用されたのが1959年(昭和34年)、皇太子殿下と美智子様が、ご成婚を橿原神宮に報告参拝に来られた時。

 重厚で味わいある扉だが私には恨めしい…。貴賓室の中を是非とも見てみたいものだが、非公開。しかし1年に1回程度、不定期に公開されている。時折、畝傍駅の事を思い出しては公開日は無いかと調べるのだが、なかなかない。気が付いても1ヶ月を切っていてて、休みの調整がつかなく泣く泣く行けなかった事が何度あった事か…

JR畝傍駅の木造駅舎、貴賓室前の造り

 そう言えば貴賓室に出入りする階段が無いなと思った。気持ち高い段差はあるものの、脚が悪くなければ簡単に昇り降りできる。しかし、天皇陛下に対し、この程度の段差を上れというのも失礼だろう。

 よく見ると両端からブロックの縁のようなのもが、緩く弧を描きながら扉の前に続いていた。そして扉の前だけコンクリートの色が微妙に違う。多分、かつては階段があったが、貴賓室として使われなくなってだいぶ過ぎ、埋められたのかもしれない…

桜井線・畝傍駅貴賓室、出入口脇の照明の台座跡

 木の扉の両脇には、照明を抜き取った痕跡が残っていた。簡素だがどんな品格ある照明が取り付けられていたのかと思うと、わくわくする。

 切望し続けたが、この扉、6日後には遂に私にも開かれる事になる。

昔日の賑わい感じさせる駅…

 駅舎内部の待合室の中に入ってみた。

桜井線・畝傍駅舎の待合室、広いが無人駅で窓口は塞がれた

 天井は高く面積もかなり広い。しかしちょうど38年目位の1984年(昭和54年)10月20日より無人駅となった。列車が発着するひと時は賑わうが、過ぎ去ってしまえばひっそり寂し気な空気に戻る。

 窓口は塞がれ、改札・出札口と手小荷物用の窓口がひっそりと残る。だだっ広い割に、ベンチは壁際に数脚あるだけだった。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、窓口跡の大きな掲示板

 窓口跡の上には、大きな掲示板が残されたままだ。4~5m位あるだろうか?駅舎の大きさに合わせ、かなり長い。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、待合室片隅の窓口のような一角

 待合室内、窓口跡の反対側の一角には、箱のような小さな部屋が残されていた。小さな木のカウンターを備え、下部にはドアノブが付いた扉もあった。ここからこの小部屋に出入りしたのだろう。

 ここは何だったのだろうか…。売店?参拝客のための案内所?それとも遠方からの参拝客もいた事だろうから、旅館の案内所でもあったのだろうか?

桜井線・畝傍駅プラットホーム、柵や上屋を支える柱は木製でレトロ

 プラットホームは長く幅の広い相対式ホームが2面の配線。今では一時間に1本か数本、基本2両編成の列車がやってくるだけ。駅舎に面した1番線が桜井・奈良方面、離れた2番線が高田・王子方面のホームだ。

JR畝傍駅1番線、ホーム端の古い木の柵

 1番ホーム端の方だけ、古い木の柵が残っていた。木の柵にはちょっとした装飾が施され、レトロな趣き。

畝傍駅の木造駅舎、ホームと貴賓室を結ぶ階段の木の手摺り

 駅舎ホーム側も長く広い木の軒で覆われ、まるで宮廷か寺社の回廊のよう。

 長いホームと回廊を備えた駅舎は3つの階段で繋がれていた。そんな風景を見ると、なんて壮大な駅舎だとしみじみと思った。

 西側の階段は貴賓室に、真ん中の階段は改札口跡に続いている。二つとも手摺りは木製で古び、こんな所にも駅の歴史が宿る。もう一つは、あの降車用改札口跡に続いていたが、手摺りは既に撤去され、ホームとは金網で仕切られていた。コンクリートの階段だけが残り、かつての名残を感じさせた。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、貴賓室目線から見た階段

 貴賓室ホーム側の塞がれた扉の前に立った。畝傍駅が華やかだった頃、天皇陛下、皇太子殿下がどんな風景をご覧になられたか追想したかったからだ。いや、何と恐れ多い!私なんかは良くてもお付きの人だと思い直し、味わいある階段をしばし見つめた後、ホームに上った。

[2022年(令和4年10月訪問)](奈良県橿原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

6日後、貴賓室内部へ…

 この訪問から6日後、イベント「畝傍駅音楽マルシェ」の一環で、畝傍駅貴賓室が公開された。貴賓室内部について詳しくは以下の記事
JR畝傍駅貴賓室~往時のまま時だけが流れた気高き空間~
までどうぞ。

JR桜井線・畝傍駅の木造駅舎、天皇陛下が利用された貴賓室が残る
公開された畝傍駅貴賓室(2022年10月)

畝傍駅FAQまとめ

  • 畝傍駅の貴賓室は公開されている?

    通常は非公開だが、不定期、1年に1回程度、公開される。公開日は大きなニュースにならないので、常にネット等で情報のチェックを。最近では畝傍駅を主会場にした音楽イベント「畝傍駅音楽マルシェ」が時々開催され、その時に貴賓室も公開されているようだ。公開時の様子はこちらの記事へ。

  • 畝傍駅舎は取り壊されるの?

    きわめて危険な状況。橿原市へ無償譲渡・活用の話があったが、改修など初期費用に莫大な額が見込まれる事から暗礁に乗り上げた形。保全活用を模索し市民らが「JR畝傍駅舎の保全活用を進める会」を立ち上げたが、JR西日本への回答期限の2023年3月は迫る…。近年の概要は記事へ。

  • 畝傍駅の現駅舎はいつ建てられた?

    昭和15年(1940年)、皇紀2600年祭事業の一環として改築された三代目駅舎。

  • 貴賓室が最後に使われたのはいつ?

    1959年(昭和34年)、今の上皇ご夫妻で当時の皇太子殿下と皇太子妃の美智子様が、橿原神宮にご成婚の報告にいらした時。

昭和のような空気感に迎えられ…

 山陰本線・湖山駅から折りたたみ自転車を漕ぎ、宝木駅(ほうぎえき)を目指した。

宝木駅のある鳥取市気高町の眺め

 日本海側に出て坂を超えると、行く先に街並を見下ろした。目的の宝木駅はあの中だ。

鳥取県鳥取市気高町、宝木駅近くの街並み

 無人駅となった駅で、寂れどれだけひっそりした所にあるのかと想像していたが、坂を下ると、家屋などが密集する懐かしい雰囲気の街並があった。古くからの街なのだろう。これなら、かつて駅に銀行が入居していたのも納得だ。

 そして宝木駅に到着。駅前の駐輪場に自転車を停めた。

 近くのスピーカーからは流れる曲は何故かド演歌。そして駅舎の軒下には、飲料を持ちながら気だるそうに座るた一人のおじいさんがいた。酔っ払い…!? 昔の地方の駅には酔っ払いがよくいたものだが、令和になってまでいるのか…。しかも静かな駅前に流れる演歌が不思議な時代感を掻き立てる。

 駅舎前景を撮影したいが、とりあえず他の部分から見る事にしよう。

山陰本線・宝木駅、旧駅事務室にはかつて銀行が入居していた

 旧駅事務室には2018年7月までは銀行が入居していた。銀行の撤退は4年前だが、その痕跡はよく残る。窓は格子で覆われ、ガラスの扉は内側が更にシャッターで覆われるなど、多額のお金を取り扱っていたためガードは他の駅より固めだ。

山陰本線・宝木駅、廃れた側線跡

 駅構内の鳥取方面には側線ホーム跡が残っていた。2線分と広さがあり、1線はいまだにレールが残る。宝木駅での貨物の取り扱いが廃止されたのが半世紀も前の1970年。敷かれたままのレールは錆び付き、ホームの石積みは風化し遺跡のよう。長い年月を感じさせる。

山陰本線・宝木駅、キハ121系気動車の普通列車

 1番ホームはゆったりとした幅がある。この辺りは2004年、鳥取市に合併される前は気高町で、更に前の1955年までは宝木村という自治体だった。本線の駅で村の玄関口の駅の風情をいまだ残しているかのようなゆとりだ。

 ちょうど鳥取行きの普通列車が入線してきた。山陰でよく見る古参の国鉄型キハ40ではなく、新しいキハ121だった。

取り壊される方向の木造駅舎

 あの男性がいつの間にか立ち去っていたので、駅舎をじっくり堪能しよう。

JR西日本山陰本線・宝木駅、かつて銀行が入居していた木造駅舎

 駅舎は新建材の外観で、旧駅事務室に銀行が入居していたため新築のようで、古き良き味わいは今一つ。しかし軒が取り囲む造りが、古い木造駅舎らしい端正さを残している。

 宝木駅の開業は1907年(明治40年)4月28日。この駅舎はいつ建てられたのかはっきりしないが、かなり古いのだろう。

 木造駅舎など山陰地方の古駅舎は、近年、簡易駅舎への建て替えがが進んでいる。鳥取県内では、山陰本線5駅、因美線4駅で「駅舎のシンプル化」の方針が公表された。乗降客数一日3000人未満で、築60年が過ぎた駅舎が対象だ。一日の乗客数130人程度、銀行が撤退した宝木駅舎もその一つ。地元も乗降客の利便性を損なわない程度のシンプル化は止む無しとの考えだ。

 取り壊し時期は今の所未定で、シンプル化対象の駅が順番に15年以内に建て替えられていくという。

山陰本線・宝木駅の木造駅舎、木の古い柱

 外観のほとんどは改修されたとは言え、軒を支える木の柱は古いまま。古び色あせた木の柱が並ぶ様は、歴史ある寺社の一部を見ているかのよう。「宝木」という有難そうな駅名がそう思わすのか…

宝木駅の木造駅舎、新し木材を継ぎ足され改修された柱

 何本もの古い柱の一本は、真新しい木を継ぎ足され改修されていた。風化し木目浮かぶ部分と、まっさらでつるつるの部分との差は歴然。

 古駅舎のほとんどは、いつか取り壊されるものだ。しかし、こうして懸命に維持されてきた木造駅舎。取り壊しの運命を突きつけられたのは虚しさを感じずにはいられない…

山陰本線・宝木駅の待合室、無人駅となり閉じられた窓口跡

 待合室も大きく改修されている。簡易委託駅として数年前までは使われていた切符売場も残っていた。

山陰本線・宝木駅、出入口の枠やベンチなど木造駅舎らしい造り…

 しかし木の古い造り付けのベンチ、改札口付近の木材など、僅かながらも木造駅舎らしい趣ある造りを残していた。

[2022年(令和4年)8月訪問](鳥取県鳥取市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

美作加茂駅から折りたたみ自転車で知和駅へ…

 知和駅を訪れるため、早朝5時1分津山発の因美線始発列車に、輪行袋に入れた折りたたみ自転車を抱え乗り込んだ。と言っても、この列車は快速で知和駅は通過してしまう。智頭始発の上りに、車両を送り込むためのダイヤで、需要があっての快速ではない。なので、さっさと車両を送り届けるため、利用者が特に少ない駅は通過しているのだろう。

 私の他1人の乗客を乗せ、列車は夜が明け始めた空駆けだした。

因美線、美作加茂駅を発つ早朝の下り始発列車

 定刻の5時28分、美作加茂駅に到着した。

 少し駅を撮影すると、駅の外で自転車を展開した。ここからは自転車で知和駅へ走る。道はほぼ因美線に沿っているので、大体4㎞位だろうか?

因美線・美作加茂駅-知和間の沿線風景

 レールができるだけ見える道を選びながら走った。この時間の列車は無いが…。道は緩やかな上りが続いた。だけど苦にならない程度で、すいすいと知和駅に進んだ。

自転車で因美線沿線を走り、知和駅が見えてきた…

 もうそろそろかと思った頃、見慣れた感じの待合室やワンマン運転用のミラーが少し遠くに見えた。知和駅のプラットホームだ。

折りたたみ自転車・ダホンK3で因美線の知和駅へ…

 道中、写真を撮りつつ走り、30分程度で知和駅に到着した。まずは旅を共にしている愛車・Dahon(ダホン)K3を入れ記念撮影…。

 2009年以来、約13年振りの訪問だ。そして初めて訪れたのが2004年。それから18年経っているが、素朴な木造駅舎は、ほとんど変わらぬ姿のまま私を迎え入れてくれた。

変わらぬ佇まいの純木造駅舎

 毎年、いくつもの古駅舎が失われているが、これぞ純木造と言える駅舎は相変わらずで、何と喜ばしい事か。新しさ感じる現代的なものは無く、古びた木の質感が更なる風格をを添える。

 知和駅の開業は1931年(昭和6年)9月12日、美作加茂駅‐美作河井間の延伸開業時。その時以来の木造駅舎が現役。何と築91年だ。

因美線・知和駅、一面一線のホーム

 ホームは一面だ。駅舎との間に植栽が植えらているのが田舎の駅らしいゆったりとしたムード。桜の木も何本も植えられている。今度は絶対、桜咲き誇る春に来たい。

JR西日本因美線・知和駅、側線ホーム跡

 旅客ホームは1線だが、智頭方には側線ホームの跡があった。ただ廃されて何十年と過ぎたのだろう。すっかり雑草だらけになり地面に溶け込み、木々は小さな側線ホームを覆う程に成長している。

因美線・知和駅の木造駅舎、側面も古い造りを残す

 駅舎側面には倉庫の引戸があって、駅員さん用の出入口があって…。こんな所の昔のままの造りもまた味わい深い。

因美線・知和駅、窓枠は全て木製の純木造駅舎

 駅舎の窓はすべて木枠。外観が木の質感豊かな純木造と言える駅舎でも、窓はサッシ窓に取り替えられている駅が多い。しかし知和駅の窓枠は全て木製。何と郷愁溢れる佇まい!正面、駅事務室跡の窓はかつてサッシだった。しかしいつしか木枠に取り替えられた。「ほとんど変わらぬ姿のまま…」と言ったのは、この部分が変わってていたから。だけど、いい風に変わったものだ。

因美線・知和駅の木造駅舎、築90年を超え風化が進む…

 駅舎の木の板張りは古びている。いや…、長き年月に削らたようにすっかり風化しているといった趣。薄くなった板には皴のような木目がいくつも浮かび上がっていた。

因美線・知和駅、古びて苔生す木造駅舎

 板張りがすっかり古くなり、地面に近い部分には苔さえ生していた。長き年月をしみじみと感じる。しかし少し心配ではあるが…

因美線、早朝の知和駅に入線した津山行き一番列車

 列車接近の気配がしたのでホームに出てみると、津山行きの列車が入線してきた。知和駅に停車する今日最初の列車だ。先ほど美作加茂駅までり、智頭から折り返して来た車両だ。

素晴らしき待合室、そして窓口跡…

因美線・知和駅の木造駅舎、昔のままの待合室

 外観だけでも素晴らしいのだが、知和駅の凄みはこの待合室にこそあると思う。改札口、造り付けのベンチ、窓枠、窓口跡、天井…、すべて古びた木のまま。まさに何十年も前で、時が止まったままの空間。ここまでの木造駅舎はもうほとんど無い。知和駅に来るのは3回目だが、その度に同じ写真を撮っている。それでも飽きる事は無い。

因美線・知和駅、ほぼ原形を留めた木造駅舎らしい窓口跡

 出札口(切符売場)と手小荷物窓口も昔の造りをほぼ留めている。木のカウンターもそのままだ。

 細かい事を言えば、JR西日本シールが張られた出札口の窓部分が改修され、一枚の大きな窓になったと思われる。昔は木次線の八川駅のように、木枠で細かく仕切られていたのだろう。しかしそんな改修をものともしない程い、木で組み上げられた空間は、しみじみと味わい深さを感じさせる。

因美線・知和駅の木造駅舎、昔の造りを残す駅事務室跡

 知和駅が無人駅となったのは、1970年と半世紀も前だ。しかし駅事務室内部は、昨日まで駅員さんがいたのではと思わせるほど昔の造りを留めている。そして古いながらもきれいで、荒んだ感じは皆無だ。

 室内の黒板を見ると、地元の老人会の方々が出入りしているよう。きっとこの駅舎に、色々と気を配り大切にしてくれているのだろう。いつか私もこの中に入ってみたいもの…

因美線・知和駅、ダホンK3を輪行袋に収納し列車を待つ…

 美作加茂駅で自転車を展開したばかりだが、再び輪行袋に収納しホームまで担いだ。そして、智頭行きの下り列車を待った。今日の駅巡りは始まったばかりだ。

[2022年(令和4年8月訪問)](岡山県津山市加茂町)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

.last-updated on 2022/08/31