念願の貴賓室公開日
奈良県のJR畝傍駅の木造駅舎を訪れてから6日後、再び畝傍駅を訪れていた。畝傍駅をメイン会場にした音楽イベント「畝傍駅音楽マルシェ」の一環で、畝傍駅舎内に残るあの貴賓室が公開されるからだ。長い間、貴賓室を見たいと思い続けていたが、なかなか機会に恵まれなかった。大阪で他の用事もあり6日前に畝傍駅を訪れたばかりだが、これは訪れずにはいられない。駅舎は取り壊しの危機に瀕していて、この機会を逃すと、もう次は無いかもしれない…
近鉄の大和八木駅から歩き突き当りにある畝傍駅は、いつもひっそりとしていた。しかし畝傍駅音楽マルシェの今日は賑やかだ。駅舎の屋外改札口跡では生バンドの演奏が行われている。あの大きな軒下は、こんなちょっとしたイベントにぴったり。
駅前の露店では、地元のレストランや食べ物やさんが出店している。後でランチに何か頂こう。
駅舎正面右側、固く閉ざされたままだった貴賓室前の扉は確かに開かれていた…
そして一歩
中に入ると、駅舎を南北に抜ける通路があった。貴賓室の写真は見た事があり、扉の向こうにいきなりあれがあるかと思っていたが、想像力が貧困過ぎた…。普段は非公開の貴賓室。イベントもあり賑わい、撮影も一苦労だ。
通路の両側には、畝傍駅の歴史や各地にあった駅の貴賓室などを紹介したパネルが展示されていた。そしてパネルの間を通り抜けた反対側にも木の扉…、宮廷のような荘厳な駅舎ホーム側、そして木の手摺りがあるあの階段に続いているのだろう。
こうしてちょっと見る限りは、老朽化はさほど感じない。質素だが、木造駅舎という響きがしっくり来る味わいある空間。でも昔はもうちょっと装飾があったのかもしれない。
初代天皇の神武天皇の即位から2600年、1940年(昭和15年)に国家の威信を発揚する紀元2600年祭が大々的に挙行された。神武天皇を祀る橿原神宮でも行事が執り行われ、橿原神宮に近い畝傍駅も、その一環として現駅舎に改築された。しかし時代は戦争の色は濃くなっていく一方なので、控えめに仕上げられたのかもしれない。
貴賓室は通路の右側に配置されている。
しかし手前にもう一つ部屋があった。門司港駅の貴賓室にもあったが、次室などと呼ばれるお付きの人々が控えた部屋だったのだろう。
例え朽ちようとも…
次室の南隣に、貴賓室の主室があった。貴賓室として最後に使われたのは、現上皇ご夫妻が、ご成婚を橿原神宮に報告に来られた1959年(昭和34年)。それ以来、ほぼ当時の姿のまま、時だけが流れた空間はすっかり色褪せセピア色だ。屏風の後ろに幾重に波状の折り目が付けられたカーテンは手が込み上等そうだが、完全に朽ち色あせてしまった。十数畳ばかりの古びた室内は、閉塞感というか廃墟のような重苦しささえ漂わす。それでも玉座が、いつでも貴人を迎えられるかの如く配されている光景は重厚で威厳溢れる。打ち棄てられたように時を経てどれだけ古くなっても気高さは失っていない。
よく見ると、壁紙には紋様が標されていた。だいぶ色あせてはいるが。天井の隅も丸みが付けられ丁寧に仕上げられている。その辺は廊下や次室と違い、高級な造りとなっている。
照明はシンプルだが、以前はシャンデリアが吊るされていたという。そのシャンデリアは撤去こそされたが、現在でもJR西日本が保管しているという。
貴賓室は主室を除けば意外と簡素で、主室も今でこそ色を失っているかのよう。しかし、半世紀以上も昔、この部屋は和洋の豪奢さが詰まった荘厳さ溢れる空間だったのだ。
貴賓室と次室に隣接しお手洗いが設置されている。タイル張りでこちらも意外と簡素だが、昭和10年台で洋式便器というのは、珍しいのかもしれない。
洋式便器の横には「ご使用後はこの紐を御引き下さい」という注意書きが残ったままだ。紐はもう無いけれど…
洗面台は二つあって、一つの方は石鹸用の蛇口があった。もう一つの洗面台はお湯が出たという。簡素でも、このあたりが、やんごとなき人への気遣いというものなのだろう。
このお手洗い、貴賓室と次室の両方から出入りできる。お付きの人にしてみれば、共用とは恐れ多い気もするが、陛下や殿下がご在室の時は利用を控え外のお手洗いを使ったのかもしれない。
お手洗いから玉座をより間近に見た。元々は新大阪駅のものだという。花の紋様が織り込まれた白い布地はいまだ艶々としている。
貴賓室を見た後、ホームと貴賓室を繋ぐ階段の前に立った。駅舎という空間は、より一層重厚に私の目に映った。
[2022年(令和4年10月訪問)](奈良県橿原市)
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