JR四国随一のレトロ駅舎

金刀比羅宮の門前駅・琴平駅に停車するアンパンマン列車の特急南風

 トップクラスの秘境駅として名高い坪尻駅を訪れた後、阿波池田駅から特急南風で琴平駅に降り立った。こんぴらさんこと金刀比羅宮門前の駅が、アンパンマンのキャラクター達で溢れた光景にちょっと当惑させられた。

琴平駅上屋の軒飾り、駅じゅうにあしらわれた丸金(マルコン)マーク

 しかし列車が行くと景色は開け、2・3番ホームを覆う木造の上屋の軒飾りに、こんぴらさんを意味する丸金(マルコン)マークがあしらわれていた。

JR土讃線・琴平駅、駅舎に面した堂々たる2番ホーム

 駅舎に面した2番線は広々とし木の上屋で覆われ、昔ながらの主要駅の風格に満ち溢れる。上屋の柱は古い木のままだが、屋根はわざわざ木の板に取り替えられた。明るい茶色は、まだ新木の香りが漂ってきそうな若々しさだ。

 早速、琴平駅の駅舎を正面から見てみた。ファサードの大きな三角屋根が印象的な洋風の木造駅舎で、大きな車寄せも備える堂々たるいでたち。東北本線の白河駅と似ている。

 私が初めて訪れたのは2005年で、その頃は、明るめの色合いだった。車寄せには駅名の看板ではなく、駅名を象った大きな電飾の表示がインパクトがあったものだ。

 2017年に完了したリニューアルでは、竣工の大正時代の姿を再現する事に配慮されたという。濃い茶色を基調にしたシックな色使いになり、駅舎前の説明版には北欧風と標されていた。電飾の駅名表示は無くなり、車寄せの下に普通の駅名看板が掲げられていた。

 駅舎右側は、かつては団体改札口の上屋だったというが壁で囲われ、JR化後に鉄道資料館となった。私が初めて訪れた時には閉館日…、もしくは既に休館となっていた記憶がある。

 この陳列所一号と呼ばれるようになった一室は、現在では土讃線の観光列車「四国まんなか千年ものがたり」の乗客ラウンジ「TAIJU」となっている。

JR土讃線・琴平駅、車寄せや採光窓が印象的な洋風木造駅舎

 三角屋根の中の半円の窓、同じみのマルコン印の軒飾り、凝った装飾の車寄せが印象深い洋風の木造駅舎だ。正面に掲げられた半円は国立駅の旧駅舎や、伊予鉄道の今は無き三津駅旧駅舎を思い起こさせた。

 琴平駅の開業は1889年(明治22年)5月23日。讃岐鉄道時代で、丸亀‐琴平間の開業時だ。その後、1904年(明治29年)に山陽鉄道に買収、その山陽鉄道も1906年(明治39年)に国有化された。

 明治の開業時は400mほど西に位置していたが、阿波池田方面延伸のため、1922年(大正11年)に現在地に移転。現在の駅舎はその時に建てられた三代目だ。

 この駅舎は2009年(平成21年)には近代化産業遺産に、2012年(平成24年)には、他の5つの同駅施設と共に登録有形文化財に指定された。

土讃線・琴平駅、洋風駅舎の前に灯篭が並び参道のよう…

 駅正面の道に灯篭が並べられた風景は参道のよう。こんぴらさんへの参詣ムードを高めるが、駅舎に拝みたくなるような風情だ。

琴電琴平駅前の大鳥居からJR琴平駅を見る

 琴平駅から200mほど西に大正14年に建立された大鳥居がそびえる。その足元の金倉川沿いに琴電琴平駅がある。かつてこの位置から琴平駅を見て、両者のライバル関係を感じたものだ。あの派手な電飾の駅名は「こっちには琴平駅があるよ」という強烈なアピールだったのだろう。

 今の感覚では信じられないが、かつてはこの地に4線もの鉄道路線が入り乱れていた事がある。現在の土讃線、高松琴平電鉄は高松から。そして半世紀以上昔に廃線となっているが、坂出からは琴平急行電鉄、多度津・宇多津方面からは琴平参宮電鉄が乗り入れていた。それぞれの駅は琴平駅から伸びる道沿い約400mの間に、東から琴平駅、琴電琴平駅、琴平急行電鉄の琴急琴平駅、琴平参宮電鉄の琴参琴平駅の順番で位置し、まるで大都会の中心地並の趣き。

 鉄道が新進の交通機関で勢いがあったのだろうが、当時、寺社参詣は人気の大衆的なレジャーで、名高い金刀比羅宮ゆえにそのような状態になったのだろう。

 琴平駅があのような印象深い洋風駅舎になったのは、元々、参詣で多くの需要が見込めたのだろが、官設鉄道の威信にかけて、ライバルに負けないような威風堂々とした駅舎を造り上げたのかもしれない。

JR四国土讃線・琴平駅、セブンイレブンもある待合室

 駅に戻って来た。待合室や出札口がある駅舎内部は広々とし、参拝客で混雑した最盛期を思い起こさせるが、改修されすっかい現代の駅の姿に。しかし、レトロなイメージをできるだけ壊さないように、茶色を基調とした落ち着いた雰囲気だ。キオスクに取って代わったセブンイレブンも、見慣れた色ではなく、駅舎に合わせ控えめな色使いだ。

こんぴらさんと歩んだ歴史感じるホーム側

JR四国土讃線・琴平駅、改札口の金毘羅宮の紋章

 改札口はリニューアルで新しいものになったが、以前のように金刀比羅宮の特徴的な社紋が標されている。

 ICカードリーダーはあるが、ごっつい鉄製の有人改札口や、金刀比羅宮の社紋が標された団体用と思われる出入口は、ふた昔位前の主要駅改札口を思い起こさせる。

JR四国・土讃線・琴平駅、駅舎改修で閉塞器室もレトロに再現

 古い駅舎でよく見るホーム側の出っ張り「閉塞器室」も、改修で昔風の造りに。ガラス窓部分は木枠で細かく仕切られたおたふく窓だ。

JR土讃線・琴平駅の洋風駅舎、船の窓を模した?装飾

 駅舎の壁の所々に丸い木の装飾があった。海上交通の神様のこんぴらさんにあやかって、船の窓を模したのだろうか?

JR四国土讃線・琴平駅、堂々たる風格ある3・4番線の木造上屋

 2番線だけでなく3・4番線ホームも木製の重厚な上屋で覆われている。ここから駅全体を眺めるのも歴史が感じられていいもの。

 しかし3・4番線に発着する列車は多くないようで、次の出発は2時間近く先だ。できるだけ跨線橋を渡らなくていい1・2番線を使っているようだ。

琴平駅、海上交通の神様・こんぴらさんにちなんだ船型の洗面台

 3・4番線の船の形をした洗面台もこんぴらさんらしさ溢れユニークだ。ただ、蒸気機関車時代の遺物で蛇口は外されてしまい、使えないようになっていた。

JR土讃線・琴平駅、大正築の洋風駅舎ホーム側の風景

 来年2022年で百歳を迎える駅舎だが、案内表示、掲示物、お土産の看板、そして利用する人々が空間を賑わし活き活きとしている。コロナウィルスの蔓延で、夏休み中にも関わらず観光客の姿はまばらだったが、いつも通りの賑わいが戻ってくる日が必ず訪れるだろう。

 1番線は多度津方にある切り欠きの行き止まりホームだ。名残惜しいが、高松行きの列車に乗って琴平駅を離れた。

[2021年(令和3年)7月訪問](香川県仲多度郡琴平町)

レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

琴平駅の登録有形文化財

琴平駅には大正築の駅舎だけでなく、5つの建築物が登録有形文化財に指定されている。

  • JR琴平駅本屋
  • JR琴平駅旅客上屋一号(3.4番線の上屋)
  • JR琴平駅旅客上屋二号(2番線側の上屋)
  • JR琴平駅乗換跨線橋
  • JR琴平駅陳列所一号

跨線橋は昭和初期築らしいが、その他のものは1922年(大正11年)築。

JR四国土讃線・琴平駅、登録有形文化財となった木造跨線橋
(琴平駅跨線橋。昭和初期築で香川県内最古とか…)

灼熱の秘境駅へ…

 7月のある日、阿波池田駅から多度津行きの普通列車に乗った。乗客はたったの二人。夏休み期間で、もう少し乗り鉄がいると思ったのだが、そんなのは私だけ。コロナウィルスの猛威で出控えている人が多いのだろう。

 吉野川を渡り、ぐるりとカーブし阿波池田の市街地を見下ろすと、列車は山の中に分け入った。

 本線から分岐すると行き止まりの駅に泊った。坪尻駅だ。ホームに降りた瞬間、けたたましい蝉の鳴き声が降り注ぎ、むさくるしいほどの木々の緑が目に飛び込んできた。

JR四国・土讃線、スイッチバック駅の坪尻駅に停車中の列車

 坪尻駅はスイッチバック駅で、勾配がきつい本線の1線隣に設置され駅だ。

 数分、停車したのち、多度津行きの列車はホームから離れていった。一旦、阿波池田方向に逆走し、本線横の引き上げ線に入りしばし停車すると、また方向を変え本線上を駆け上がっていった。

坪尻駅の木造駅舎ホーム側、持ち送りが軒を支える

 さあ、2度目の坪尻駅だ。木造駅舎は健在で何より。ホーム側の軒は、付け庇を柱が支えるのではなく、屋根からそのまま延長してきた庇を、木の棒の持ち送りが支える造り。そして駅舎両側面の板張りが軒の支えとして伸び出ている。

 それにしても暑い…。ついさっきまでは車内でひと時の涼で体を癒していたのだが、もう汗が流れ出る。絶え間ない蝉の鳴き声が暑さを煽っているかのように響く。壁の温度計を見ると36度!猛暑ってヤツだ…

坪尻駅待合室、

 待合室に入るとむっとしたこもった空気に包まれた。待合室に閉じ込められた空気を、この暑さが燻したような独特の臭いだ。これからしばらく過ごす駅。換気をしたい所だが「害虫の侵入を防ぐためドアは閉めて下さい」という注意書きが貼り付けられていた。仕方ない…。時折訪れる人も、注意を忠実に守るため、ろくに換気がされず空気が濁ってしまうのだろう。

まさに秘境駅!深い木々が覆う土讃線の坪尻駅前(徳島県三好市)

 駅を一歩出ると、ただ木々が密集し、幾重にも厚い影を落としているだけだった。駅前通り?街並み?そんなものは一切無い。谷底の駅には人の気配は皆無だ。

貴重な純木造駅舎

土讃線・坪尻駅、今やJR四国唯一となった純木造駅舎が残る

 そして駅舎に振り返った。坪尻駅の開設は1929年(昭和4年)4月23日。当初は坪尻信号所としてで、駅に昇格したのは戦後の1950年(昭和25年)1月10日。この木造駅舎はその約2年前の1948年(昭和23年)に竣工したものだ。

 駅舎は見事なまでに使い古された木の質感溢れる。今となってはJR四国唯一の純木造駅舎と言えるだろう。

 …と言うのも、JR四国にも木造駅舎が多く残るが、JR化後にほとんどが外壁が新建材になるなど、今どきの新築住宅のようにきれいに改修されてしまった。古くくすんだ駅を明るいムードにし、快適に使ってもらおうという方針は経営的には正しい。しかし、レトロなものが好きな私のような好事家には物足りない。

徳島県三次市池田町にある坪尻駅、木造駅舎が残る秘境駅

 駅舎は盛土の上に建てられ、階段で出入りする。

土讃線・坪尻駅、木の質感豊かな木造駅舎はJR四国では貴重。

 木の壁には駅の歴史が刻まれたような木目が浮かび上がる。

 JR四国では発足した頃、駅舎の空きスペースを店舗として活用し、増収を図っていた。それも駅舎徹底改修の一つの理由なのだろう。しかし秘境駅の坪尻駅、店舗としても活用できる見込みどころか、利用客もきわめて少なく、きれいに整える必要性も薄い。そのへんも昔のままの姿で残った理由のひとつなのかもしれない。

 そんな坪尻駅でも、かつてはペンキで装っていた時代があったのか…。パステルグリーンっぽい塗料がかすかに残っていた。

土讃線・坪尻駅の木造駅舎、改札口跡付近

 正面だけでなく、ホームの改札口跡付近もいい質感だ。錆びた鉄パイプ製のラッチ…と、言うか乗車券回収箱もいい味出している。

 その上には「スズメバチ注意」の注意書きが…、つくづく油断ならない駅だ。

周辺を歩くと…

 駅の周辺を少し散策しよう。しかし正面の「マムシに注意」の看板が背筋をゾクッとさせる。下手に歩いていると枯葉の陰に潜むマムシに襲われるかもしれない。スズメバチも気になる…。周囲を警戒しながらゆっくりゆっくり歩いた。

土讃線・坪尻駅、還暦の開業60周年を記念した桜の植樹

 駅舎のすぐ横には坪尻駅還暦記念植樹の桜が植えられていた。旅客開業から60年の平成22年(2010)年1月11日と標されていた。この他にも、少し離れてアメリカ・オレゴン州の訪問団による記念植樹の桜もある。利用客はすっかり減ってしまったが、何のかんの言って愛されている駅だ。

土讃線・坪尻駅南側の踏切

 駅の南側にはささやかな踏切がある。自動ではなく、手動で棒を動かす方式だ。

 踏切の側らには列車通過予定時刻を標した看板もある。アンパンマン列車で運行される特急にはご丁寧にアンパンマンのシールが貼られている。

徳島県三好市の秘境駅、土讃線・坪尻駅の山深い風景

 踏切から坪尻駅を眺めてみた。よくこんな所に駅を作ったなと思えるほど、山の隙間に駅は位置する。

 この地は元々、川底だったという。しかし、鉄路を通す時に、敷地を確保するため、水を流すためのトンネルを掘削し水流を変えてまで、信号所を開設したという。それ程の難所だったのだ。もう少し時代が過ぎれば、トンネルで山を貫通したのだろう。土讃線と並行する国道32号線は、この区間をトンネルで貫通している。

 色々撮影していると、列車の気配がし、下りの特急南風が通過していった。踏切の警報音も無く、カーブ掛かった北側は特に見通しが悪く、突然にやって来たという印象。ここで撮影に夢中になり過ぎるのは危険だ。

秘境駅・坪尻駅近く、集落への山道の途上にある廃墟

 踏切を渡ると山道が伸びて、一軒の荒れ果てた廃墟が不気味に佇む。これが坪尻駅付近の唯一の建物だ。

 そして、道はまだ続いていた。獣道よりマシな程度で本当に道はあるのかと不安だが、600メートルほど登れば、坪尻バス停のある県道5号線に出るらしく、坪尻駅へのアクセス手段の一つとなっている。この道、請願により駅が開設が決まった時に、住民の手で切り開かれた道という。このか細い道は駅の開設を喜ぶ住人の思いが詰まった道なのだ。今度はそんな思いに想いを馳せながら歩くのもいいものだ。

列車待ちのしばしの間に

 しばらくうろうろし、列車の時間が近づいてきたので駅に戻ってきた。猛烈な暑さで、換気のできない待合室にいるより、時折通りぬける風を頼りに日陰にいた方がまだいいかもしれない。

愛が深まる!?坪尻駅のらぶらぶベンチ

 駅には「らぶらぶベンチ」なる木のベンチが設置されていた。谷底の坪尻駅をイメージしたかのように、真ん中が折れ曲がっている。狭い駅でどうしても二人の距離は近くなるという事か…。一緒に座るべき人がいない私は真ん中に座ったが(笑)

土讃線・坪尻駅の木造駅舎、駅事務室の重厚な木の扉

 この駅事務室の重厚な木の扉も。木造駅舎らしさ溢れ素晴らしい。

JR四国土讃線・坪尻駅の木造駅舎、建物財産標

 扉の上には木の古い建物財産標が取り付けられたままだ。この駅舎は「待合所 1号」となっている。

土讃線・坪尻駅ホームに残る枯池

 駅舎の横には廃れた池の跡があった。特徴的な鉄の塔のような構造物は、噴水か何かだったのだろうか?坪尻駅が秘境駅と呼ばれるようになる前は、水を湛え列車を利用する地元住民達ののしばしの憩いの場だったのだろう。

[2021年(令和3年)7月訪問](徳島県三好市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

坪尻駅FAQ+

  • 坪尻駅にトイレはある?

    無い。設備はあるが閉鎖され使用不可。

  • 坪尻駅へ行くバス路線はある?

    四国交通の野呂内線(阿波池田‐野呂内)が、坪尻駅最寄りの坪尻停留所に停車する。但し、半数以上のバスが途中の箸蔵ロープウェイ止まりで、坪尻へは一日三往復。バス停は県道5号線上にあり、坪尻駅はさらに山道を下った約600m先。無舗装の細い道なので、健脚な人向け。車は通れない。

  • 坪尻駅を俯瞰できるポイントはどこ?

    落集落の中に「坪尻駅展望台」が整備された。坪尻駅から直線距離で500m弱に位置(あくまで地図上の直線距離…)。県道5号線より少し上った場所に位置し、坪尻駅近くも通る四国交通野呂内線の落停留所が最寄り。

  • 四国交通野呂内線の時刻、運賃等は?

    四国交通・路線バスのページへどうぞ。ちなみに阿波池田駅から坪尻停留所まで490円。

築百年越えの木造駅舎

JR九州日豊本線の国鉄型415系電車、田野駅終点の普通列車
乗り込んだ日豊本線の下り列車は、この田野駅が終点だった。
JR九州日豊本線・田野駅、かつて菓子屋が入居していた木造駅舎
木造駅舎は開業の大正5年築。かつて入居していた菓子店は店じまいしていた。
日豊本線・田野駅、改修されているが開業の大正築の木造駅舎
改修されまるで新築のようだが、古い木造駅舎らしい雰囲気に仕上げられている。
日豊本線・田野駅、古い木造駅舎らしい木の窓枠
自動販売機の裏には駅の歴史感じさせる使い込まれた木の窓枠が隠されていた。
JR九州日豊本線・田野駅、窓口跡やICカード改札機
無人駅となり、駅員さんがかつていた出札口には時計が掛けられていた。
日豊本線・田野駅の木造駅舎、待合室の木の造り付けベンチ
待合室の壁に巡らされた木の造り付けベンチは見事!脚は取り替えられているがレトロさ溢れる。
JR九州日豊本線・田野駅、駅舎ホーム側
駅舎ホーム側。改札口跡には無人駅ならがラッチ風の木の構造物が設置されている。
日豊本線・田野駅、駅舎ホーム側の古びた木の窓枠
駅舎ホーム側の窓枠も木のままで渋い味わい醸し出す。
日豊本線・田野駅に停車する国鉄型713系サンシャイン塗装
離れる時の列車はド派手な塗装の713系電車サンシャイン塗装。同じ国鉄型でも、先ほど乗って来た列車とは大違いだ。

田野駅訪問ノート

 宮崎市南西部の田野町にある駅で、田野町は2006年1月1日に宮崎市に編入されるまでは独立した自治体だった。旧田野町の中心駅で山間に開けた街並の中に位置する。

 駅の開業は1916年(大正5年)10月25日。開業当時からの木造駅舎が現役だ。

 田野駅は2009年にNHK「にっぽん木造駅舎の旅」で、和菓子屋が入居する木造駅舎として紹介されたのが印象に残っていた。いつかそのお店のお菓子を駅で食べたいものと、密かに思い続けていたが、いざ訪問してみるともう無くなっていて、他の会社が入っていた。放送から10年も過ぎていたので、そうなっていても不思議ではないか…

 木造駅舎は築100年を超えているが、お菓子屋が入居していた事もあり、正面にシャッターが取り付けられるなど、かなり改修されている。しかし残された木の窓枠は使い古され、100年の駅舎の懐の深さを感じさせた。

[2020年(令和2年)6月訪問](宮崎県宮崎市)

レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

旅の終わり、夜の情感を味わいつつ…

えちぜん鉄道・勝山永平寺線・追分駅、トタン張りに改修された木造駅舎
1泊2日のえち鉄駅巡りの旅で最後に訪れたのが追分口駅。トタンで覆われた木造駅舎は闇の中に
えちぜん鉄道・追分口駅、車両より狭い?プラットホーム
ホームは車両より狭いのではと思えるほど幅が狭い。構内通路で駅舎を介さず直接、外に出られる。
えちぜん鉄道・勝山永平寺線、夜の追分口駅構内
旅の終盤でまみえる夜の情感はいっそう心にしみるもの…
えちぜん鉄道・勝山永平寺線・追分駅、きれいに改修された待合室
トタンで古びた外観に比し、待合室内部の壁は真新しい木で改修され素朴な雰囲気。窓口と駅事務室だった場所も待合室に。
えちぜん鉄道・勝山永平寺線、追分口駅舎、待合室内の駅文庫
造り付けの本棚が壁に埋められミニ文庫や生花が、木の温かみが引き立たせるかのよう…
えちぜん鉄道・勝山永平寺線、追分口駅舎、待合室の古い木枠の窓
だけど窓枠は古いままなのが味わいがあって良い。錠は鉄の棒を立て中に差し込んでくるくる回すレトロなやつ。
えちぜん鉄道・勝山永平寺線、袋小路のような奥まった立地の追分口駅
駅舎は住宅の袋小路のような場所にひっそり佇む。車は通り抜けられない。

追分口駅訪問ノート

 木造駅舎の外壁は白いトタンで改修されていた。安っぽさは否めないながらも、それでも軽快な雰囲気に。えち鉄には無名の木造駅舎が多く残るが、山王駅など多くがこのように改修されている。いわば「えち鉄仕様」の木造駅舎と言える。

 更に内部は壁が素朴な木の板に改修されていた。木の温かみが感じられる落ち着いた空間は、自然志向の今どきのお店か何かのよう。私のような古くレトロな駅舎が好きな者は、使い込まれ古くくすんだ方が味わいがあると感じるものだろう。しかし一般の利用客にとっては、きれいに改修されていた方が居心地がいいと感じるもの。列車と人を繋ぐ接点である駅を明るい雰囲気にして、快適に利用してもらおうというえち鉄の心意気を感じる。

 追分口駅の開業は1915年(大正4年)5月13日。この駅舎は何年に建てられたかは不明だ。

[2014年(平成26年)11月訪問](福井県福井市)

レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

駅中が鉄道遺産、見所だらけの門司港駅を堪能

大改修が終わり竣工の大正時代の姿に復原された門司港駅の駅舎

 門司港駅舎2階に復刻されたみかど食堂でランチを味わい、ヴェールが外され全貌を現した門司港駅舎を正面から堪能した後、右側に回り込み西に少し歩いた。

 すると駅構内の車両留置線横の扉が開いているのに気付いた。足を踏み入れたいけど、ここ一般人立ち入り禁止だよなあ…。しかし、ただの通行人が何人も駅から、または駅へと通り抜けていた。どうやら通路として開放されているらしい。

JR九州・鹿児島本線・門司港駅ホーム横の車両留置線

 中に入ると5番ホームの横に、数本の留置線がありJR九州の車両が止められていた。1番線の側面はもっと広い留置線があるので、なかなかの規模だ。

 すぐ背後には標高362mの風師山がそびえる。その様、まるで麓のマンションを圧するかのよう。海沿いの狭い土地をなんとか切り開き広大な駅と街を作っていったものだ。

JR九州・門司港駅構内にある木造建築の駅施設

 留置線から少し駅舎の方に進むと、古めかしい木造建築が数棟、残ってた。ちょっとした規模の古い駅には、一般的に駅舎と言われる駅本屋の他に、色々な施設で構成されていた。洋風でもないくすんだ木造建築が門司港駅に残っている様は、普通の駅臭さも感じさせた。まさに隠れた見所だ。

 今では、建物の一つに忘れ物預かり係の看板が出ているが、よく見ると木の建物財産標が残っていた。そこには「会議所 建第8号 門司港駅 会議所 昭和23.2」と標されていた。他に門鉄広告協同組合事務局が国鉄の頃、使用していた旨のプラスチックの看板も残されていた。

門司港駅構内に残る関門連絡船通路跡

 そのまま駅の中に進むと、駅構内に関門連絡船の地下通路跡があった。階段を下りると往時の通路は塞がれていた。塞がれた壁面にはこの先にかつてあった関門連絡船の写真が拡大され飾られていた。

 連絡船のすぐ後ろには門司港駅舎と、その隣に現在も残る旧三井物産門司支店(後の国鉄門司鉄道管理局etc…)のビルも写り込んでいた。今では遠くなってしまった感があるが、やはり随分と近くにあったのだ。

 階段横の四角い穴は、戦争末期、軍が海外渡航者を監視するために造らせた穴で、中に人が入り不審人物がいないか目を光らせていたという。

JR九州・門司港駅、関門連絡船通路跡から見た駅構内

 地下通路から振り返ると、壮大な駅空間が広がっていた。歴史薫る大きな木造駅舎と駅構内を包み込む大屋根、支える武骨な鉄組み…、これが本州から渡って来た人々が見た門司港駅の最初の光景なのだと思うと、味わい深さもひとしおだ。

JR九州・門司港駅ホームと改札口。

 気が付いたらもう夕日が影を落とす時間になっていた。

 終端駅らしさ感じる行き止まりホームの手前に改札口がある。しかし数組の自動改札機が並び、二人の駅員さんがいるだけの光景は、鉄道の要衝でなくなり、過去の栄光は今は昔と少しの寂寥感が過った。

出札口や一等二等待合室などがあった1階部分

JR九州・鹿児島本線、門司港駅舎、出札口などがあるコンコース

 一階中央のコンコース部分も大正ロマンを意識した洒落た造りになっていた。入って右奥には手小荷物窓口の造りが再現されていた。しかし、レイアウトの変更は無い。

復元された門司港駅、木の造りが美しい出札口(切符売場)

 出札口の位置は以前のままだが、木の造りやレトロな装飾が再現されていた。多角形に突き出て各窓口は、金銭受けなど細かい部分まで昔さながら。何と美しいのだろう…

 昔は7つか8つ位の窓口があったのだろが、今では自動券売機が2か所に埋め込まれている。それ以外はダミーの窓口だ。古い物が上手い事、現代のものを取り込んでいて、違和感は意外としないものだ。

門司港駅みどりの窓口、かつはて一・二等待合室、みかど食堂だった。

 入って右手前側はみどりの窓口と、観光案内所が入っている。しかし竣工時は一等二等待合室だった所で、1951年(昭和26年)頃に、みかど食堂が2階から移転してきたという。一等二等席を購入できる裕福な人しか入れなかった空間は格調高く、まるでクラシックホテルのロビーのよう。

門司港駅、みどりの窓口になっている旧一等二等待合室

 復原の際、壁や塗料を慎重に剥がし、細かい所までこだわったという。額縁が付いた掲示板のようなものは飾り壁と呼ばれる装飾だ。漆喰壁は現在はスターバックスとなっている旧三等待合室はチーク、一等二等待合室はベイマツで、一等二等の方は上等な木材が使われ、三等とは何かと差別化されている。

門司港駅舎旧一等二等待合室に残る暖炉跡、食堂の広告が残る

 隅には石造りの暖炉まで残っていた。鏡の下には「REFRESHMENTS UPSTAIRS 西洋料理喫茶所」と標された旧みかど食堂の古めかしい広告が埋め込まれたままだった。漢字は右読みで書かれているので、相当古いものなのだろう。

門司港駅舎、手小荷物取扱所だった場所は待合室に

 駅舎右奥、先ほどの手小荷物窓口の裏側は、実際に手小荷物取扱室として使われていてた場所だ。片隅には保管庫だった小部屋もあった。現在では待合室になっているが、イベントスペースとしても使えそうな広さ。しかし昔は多くの荷物で埋め尽くされ、専従の駅員さん達が忙しく働いた事だろう。

門司港駅の資料が展示された手小荷物取扱い所跡

 その隣も小荷物の取り扱いスペースだったようで、駅前広場に面し窓口跡の造りが残っている。ここは左右対称の駅舎に取り付けられたような造りで、天井はなく屋根の骨組みが露出している。後で見た竣工時の図面で、この位置に上屋はあっても、部屋のようなものは標されていなかった。なので、鉄道全盛期は荷物の取り扱いもかなりのもので、この部分を増築したのかもしれない。

 今ではこがらんとしているが、門司港駅に関する資料を展示したミニ博物館のようなスペースとなっている。復原工事中に発見された古い時代の部材や旧みかど食堂の備品などが興味深いものが展示されている。

 中でも興味深かったのが竣工の大正三年当時の駅舎の設計図だ。間取りは現在と同じ。各部屋の用途は、一等二等待合室の隣の電信室など、一部を除いて現代に再現されている。一等二等待合室には電信室用の窓口もあったようだ。

 1階図面の右横には2階の図面、左横には便所の図面も添えられていた。トイレはさすがに建替えられているが、位置はほぼ同じ。男女別の仕切りや記述は見当たらないので、男女共用だったよう。出入り口付近には丸い何かが標されていた。この丸には心当たりがある。先ほど見た「幸運の手水鉢」だろう。竣工時からある手洗い用の金属の大鉢で、戦時中の厳しい金属供出から運良く免れた事から「幸運の」といつしか呼ばれるようになり、今では門司港駅名物の一つだ。

 見るほどに興味が尽きなく、思案は巡る。いつまでも見ていられる。

スターバックス門司港駅、駅舎のレトロさを残した店内

 最初は予定していなかったが、折角なら旧三等待合室に開店したスターバックスコーヒーで一休みしようと中に入った。見慣れたスタバの雰囲気に、レトロな駅と鉄道の雰囲気を取り入れた店内は、この駅舎ならではでユニークさ光る。

 奥の方には厳ついエレベータが設置されていた。2階にもテーブルがあるのかと思ったが、貴賓室やみかど食堂に面した廊下に繋がっているだけだった。なるほど、こうして古い建築物のバリアフリーを達成してるのだ。恐らくスタバを利用しなくても、2階に行きたいのなら、このエレベータを自由に使っていいのだろう。

夜の門司港駅、大正の旅情はかくや…

 見所だらけの門司港駅を堪能し、スタバを出た頃、外はすっかり暗くなっていた。

夜になりライトアップされる門司港駅駅舎

 最初は門司港駅でランチを食べて駅舎を見たら他の駅に行こうと思っていた。気が付けば、相当な長居をしてしまったもの。しかし、こうしてライトアップされた駅舎も堪能する事ができる。光に浮かび上がる美しき駅舎は、昼とは違った味わいがある。ロマンティックムードに溢れた洋館の佇まいもまたいいものだ。

 夜になり列車が到着する度に、大正の駅舎から家路に就く人々がどっと出てくる。手厚く保護されているが、そこにあるのは紛れもない現役の駅の光景。市井に生きる重要文化財の醍醐味だ。

夜の門司港駅、大改修後に駅前に植えられた桜

 駅前広場には桜の木が何本か植えられている。復原に際し植えられたのだろう。日本の駅には桜が植えられている駅が多いが、こんな所にもと嬉しくなる。十数年後の春には、華やかに桜咲き誇る風景が見られる事だろう。


 新幹線の時間があるのでそろそろ帰らなければいけない。それでもまだ見ていたいという思いを抱えたまま、駅舎を通りぬけ改札口に向かった。

夜汽車の風情溢れるレトロな門司港駅ホーム

 木の屋根や古レールで支えられた昔ながらの上屋がホームと共に伸びる様も、歴史ある駅らしい雰囲気に溢れる。JR九州が作った現代的な車両でさえ、夜汽車という響きが似合う… 広がる幻想の前に、しばし佇んだ。

[2021年(令和3年)3月訪問](福岡県北九州市門司区)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

吉井駅、駅舎と風景

上信電鉄、カラフルなラッピング電車が行き交う(吉井駅)
カラフルなラッピング電車が行き交う上信線、吉井駅で下車した。
上信電鉄上信線・吉井駅、駅舎ホーム側
構内踏切を隔て、古めかしい木造駅舎が佇んでいた。有人駅なので廃れた感じは無い。
上信電鉄・吉井駅、構内踏切横の庭園風の空間
ホーム端の構内踏切横には灯篭や植木が整えられ、ちょっとした日本庭園風の空間。
上信電鉄・看板建築のような木造駅舎が特徴的な吉井駅
木造駅舎は待合室部分だけ四角くはみ出たような造り。屋根は板のようなもので覆われ大仰に見え、レトロな看板建築の趣。
群馬県の上信電鉄・吉井駅の木造駅舎
右側から駅舎を見ると、半切妻屋根の横長というありふれた造り。
上信電鉄・吉井駅の木造駅舎、待合室部分の木のままの窓枠
待合室部分の窓枠は赤く塗られているが、ペンキ越しに使い込まれた木の質感滲みいぶし銀の風格。
上信電鉄・吉井駅の木造駅舎、出札口付近
出札口付近。横の自販機の部分も昔は何があったのだろう…
上信電鉄・吉井駅の木造駅舎、待合室と改札口
待合室の壁には古そうな造り付けのベンチがあった。
上信電鉄・吉井駅、保線用具置場となった側線ホーム跡
貨物上屋らしき構造物が残る側線ホーム跡は、今では保線区の資材置場に。昔は盛んに貨物も扱っていたのだろう。

吉井駅訪問ノート

 木造駅舎の左側の待合室部分だけに四角く出っ張っていて、その屋根の部分は板のようなもので覆われた看板建築のようなレトロでハイカラな造りが印象的だ。看板建築とは、建物の正面だけ洋風など凝った造りにした建築様式で、大正の関東大震災後から戦後あたり建てられた商店によく取り入れられた。

 その部分を除けば、横長の半切妻屋根というありふれた造りで、上信電鉄では南蛇井駅や上州福島駅や山名駅に似ている。

 個性的な木造駅舎が多く残る上信電鉄だが、なぜこの形なのだろう…。吉井駅のある吉井町は2009年に高崎市に編入されるまでは独立した自治体だった。なので町の中心駅として利用者が増加していき増築されたのか…?それとも、最初からある程度の需要が見込まれ、標準型の駅舎をアレンジしたものになったのか…

 駅の開業は1897年(明治30年)5月5日という古い歴史を持つ。駅舎の建築年は不明だが、wikipediaによると戦前築で、現在の側線ホーム跡にある保線区事務所付近に建っていたが、道路拡張工事のため、曳家で現在の位置に移動されたとの事。

 吉井駅は上信線沿線に点在する7~8世紀の石碑でユネスコの「世界の記憶」に登録された「上野三碑(こうずけさんぴ)」の一つ「多胡碑(たごひ)」の最寄駅で、吉井駅発着の三碑を巡るバスも運行されている。

[2018年(平成30年)4月訪問](群馬県高崎市吉井町)

レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 私鉄の二つ星レトロ駅舎

駅前に日本海広がる駅

越後トキめき鉄道・有間川駅プラットホーム
列車は直江津から車窓右側に海を眺めつつ、国道沿いの無人駅、有間川駅に到着した。
越後トキめき鉄道・有間川駅、木造駅舎の向こうに見える日本海
木造駅舎の向こうに大海原が広がるのは駅開業の昭和21年以来の風景だ。
越後トキめき鉄道・有間川駅の木造駅舎、古い軒の柱
駅舎は改修されているが、軒を支える柱をすさまじく古色蒼然としている。
越後トキめき鉄道・日本海ひすいライン、駅から海が望める有間川駅
駅舎から一歩踏み出すと、眼前に海が広がった…
えちごトキめき鉄道・有間川駅、眼前に広がる日本海
( クリックで画像拡大)
雨混じる曇り空で色はやや冴えない…それでも駅前に広がった海の眺めは心地よい。
越後トキめき鉄道・有間川駅、日本海沿いに佇む木造駅舎
有間川駅の木造駅舎は、近年、外壁が改修されたようだが、古く素朴なムード。海沿いの斜面を切り開いた立地で駅前は狭かった。
越後トキめき鉄道・有間川駅、木のままの造り残す駅舎車寄せ
古い木のままの車寄せは鬼瓦がいい味を出している。
越後トキめき鉄道・有間川駅、古い木造駅舎らしい板張り残す
外壁の一部は、古い木の板張りが残され木造駅舎らしい雰囲気に満ち溢れ駅の歴史を垣間見せる。
越後トキめき鉄道・有間川駅の木造駅舎、待合室
待合室は木の天井など昔の造りを残す。ベンチが一脚も無くがらんとしていてやや殺風景…
越後トキめき鉄道・有間川駅、無人駅となり塞がれた窓口跡
無人化され約半世紀で、窓口跡は塞がれていた。しかし上部の明り取りの窓はそのまま。窓の向こうの駅事務室が気になる
越後トキめき鉄道・日本海ひすいライン、有間川駅に入線する単行列車
迎えの列車はET122形気動車だ。あんこうや蟹が描かれた単行列車は不思議な可愛らしさだ。

有間川駅訪問ノート

 2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線の金沢延伸に伴い、北陸本線から第三セクター鉄道に転換されたえちごトキめき鉄道の日本海ひすいライン。有間川駅はその新しい路線名の通り、眼前に日本海の絶景が広がる場所に位置している。

 信越線の支線としてこの区間の直江津駅‐名立駅間が開業したのは1911年(明治44年)7月1日だが、有間川駅は当時としては駅間が短く、必要な土地を確保し辛い事kから駅は設置されなかった。

 しかし長年の陳情が叶い、戦後の1946年(昭和21年)9月1日に有間川仮乗降場とした開業、翌年の7月1日に駅に昇格した。

 駅舎は駅開業時の昭和21年以来の木造駅舎だ。改修箇所は目に付くが、それでも使い古された木の質感が味わい深く、70年以上の歴史はしっかりと垣間見せる。何と言っても、海を望める位置にそんな駅舎が佇んでいるのがたまらない。

 集落は約1㎞東にあり、駅周辺はややひっそりとした感で、秘境駅感が漂う。現在の一日の乗降客数は十数人程度という。

[2019年(令和元年)8月訪問](新潟県上越市)

レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄系の一つ星レトロ駅舎

小さな洋館風のレトロ駅舎

JR西日本阪和線・東佐野駅、古い石積みが残るプラットホーム
阪和線・東佐野駅のプラットホーム。元々の古い石積みを土台に、コンクリートで拡張されている。
JR西日・阪和線・東佐野駅、昭和14年以来の洋風木造駅舎が現役。
急角度の半切妻屋根が特徴的な東佐野駅の木造駅舎。スペイン風の洋瓦がよく似合う。駅開業の昭和14年、阪和電気鉄道以来のもの。
阪和線・東佐野駅の木造駅舎、駅舎側面
駅舎は高い屋根を備えメインとなる部分に、平屋の事務室を取り付けたような、レトロな洋館付き住宅風。
阪和線・東佐野駅、駅舎の腰壁はタイルで装飾されている。
切妻屋根以外の部分は、一見、素っ気ないが、腰壁がタイルで装飾されている。
阪和線・東佐野駅、ロータリなど小奇麗に整備された駅前
駅前はロータリーが整備され都市郊外の雰囲気。一日の乗客は1300人ほど。
阪和線・東佐野駅、駅舎内の改札口と切符売場
駅舎内は改札口と切符売場があるだけとシンプル。8:00~19:30分の営業だが、係員不在時間は多めで訪問時も閉まっていた。
阪和線・東佐野駅、柱裏側のちょっとした展示スペース
正面の一見、どっししとした柱は壁の一部のような感じ。裏側は展示スペースで生花が飾られ、駅にちょっとした潤いをもたらす。
阪和線・東佐野駅、昭和の古い駅舎を支える木の柱
新しいものに交じりながら、木の柱たちが古い駅舎を支える。

[2020年(令和2年)3月訪問](大阪府泉佐野市)

レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄系の二つ星レトロ駅舎

東佐野駅訪問ノート

 東佐野駅の開業は阪和電気鉄道時代の1939年(昭和14年)1月9日。当初の駅名は泉ヶ丘駅。同社子会社が開発した泉が丘住宅地の最寄駅として設置された。阪和電気鉄道はその後、1940年に南海電鉄に合併、1944年5月1日に戦時買収により国有化された。国有化時に現在の東佐野駅に改名された。

 木造駅舎は昭和14年の開業以来のもの。急角度の半切妻屋根が特徴的で、スペイン風の洋瓦がよく似合う洋館風。

 しかし駅舎は改札口、出札口、駅事務室だけの機能しか無く、現在は乗降客のための待合スペースは無い。かつては僅かにベンチが置かれていたようだが…。乗降客にとってこの駅舎は、一瞬、通り過ぎるだけの存在なのだろう。

 こういった特徴は山中渓駅や長滝駅と言った他の阪和線小駅の古駅舎にも見られ、他の取り壊された旧駅舎の写真からも見て取れる。阪和電気鉄道の小私鉄的な駅舎設計思想が垣間見られ面白い。

重要文化財となり既に偉大だった1990年頃

 門司港駅駅舎の名声は、当時まだ駅舎というものに全く興味が無かったいち鉄道ファンの私でさえ知っていた。とても古い洋風駅舎が残っていて、重要文化財にまでなったとか…


 門司港駅の歴史を簡単に標すと以下のようになる…
 開業は1891年(明治24年)。国有化以前の九州鉄道時代で、当時は200メートルほど東側に位置していた。当初の駅名は門司駅だった。

 1901年(明治34年)5月27日には関門連絡船が就航し本州の鉄道と接続されると、九州の玄関口としてとても賑わったと言う。1906年(明治39年)12月1日に山陽鉄道は国有化された。

 1914年(大正3年)、駅は現在地に移転した。この年こそ、今に残る駅舎が建てられた年だ。

 関門トンネル開通が間近の1942年(昭和17年)4月1日、駅名は門司港駅に変更された。門司の駅名は関門トンネルとの接続駅になる大里駅に譲った。

 同年7月1日は関門トンネル下り線が開通、1944年(昭和19年)9月9日には複線での運行が開始された。

 関門連絡船は地域輸送の需要がありしばらく残されたが、1964年(昭和39年)11月1日に廃止された。

 門司市…後に北九州市門司区の駅として街中に位置したが、メインルートから外れた支線のような形で取り残されたためだろうか…、駅舎は近代的なビルに建て替えらる事無く時は流れた。そして1988年(昭和63年)、駅舎としては初めて重要文化財に指定され、後に近代化産業遺産にも認定された。


 1990年頃、初めて一人で九州を鉄道で旅した。その時に偉大なる門司港駅も訪れた。

大改修前の門司港駅の駅舎。

 木造の風格ある洋館は私に強い印象を残したものだ。

 今となっては細かい事は覚えていないが、写真は懐かしい姿を留めていた。右側に電光式の看板が出ているのを見ると、蕎麦屋かうどん屋がまだあった頃のようだ。左側には丸ポストが写り込んでいる。

 雨降りで空が暗めなのにもかかわらず、2階は明かりひとつ灯っていない。九州の玄関口の座を譲ってから半世紀以上が過ぎ、大仰なターミナル駅舎を持て余してたのかもしれない。


 最初に訪れてから20年位過ぎた2010年代の前半、駅舎を解体をしての大掛かりな保存修理工事が施される事になった。2012年秋より始まった「平成の大改修」は約6年に及んだ。駅舎は竣工当時の大正3年当時の姿に復原され、2018年10月に一部供用開始。2019年3月19日に完全再開、グランドオープンとなった。

 グランドオープン前の2018年11月末。門司港駅を訪れた。フェンスで囲まれているものの外観はほぼ仕上がり、1階の切符売場など主な機能が利用されはじめていた。それだけでもレトロなムード溢れ、凄さを感じさせた。2階には大正の頃にあったみかど食堂が復刻されるとニュースで聞いていた。一体、どのような姿で、再び私たちの前に現れるのだろうか…

まずは往時が再現された駅舎2階部分から…

 グランドオープンから約2年後、門司港駅を訪れた。

 まずはランチにみかど食堂へ行こうと、2階に上がった。

重要文化財の木造駅舎が残る門司港駅、貴賓室

 改修前は非公開だった2階は、貴賓室が復元されていた。赤い壁紙が太陽の日差しで照らされ眩しいばかり。この壁紙は、地元の人が保管していた同じものや、工事中に発見された壁紙片を参考に製作したという。

 昔は高貴な人をもてなす部屋らしく豪華な調度品がしつらえられていたのだろうが、現在では円卓と椅子が置かれているだけ。しかし利用料さえ払えば、みかど食堂の個室として食事ができる。少しだけ大正のVIPの気分を味わうのも悪くないだろう。

 廊下を隔てて駅前広場側がみかど食堂となっている。レストラン内はレトロさを感じさせながらも、現代的な空間に仕上げられ、メニューは東京の有名レストランが監修する。

門司港駅舎みかど食堂、ランチコースメインのビーフカツレツ

 いい席に案内され、珍しくのんびりとランチコースを愉しんだ。食べたのは旧みかど食堂にもあったビーフカツレツ。

長き眠りから目覚めた大正の駅舎

 ランチの後、改めて復原された駅舎に対峙した…

大改修が終わり竣工の大正時代の姿に復原された門司港駅の駅舎

 左右対称の洋風建築が威風堂々と佇む様は、まさに九州の玄関、いまだ大ターミナル駅の風格に溢れる。素晴らしすぎる出来に「おぉ…」と感嘆の声を漏らした。外観の造りに大きな変化は無く、復原前と形状は大差無い。長い間、ピンク色の塗装だったが、改修後は、薄い黄土色っぽいシックな色に。

 正面に取り付けられていた大きな庇は撤去された。庇は昭和4年の改修時に取り付けられたもので、竣工時の姿を復原する事を重視した結果という。

 大時計も移転開業時には無く、4年後の大正7年に設置されたものだ。しかし、長年親しまれたことから残される事になった。この時計、初代のものは建物内の他の時計が全て同じ時刻を指す電気時計で、東京駅、新橋駅、横浜駅、京都駅に次いで駅では全国で5番目に設置された珍しいもの。こんなちょっとした事でも門司港駅の位置付けが感じられる。

門司港駅の駅舎、ネオルネッサンス様式の威厳ある洋風木造駅舎

 ネオルネッサンス調の造りは華美ではないが、凝っていて重厚感あふれる。

 主要駅と称される駅で、特に重要度が高い大きな駅のはるか昔の旧駅舎を写真を見ると、大抵、大柄で重厚感のある木造駅舎だったようだ。そんな駅がコンクリートのビルとなった現在の姿を思い返すと、あんな時代もあったものなのだと感慨を覚えるものだ。

 昔ながらの大きな駅らしさを残した古駅舎は今では数えるほど…。そういう姿を残しているという意味でも門司港駅舎の存在は貴重だ。

JR九州・鹿児島本線・門司港駅、回廊のような駅舎正面や軒下

 前面は駅舎を貫き軒と連なり回廊のようになっている。照明の台座など、細かい所もレトロに復刻されている。

 駅舎正面右寄りの塔屋の裏側は窓口のような造りが再現されていた。何があったのだろうと不思議に思ったが、後で大正3年当時の図面を見ると営業案内所と標されていた。

門司港駅、駅舎左横に小荷物取扱所の窓口

 駅舎右手側には小荷物取扱所の窓口も再現されていた。大正3年当時の図面を見ると、この場所は標されていないので、後年に増築されたのだろう。

門司港駅前から眺めた関門海峡、大橋で本州と繋がる

 駅前広場からは関門海峡と対岸の本州が垣間見えた。海に隔てられているとは言え、関門海峡大橋が大げさに見えるほど本州は近い。

門司港駅、駅舎横のバスロータリー

 駅舎の左側面にはバスロータリーが設置されていた。かつては駅正面にバスなど車が乗り入れていたが、平成に入り駅前広場が整備されロータリーもこちらの移設されたという。こうして名駅舎を堪能できるのはそういった施策のお陰だ。

門司港駅の古きもの

 門司港駅を巡り歩けば、駅舎だけでなく文化財級の印象深いものからちょっとしたモノまで、長年の歴史を感じさせる見所が数多く残されている。まさに鉄道遺産の宝庫だ。

門司港駅、帰り水の背後に移築保存された往時の洗面所

 現駅舎が竣工した頃からあると言われるレトロな水場「帰り水」の背後には、洗面所の一部が移築保存されている。年季が入り黒ずんだ蛇口は、ひねれば水が勢いよく流し台を打ちつける。大理石やタイルはよく拭かれピカピカだ。

門司港駅、復員兵など帰国者の喉を潤した帰り水

 撮影に夢中で、なぜか帰り水そのものの撮影を忘れてしまった。この写真は2018年訪問時のものだ。

 かつては海外航路もあり、戦後の復員など、門司港に帰国第一歩を標した人々も多かった。上陸した人々の多くが、まずこの水道から出る水で喉を潤し、いつしか帰り水と呼ばれるようになったという。

門司港駅、駅構内の上屋を支える鉄の柱

 駅構内の上屋を支える柱は武骨な鉄製。しかし小さく花があしらわれている。

門司港駅、幸運の手水鉢、戦中の金属供出から逃れ現存

 トイレにある、手洗い用の水を湛える「手水鉢(ちょうずばち)」も大正3年からあるものだ。水をなみなみと湛えた鉄の水甕はなかなかの重厚感。この手水鉢、戦時中の金属供出を免れた事から「幸運の手水鉢」と呼ばれている。


 何故、移りゆく時代の中でこんな古き物が残り続けたのだろうか?門司港駅には何か違うものを持っている…、そう思わせた。

[2021年(令和3年)3月訪問](福岡県北九州市門司区)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

懐かしのレストランが時代を超えて復刻

 那覇から飛行機や列車を乗り継ぎ、門司港駅に到着したのは午後1時半過ぎだ。

 門司港駅と言えば、重要文化財に指定された大正3年(1914年)築の洋風木造駅舎が鉄道ファンならずとも有名で、往時の洋風建築が多く残り観光客で賑わう門司港レトロ地区の玄関口であり中心的な存在だ。

 歴史ある木造駅舎は2012年からの大改修工事に入った。そして7年という長き時を経て竣工の大正当時の姿に復原され、2019年3月10日、私たちの前にその姿が完全に披露された。


 その時に、駅舎2階に蘇った「みかど食堂」に向かった。みかど食堂は、1899年(明治32年)に日本で初めて食堂車を設置した山陽鉄道(現在の山陽本線)で食堂車を運営し、全国の駅構内でもレストランを運営していた。この門司港駅でも、現駅舎竣工の大正3年に高級洋食レストランを構え、関門連絡船の利用客などでとても賑わったという。

 しかし時代は移り、1951年(昭和26年)に1階に移転、1981年(昭和56年)に閉店となり、大正以来の歴史に幕を閉じた。

 それから四半世紀以上の時を超え、平成が終わろうとしている頃、みかど食堂は復刻された。国内外から高い評価を得ている東京南青山のレストラン「NARISAWA」が監修し、往時をオマージュした洋食を提供する。

 14時以降でもティータイムとして利用できるが、せっかくなので料理を味わいたかった。なのでランチのラストオーダーとなる前に入店しなければと思った。

復原された貴賓室

 駅舎の中に入らず右側を見ると、みかど食堂の看板を見つけた

門司港駅駅舎、2階貴賓室と食堂への階段

 中に入ると、吹き抜けの空間の下、木の階段が2階へと続いていた。早速、眼前に広がったレトロなムードを踏みしめるように階段を上がった。

重要文化財の門司港駅駅舎、貴賓室などがある2階の廊下

 2階に上がると廊下が伸びていた。装飾はシンプルで落ち着いているが、歴史感じさせる雰囲気だ。廊下右側にみかど食堂がある。大仰な駅舎だがこうして見ると、意外と狭く見えるものだ。

 突き当りにはエレベータがあった。大正の洋館だが、バリアフリー対策も万全。このエレベーターはスターバックスコーヒーの店内に繋がっている。スタバの店内は通路として使っていいのだろうが、現代の公共施設に必要とされるものを工夫して取り入れた跡が垣間見える。

門司港駅駅舎、貴賓室隣の次室

 左側には、まず次室と呼ばれる部屋があった。隣の貴賓室を利用した高貴な人のお付きの人が控えた部屋だ。

重要文化財の木造駅舎が残る門司港駅、貴賓室

 そして次室の隣には貴賓室が復元されていた。天皇陛下や皇族、要人など、身分の高い人々だけが使えた特別の一室。かつては関門連絡船が発着する九州の玄関口として、いかに重要な駅だったかをうかがわせる。

 日が差し込み赤く眩しいばかりの壁は、当時の壁紙を元に復元したもの。

 かつてはゆったりとしたソファーや置物など、豪華な調度品が置かれていたのだろうが、今は丸テーブルと椅子だけと至って簡素。この貴賓室、みかど食堂の個室として、室料など少し高い料金を払えば、誰でも利用できる。あえてお金を出して、VIP気分を味わうのもいいかもしれない…

門司港駅舎2階から見た終端駅らしい行き止まりホーム

 次室の窓からは終端駅独特のプラットホームや、車両が留置されている側線が見渡せた。隣の貴賓室からも同じような眺めが広がっていたのだろう。

往時のレストランをイメージしたみかど食堂でランチ

 貴賓室と次室を一通り見た後に、みかど食堂に入った。

 ランチタイムのピークを過ぎていたためか、先客は一組だけと拍子抜け。いや、緊急事態宣言こそ解除されたが、コロナ禍で外食や外出を控えている人がまだ多いのだろう。

門司港駅舎みかど食堂byNarisawa、窓際のソファー席

 そのお陰で、窓際のいい席に案内してもらえた。テーブルは駅舎正面側の広場に面している。

 メニューはカレーセットなど各種のランチセットを揃えている。折角なのでちょっと奮発して4000円のコース料理にした。

 入れ替わるように先客が出ていったため客は私一人になってしまった。料理が出てくるまでのひと時、許可を得て店内を見てみる事にした。

門司港駅舎みかど食堂byNarisawa、2階にあったレストランをオマージュ

 天井は木のレトロな造りで大正の木造駅舎らしさ溢れる。旧みかど食堂では、シャンデリアが吊るされた高級さ醸し出す内装だったという。今は時代の香りを残しつつ現代的な洒落たレストランと言った感じだ。

門司港駅舎みかど食堂byNarisawa、店内の個室風テーブル

 店内は現代風の内装だが、落ち着いた色使いで上手く大正の駅舎に溶け込ませている。棚には陶芸作品がさりげなく展示されていた。

 奥の3席は仕切りで区切られた個室風の造り。窓に面した角の席が良さげだ。

門司港駅舎みかど食堂、木の壁に彫り込まれた花のレリーフ

 改修されきれいになった室内にあって、扉の採光窓の枠にひっそり刻まれた花のレリーフは、古い木の質感を感じさせた。ここは昔からの造りなのだろう。

門司港駅舎みかど食堂ランチコースの前菜とスープ

 前菜は自家製ハムやタイの刺身など三種。フープはオニオンポタージュ。

門司港駅舎みかど食堂、ランチコースメインのビーフカツレツ

 悩みながら選んだメインは鹿児島産ビーフのカツレツ。レア気味の揚げ加減にデミグラスソースが映える逸品。ご飯は諫早産。

門司港駅舎食堂、古い木の窓越しに見るから見る門司港レトロ

 木目浮き出る窓越しに門司港レトロの街並みを眺めながらの食事をしていると、旧みかど食堂が在りし日の、門司港駅の古き良き時代を味わっている気分にちょとだけなれたような気がした。

門司港駅舎みかど食堂ランチコース、デザートとコーヒー

 デザートは3種のプチケーキ。八女茶を使った抹茶ケーキ、福岡産のいちごのケーキとチーズケーキ。

 九州の食材にこだわった料理は旅行者には嬉しく、もちろん美味しかった。次に門司港駅に訪れた時も是非利用したい。

門司港駅駅舎2階、食堂出入口にある謎の一室

 貴賓室側からとは反対の出入口には謎の小部屋があった。階段上の吹き抜けの真上に造られたと言った不思議な位置だ。中は小上がり風の絨毯敷きになっていた。何のための部屋かと思ったが、カウンターがある造りを考えるとキャッシャーだった所だろうか?いや、高級レストランだった事を考えるとクロークだろうか…?

眠っていた旧みかど食堂の貴重な備品

 駅舎正面左端の手小荷物取扱い所だった部分に、門司港駅に関する資料を展示するスペースがあった。その中に旧みかど食堂や貴賓室に関する物もいくつかあった。

門司港駅、伝票など旧みかど食堂の備品

「飲食店営業」という古い木の看板は、福岡県による営業許可を示した看板だ。まだ北九州市成立前で、住所は門司市となっていた。

 標された昭和26年は、2階から1階へ店舗を移転した頃という。その頃、既に関門トンネルが開通していて、関門連絡船は残っていたものの、メインルートから外れていた頃で、門司港駅は開業時とはだいぶ違う雰囲気になっていたのだろう…

 伝票は壁の中に落ちていたのを工事中に発見したものという。ビーフステーキ、ビーフカツレツ、ロールチキン、カレーライス、ハムサラダetc…、セピア色の紙の束からはレトロな洋食の香りが漂ってくるかのよう。

門司港駅、旧みかど食堂の食器やマッチ箱などの備品

 コーヒーカップは高級陶磁器の代名詞のノリタケ製。古いマッチ箱はみかど食堂の広告付き。

 白黒の絵葉書は、現駅舎とみかど食堂が営業を開始したての大正3年頃のもの。当時の様子が興味深い。

門司港駅、保管されていた貴賓室の壁紙など

 大改修により、貴賓室まわりからも当時の様々な部材が発見された。

 あの貴賓室の赤い壁紙は、個人の方が所蔵して当時の壁紙を参考に製作したものだ。貴賓室の壁に残っていた部材と成分を比較したところ、両者は一致したという。よくそんな貴重なものを所持したいたもの…

 その他、カーテン片や便器の破片も発見された。便器は大正2年にイギリスのトワイフォード社から直輸入したもので、破片にはライオンが描かれた商標と共にENGLANDの文字が標されていた。たかが便器に舶来品を使うとは、やはりVIPを接遇する設備として隅々まで気を使っていたのだ…

[2021年(令和3年) 3月訪問](福岡県北九州市門司区)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

.last-updated on 2021/12/03