灼熱の秘境駅へ…
7月のある日、阿波池田駅から多度津行きの普通列車に乗った。乗客はたったの二人。夏休み期間で、もう少し乗り鉄がいると思ったのだが、そんなのは私だけ。コロナウィルスの猛威で出控えている人が多いのだろう。
吉野川を渡り、ぐるりとカーブし阿波池田の市街地を見下ろすと、列車は山の中に分け入った。
本線から分岐すると行き止まりの駅に泊った。坪尻駅だ。ホームに降りた瞬間、けたたましい蝉の鳴き声が降り注ぎ、むさくるしいほどの木々の緑が目に飛び込んできた。
坪尻駅はスイッチバック駅で、勾配がきつい本線の1線隣に設置され駅だ。
数分、停車したのち、多度津行きの列車はホームから離れていった。一旦、阿波池田方向に逆走し、本線横の引き上げ線に入りしばし停車すると、また方向を変え本線上を駆け上がっていった。
さあ、2度目の坪尻駅だ。木造駅舎は健在で何より。ホーム側の軒は、付け庇を柱が支えるのではなく、屋根からそのまま延長してきた庇を、木の棒の持ち送りが支える造り。そして駅舎両側面の板張りが軒の支えとして伸び出ている。
それにしても暑い…。ついさっきまでは車内でひと時の涼で体を癒していたのだが、もう汗が流れ出る。絶え間ない蝉の鳴き声が暑さを煽っているかのように響く。壁の温度計を見ると36度!猛暑ってヤツだ…
待合室に入るとむっとしたこもった空気に包まれた。待合室に閉じ込められた空気を、この暑さが燻したような独特の臭いだ。これからしばらく過ごす駅。換気をしたい所だが「害虫の侵入を防ぐためドアは閉めて下さい」という注意書きが貼り付けられていた。仕方ない…。時折訪れる人も、注意を忠実に守るため、ろくに換気がされず空気が濁ってしまうのだろう。
駅を一歩出ると、ただ木々が密集し、幾重にも厚い影を落としているだけだった。駅前通り?街並み?そんなものは一切無い。谷底の駅には人の気配は皆無だ。
貴重な純木造駅舎
そして駅舎に振り返った。坪尻駅の開設は1929年(昭和4年)4月23日。当初は坪尻信号所としてで、駅に昇格したのは戦後の1950年(昭和25年)1月10日。この木造駅舎はその約2年前の1948年(昭和23年)に竣工したものだ。
駅舎は見事なまでに使い古された木の質感溢れる。今となってはJR四国唯一の純木造駅舎と言えるだろう。
…と言うのも、JR四国にも木造駅舎が多く残るが、JR化後にほとんどが外壁が新建材になるなど、今どきの新築住宅のようにきれいに改修されてしまった。古くくすんだ駅を明るいムードにし、快適に使ってもらおうという方針は経営的には正しい。しかし、レトロなものが好きな私のような好事家には物足りない。
駅舎は盛土の上に建てられ、階段で出入りする。
木の壁には駅の歴史が刻まれたような木目が浮かび上がる。
JR四国では発足した頃、駅舎の空きスペースを店舗として活用し、増収を図っていた。それも駅舎徹底改修の一つの理由なのだろう。しかし秘境駅の坪尻駅、店舗としても活用できる見込みどころか、利用客もきわめて少なく、きれいに整える必要性も薄い。そのへんも昔のままの姿で残った理由のひとつなのかもしれない。
そんな坪尻駅でも、かつてはペンキで装っていた時代があったのか…。パステルグリーンっぽい塗料がかすかに残っていた。
正面だけでなく、ホームの改札口跡付近もいい質感だ。錆びた鉄パイプ製のラッチ…と、言うか乗車券回収箱もいい味出している。
その上には「スズメバチ注意」の注意書きが…、つくづく油断ならない駅だ。
周辺を歩くと…
駅の周辺を少し散策しよう。しかし正面の「マムシに注意」の看板が背筋をゾクッとさせる。下手に歩いていると枯葉の陰に潜むマムシに襲われるかもしれない。スズメバチも気になる…。周囲を警戒しながらゆっくりゆっくり歩いた。
駅舎のすぐ横には坪尻駅還暦記念植樹の桜が植えられていた。旅客開業から60年の平成22年(2010)年1月11日と標されていた。この他にも、少し離れてアメリカ・オレゴン州の訪問団による記念植樹の桜もある。利用客はすっかり減ってしまったが、何のかんの言って愛されている駅だ。
駅の南側にはささやかな踏切がある。自動ではなく、手動で棒を動かす方式だ。
踏切の側らには列車通過予定時刻を標した看板もある。アンパンマン列車で運行される特急にはご丁寧にアンパンマンのシールが貼られている。
踏切から坪尻駅を眺めてみた。よくこんな所に駅を作ったなと思えるほど、山の隙間に駅は位置する。
この地は元々、川底だったという。しかし、鉄路を通す時に、敷地を確保するため、水を流すためのトンネルを掘削し水流を変えてまで、信号所を開設したという。それ程の難所だったのだ。もう少し時代が過ぎれば、トンネルで山を貫通したのだろう。土讃線と並行する国道32号線は、この区間をトンネルで貫通している。
色々撮影していると、列車の気配がし、下りの特急南風が通過していった。踏切の警報音も無く、カーブ掛かった北側は特に見通しが悪く、突然にやって来たという印象。ここで撮影に夢中になり過ぎるのは危険だ。
踏切を渡ると山道が伸びて、一軒の荒れ果てた廃墟が不気味に佇む。これが坪尻駅付近の唯一の建物だ。
そして、道はまだ続いていた。獣道よりマシな程度で本当に道はあるのかと不安だが、600メートルほど登れば、坪尻バス停のある県道5号線に出るらしく、坪尻駅へのアクセス手段の一つとなっている。この道、請願により駅が開設が決まった時に、住民の手で切り開かれた道という。このか細い道は駅の開設を喜ぶ住人の思いが詰まった道なのだ。今度はそんな思いに想いを馳せながら歩くのもいいものだ。
列車待ちのしばしの間に
しばらくうろうろし、列車の時間が近づいてきたので駅に戻ってきた。猛烈な暑さで、換気のできない待合室にいるより、時折通りぬける風を頼りに日陰にいた方がまだいいかもしれない。
駅には「らぶらぶベンチ」なる木のベンチが設置されていた。谷底の坪尻駅をイメージしたかのように、真ん中が折れ曲がっている。狭い駅でどうしても二人の距離は近くなるという事か…。一緒に座るべき人がいない私は真ん中に座ったが(笑)
この駅事務室の重厚な木の扉も。木造駅舎らしさ溢れ素晴らしい。
扉の上には木の古い建物財産標が取り付けられたままだ。この駅舎は「待合所 1号」となっている。
駅舎の横には廃れた池の跡があった。特徴的な鉄の塔のような構造物は、噴水か何かだったのだろうか?坪尻駅が秘境駅と呼ばれるようになる前は、水を湛え列車を利用する地元住民達ののしばしの憩いの場だったのだろう。
[2021年(令和3年)7月訪問](徳島県三好市)
- レトロ駅舎カテゴリー:
- JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎
坪尻駅FAQ+
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坪尻駅にトイレはある?
無い。設備はあるが閉鎖され使用不可。
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坪尻駅へ行くバス路線はある?
四国交通の野呂内線(阿波池田‐野呂内)が、坪尻駅最寄りの坪尻停留所に停車する。但し、半数以上のバスが途中の箸蔵ロープウェイ止まりで、坪尻へは一日三往復。バス停は県道5号線上にあり、坪尻駅はさらに山道を下った約600m先。無舗装の細い道なので、健脚な人向け。車は通れない。
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坪尻駅を俯瞰できるポイントはどこ?
落集落の中に「坪尻駅展望台」が整備された。坪尻駅から直線距離で500m弱に位置(あくまで地図上の直線距離…)。県道5号線より少し上った場所に位置し、坪尻駅近くも通る四国交通野呂内線の落停留所が最寄り。
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四国交通野呂内線の時刻、運賃等は?
四国交通・路線バスのページへどうぞ。ちなみに阿波池田駅から坪尻停留所まで490円。