上武佐駅(JR北海道・標津線)~記憶の中の廃駅へ…~



記憶の中の廃駅跡

 かつて道東の根釧原野を駆け抜けていた標津線は、廃止が迫る1989年(平成元年)3月に乗りに行った。基準を満たさない国鉄赤字ローカル線は、廃止対象として特定地方交通線に指定された。道内ではかなり廃線が進んでいたが、標津線、天北線、名寄本線、池北線は最後まで残り、長大4線と呼ばれたものだ。お金と行動の自由がある程度効くようになった私は、北海道ワイド周遊券を手に、四線のさよなら乗車を兼ね、北の大地を鉄道で駆けずり回ったものだ。

 それから5、6年ばかりが過ぎた頃、自転車で北海道を旅した。主に道東方面を走ったが、あの時、乗りに行った標津線はどうなっているのだろうかと思った。

 その時、標津線の駅だったある場所に立ち寄った。だが、それがどの駅だったかは思い出せなかった。記憶に残っているのは、やや奥まった所にある行き止まりの寂し気な立地だ。鬱蒼とした風景の中、古く廃れた木造の大きな空家が一軒あった。たぶん旅館だった建物だ。その頃には駅舎はもう無かったように思う。

 大体、どのあたりを巡ったかは覚えていた。中標津駅や終点の根室標津と言った主要駅では無いし、キハ22が放置されていた川北駅でも無い。なのでたぶん上武佐駅だろうとういうのは察しがついた。たまたま通り道にあった駅跡で、上武佐なんて駅名は完全に忘れていたし、もしかしたら、これまで意識すらした事も無かったかもしれない。でも道東に行くのを機会に、記憶の中の駅跡は上武佐駅なのか確かめに行こうと思った。

中標津付近の標津線廃線跡をレンタサイクルで辿りつつ…

 ホテル目の前の自転車屋さんがレンタサイクルもしていて、一台借りた。

 バスターミナルやコンサートホールなどが整備された中標津駅跡地を通り過ぎ、根室標津駅方面に走った。さすがに廃線から30年も過ぎると、街の中心部に痕跡はほとんど無いものと思い走り続けた。ただ広い道やゆったりとした敷地の取り方は、それなりの設備を有していた駅の名残だろうか…

 道端にあるひとつの掲示板が目に留まった。そこには中標津駅3代の駅舎写真、最盛期のものと思われる中標津駅の構内配線が書かれた紙などが掲示されていた。そして中継信号機なるものの案内も掲示されていた。周囲を見渡すと、コンクリートの電柱のてっぺんに、それらしい板が掲げられたままになっていた。

標津線廃線跡、中標津駅構内跡の中継信号機

 信号は根室標津からやってくる列車の方に向いていたので、見える方向に回り込んだ。黒く丸い板に7個の信号のランプが埋め込まれていた。説明書きによれば、見通しが悪い場所に置かれた信号の表示内容を前もって知らせるための信号機との事。信号機の信号機といった所だろうか?灯ったランプの配列によって、進行、注意、停止を知らせていたという。

中標津市街地の標津線廃線跡、鉄道のカーブを思わす駐車場

 振り返ると、駐車場の敷地はカーブ掛かっていた。そのカーブはいかにも鉄路の痕跡を思わすカーブの入り方だ。姿は変わっても鉄道の雰囲気をふんだんに残した風景が印象深く映った。

 市街を外れ郊外に出たと思ったら、木々が鬱蒼と茂る無人地帯を一歩の道路がひたすら続くだけだった。踏切跡はやはり痕跡すらも無かった。

 標津線とほぼ平行していた道道774号線を北に向け走った。2万5千分の1地形図には、廃線跡と思しき細道も記載されていた。木々が深く生い茂り、本当に道なんかあるのだろうかと思ったが…

 途中で道道から逸れて、その細道に行ってみた。

標津線廃線跡、廃止から30年過ぎ原野に還る中標津-上武佐間

 すると太陽の光さえ閉ざす深い林があるだけの光景に息をのんだ…。辛うじて単線分の広さが空いた空間がずっと奥まで続いていた。それでも稀に車の通行があるのか、2本の轍が伸び、あれだけ茂る木々は道床部分に生えていない。廃線から30年、自然はゆっくりと鉄路の痕跡を飲みこんでいる風景に衝撃を受けた。

上武佐駅跡の今

北海道中標津町、標津線の旧上武佐駅前の集落

 やがて上武佐駅前の集落に着いた。家屋が点在する中、簡易郵便局やコンビニ風のお店もあり、それほど廃れてもいないこじんまりとした集落だ。

 駅跡はどこかと、道路右手を注視しながらゆっくり進んだ。

標津線・上武佐駅跡地、高倉健主演「遥かなる山の呼び声」の映画看板

 すると突如としてレトロな映画看板が現れた。映画は高倉健主演「遥かなる山の呼び声」。監督は男はつらいよシリーズなどで有名な山田洋次氏との事。1980年公開の作品で、中標津町の酪農地帯が舞台になり、上武佐駅もロケ地となった記念に設置されている。

 どうやらこの看板ある敷地一帯が上武佐駅跡地だったようだ…

標津線、上武佐駅跡地とかつての駅前旅館

 駅跡一帯を見てみた。記憶ほどどんより廃れた雰囲気ではないが、木が茂った行き止まりという立地は記憶と重なる。だぶんここなのだろうと思った。

 左手の2階建ての木造建築も、記憶と同じだ。思ったより小さいが誤差の範囲内だろう。建物2階の窓部分の、せり出した造りが特徴的だ。古いのだろうが改修されて随分と綺麗だ。今では住居として使われている様子だ。

標津線・上武佐駅舎跡地と映画「遥かなる山の呼び声」ロケ地の看板

 奥に進むと、高く成長した木々が茂る足元に「上武佐駅舎跡地&映画ロケ地跡」という看板が設置されていた。この木々の後ろがまさに駅舎があったのだ。描かれた木々と今も残る木々が時代を超えて重なった。

JR北海道・標津線廃線跡、上武佐駅の跡地

 でも数歩足を進めても、駅らしい雰囲気はもう無かった。ただ芝生が敷かれたような空地があるだけで、キャンプ場のようだ。レールやホームがあった場所を塞ぐように成長した木々が、廃線からの時の流れを感じさせた。

標津線廃線跡、上武佐駅跡

 中標津方を見ると、木々に僅かに隙間があった。鉄路の痕跡だ。

JR北海道・標津線廃線跡、上武佐駅の貨物ホーム跡

 根室標津方に少し歩いてみると、コンクリートのプラットホーム跡が残っているのを発見した。駅舎からやや離れていて短いので、貨物用のホームだったのだろう。

[2019年(令和元年)7月訪問](北海道中標津町)

追記: 駅前旅館etc…

 家に帰り改めて調べると、上武佐駅跡のあの木造建築物はやはり旅館だったとの事。旅館の名前は「土田旅館」。

 1916年(大正5年)、上武佐地区に駅逓所が設置された。駅逓所とは北海道開拓時代、交通不便な地に、人馬等を備え、人馬の継ぎ立てと宿泊、物資の輸送等に便宜を図るために設置された施設だ。

 1927年(昭和2年)、中央武佐地区まで植民軌道が開通すると、駅逓所もそちらに移転・移築された。その時に増築された2階建ての木造建築物が宿泊所で、旅館の起源だ。

 官設の駅逓所としては1931年(昭和6年)に廃止されたが、1933年(昭和8年)より民間の駅逓所として存続されていた。

 1937年(昭和12年)に標津線の上武佐駅が開業した。所有者が変わっていた駅逓所は、駅開業の前年、上武佐地区の現在地に移築された。そして翌年の1937年、駅開業に先駆け、土田旅館として営業開始したという。

 土田旅館は1985年(昭和60年)に廃業となった。その後、土木作業員の宿泊所として利用されていた事もあったが、空家の状態が続いたという。

 しかし2001年(平成22年)、個人が所有者となり、旅館部分が改修され住宅として使われるようになった。改修に伴い、大正11年築の平屋の駅逓所部分は取り壊された。

 2007年(平成19年)、北海道の駅逓制度の歴史を伝える貴重な遺構として、旧土田旅館こと北村家住宅主屋は国の登録有形文化財に指定された。


 レンタサイクルを借りた自転車屋だが、中標津バスターミナル近くで、車が無い人が標津線の廃線跡巡りをするのにうってつけ。私は当日飛び込みだったのでママチャリしか借りれなかった。だけど事前に申し込んでおくと、車種が色々あるようなので、予約した方が良さげだった。(2019年7月現在)。ちなみに下記のお店です。
サイクルステーションはやし (中標津商工会のウェブサイトより。)