甲府市内、JR東海側の拠点駅

JR東海身延線・南甲府駅ホームですれ違う313系電車

 甲府駅から身延線に乗り換え3駅、南甲府駅で下車した。身延線はJR東海の管轄でオレンジ色の帯の313系電車がすれ違う。

 駅は市街地にあり、帰宅時間帯で多くの人々が下車していた。

JR東海身延線・南甲府駅、留置線が何本もある広い構内。

 ホームは1面2線だが、何本もの側線が広がる風景はまるでレールの海。出番待ちの313系や作業用車が留置されていてもなお余る。今はひっそりしているが、昔は貨物駅もあり貨物の取り扱いも盛んだったという。そして側線の向こうに見える駅舎は、ローカル線の駅とは思えない威風堂々とした大きさだ。

 甲府駅はJR東日本の管理駅で、身延線は片隅に行き止まりホーム2線を間借りしていると言った感じだった。JR東海側、身延線の拠点となっているのがこの南甲府駅なのだろう。

JR身延線・南甲府駅、何本もの留置線を横切る長い構内踏切

 駅舎とホームをつなぐ構内踏切は4線もの側線を乗り越えていた。

身延線・南甲府駅、駅舎ホーム側には池のあるミニ庭園も

 駅舎側には見事な池のある庭園まであった。このテの池は枯れてしまっている駅が多いが、JR東海社員が勤務する有人駅で、手入れが行き届いている。うっすらと張られた水は透明感があり池の底も澱み無く見える。あちらからこちらからと角度をあれこれ変え、しばし撮影に没頭した。

JR東海身延線・南甲府駅、待合室にはみどりの窓口も

 大きな駅舎の1階中央部分が待合室になっている。出札口には駅員が勤務し、みどりの窓口の機能も有する。JR東日本の駅では特急が多く止まるような主要駅でも、近年、みどりの窓口が廃止され、遠隔での有人対応の券売機が取って代わっている。それを思うと有人のみどりの窓口が残っている光景は、今や貴重と言えるのかもしれない。

前身の富士身延鉄道の本社が置かれた重厚感溢れる駅舎

JR東海身延線・南甲府駅、富士身延鉄道の本社が置かれた堂々たる駅舎

 駅の外に出て駅舎を見渡してみた。横に長い左右対称の2階建てのコンクリート駅舎は威風堂々と鎮座しながらもレトロな気品漂い、見る者を圧倒する。南甲府駅は身延線の中間駅に過ぎないが、どこの県都の中心駅かと思える風格。まさに現代の世に残った昔ながらのターミナル駅舎だ。

 南甲府駅は身延線の前身の富士身延鉄道時代の1928年(昭和3年)、市川大門駅から甲府駅まで延伸開業した時に設置された駅で、現在の駅舎はその時以来の歴史を誇る。内部には富士身延鉄道の本社が置かれたという。開業当初は甲府南口という駅名だったが、1938年(昭和13年)に鉄道省が身延線を借り上げた時に、現在の南甲府駅へと改称された。

甲府市内、南アルプスの山々がそびえる南甲府駅前の街並み、

 駅は甲府盆地の真っ只中に位置し、周りに目を転じると、駅前の街並みの背後には南アルプスの山々がそびえていた。

JR東海身延線・南甲府駅、昭和築の重厚なビルディング駅舎

 ホーム側で撮影に興じてるうちに、いつの間にか駅には夜の足音が忍び寄っていたが、照明で浮かび上がる駅舎もまた味わい深いもの。古い昭和のビルディング風の造りだが、一見、素っ気ない建物に見える。だが細かく見ると、駅舎正面の縦長の窓周りの装飾、上部の四角い規則的な模様など装飾が洒落ていて洋風の趣も漂わす。

身延線・南甲府駅、重厚な駅舎の端部分の装飾

 両端部分の出っ張った部分の頂上は切込みが入れられている。真ん中の四角い装飾の部分がカラなのが物足りないが、かつて富士身延鉄の社章など何かエンブレムが刻み込まれていたのだろうか…

南甲府駅・駅舎の壁が剥がれ木のようなものが見える…

 2階部分で、ごくわずか壁が剥がれている部分があった。剥がれた部分には不思議なことに木目のような見える。木の板だろうか?コンクリート駅舎と聞いているが、部分的に木が使われているのだろうか…

身延線、松の木が似合うレトロな駅舎、南甲府駅

 駅前ロータリーに植え込まれた松の木が歴史ある駅舎に味わいを添えていた。

 見たところ、待合室部以外の部屋は照明がついていない。その大きさは、今となってはやや持て余し気味に映る。もっと活用され、末永く堂々とした佇まいを見せて欲しいものだ。

[2020年(令和2年) 10月訪問](山梨県甲府市)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 JR・旧国鉄の三つ星駅舎

函館本線から分岐していた廃線に残る旧駅舎を巡る

 青春18きっぷ並の価格で特急に乗る事ができ、指定席も4回取れる「HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス」。旅の主な目的の一つは、道央地区の函館本線から分岐していた廃線に残る保存駅舎を巡る事。

 昔の函館本線からは、短い支線がいくつも分岐していた。万字線、幌内線、歌志内線、上砂川支線etc… それらは沿線で採掘した石炭を運び出すために敷かれた鉄路だった。石炭輸送で賑わうだけでなく、沿線には人々が住み街は繁栄したという。

 しかし1960年代に起こったエネルギー革命により、石炭から石油へと燃料が移り変わると、炭鉱は次々と閉山になり、沿線から人々は去り衰退していった。そして石炭輸送のために敷かれた支線群はすべて廃線となってしまった。

 石炭の時代はもうはるか半世紀以上と遠くなった令和の時代でも、廃線となった支線のいくつかの駅舎は残っているという。そんな駅舎を訪ねようと思った。

国鉄万字線

1914年(大正3年)11月12日開業。1985年(昭和60年)4月1日廃止。

朝日駅

国鉄万字線・朝日駅、廃線後も保存される木造駅舎

 北海道中央バス、旧朝日駅前とそのままの名前のバス停で降りると、すぐに駅舎が見えた。素朴な外観の木造駅舎。

国鉄万字線・朝日駅舎、内部の窓口跡

 施錠されていて残念ながら中には入れなかった。しかし窓口跡、駅事務室は昔の造りを良く残しているのが伺えた。待合室はきれいでソファーが置かれていた。地元住民の集会場として利用されているのだろうか…

 プラットホームなどかつての駅構内は公園として整備され、蒸気機関車B20形1号機が静態保存されていた。

上志文駅

国鉄万字線・上志文駅、廃線後も残る木造駅舎

 そしてバスで岩見沢駅方面に折り返し、上志文中央停留所で下車。少し探すと上志文駅の旧駅舎を発見。万字線の起点・志文駅から一駅の駅だった。大きさは先ほどの朝日駅の半分ほどと小ぶりだ。保存の意図があって残っている訳ではないようだが、廃線30年が過ぎても生き長らえている駅舎。内部は駅事務室が取り払われがらんとした中、木製のベンチや竹が積まれていた。工作台らしきものあり、作業場…もしくは倉庫として利用されているよう。

万字線・朝日駅、古レールが軒を支える駅舎ホーム側

 駅舎ホーム側は整地されホームや鉄路の痕跡は失われてしまった。

 目の前に岩見沢萩の山市民スキー場が広がっている。これなら駅名を「スキー場前」いや「ゲレンデ前」としても良かったんじゃないだろうか。万字線が健在だった頃、僅かながら列車でスキーに来た人もいたのだろうか…

幌内線

 旅の二日目はまず幌内線の駅舎へ。

 幌内線の起源は官営幌内鉄道により手宮‐札幌―幌内間に開設された北海道最初の鉄道で、幌内線にあたる区間は1882年(明治15年)に開業。

 しかし国鉄の赤字ローカル線として、JR発足の僅か数か月後の1987年(昭和62年)7月13日に廃線となった。

萱野駅

JR北海道幌内線・萱野駅、廃線後はライダーハウスになった木造駅舎

 岩見沢駅から2つ目の駅だった萱野駅。岩見沢市街にほど近いが、三笠市内西端に位置する。廃線時は新建材等で改修された姿だったが、廃線後、木造駅舎らしいレトロな姿に改修され、現在ではライダーハウス(バイク乗りのための簡易宿泊施設)として活用されている。私の訪問時には1名の宿泊者がいた。

幌内線・萱野駅駅舎、長い歴史感じさせる軒の柱

 復原同然に改修されきれいになったとは言え、軒を支える柱は風雨に晒され木目浮き、継ぎ足し補修しながら利用されているものも。古い歴史感じさせた。

唐松駅

JR北海道幌内線・唐松駅、廃線後も保存された木造駅舎

 そしてファサードのマンサード屋根が堂々とした唐松駅。駅舎は開業の1924年(昭和4年)以来のものだが、乗客の増加で待合室が手狭になり、右手のマンサード状に作り変え増築したという。

唐松駅、往時のまま残る窓口跡には幌内線の写真が多数

 素晴らしいのが待合室が開放されている事。内部は窓口跡も含め現役時の面影がよく残る。待合室じゅうに列車や風景、駅員さんやその家族など、昔の幌内線の写真が大量に掲示されていた。こんな華やかな時代があったんだなあとしばし見入った。

幌内線・旧唐松駅舎、ホーム側の風景

 石積みのホームの上に佇む様は、廃線となってもなお堂々たる風格に満ち溢れる。

美唄鉄道唯一の生き残り駅舎、東明駅

 美唄鉄道は1914年(大正3年)開業、1972年(昭和47年)廃止。1950年(昭和25年)より廃線時までは三菱鉱業の所有になり、三菱鉱業美唄鉄道線となった。

 美唄駅から美唄市民バスに乗り東明駅跡へ。

 廃線から40年以上も過ぎてるが、当時の木造駅舎が地元住民の方々の「東明駅保存会」の手によりきれいに維持されている。大柄のごっつい感じで旧国鉄の木造駅舎とは一風違った風情だ。

 窓部分は白い板で完全にふさがれ、内部をうかがい知る事はできない。だけどたまに公開されているという。

 石炭輸送で賑わった頃を偲ばせる広い駅構内。片隅には美唄鉄道で活躍した4110形2号蒸気機関車が静態保存されている。

 この辺りの廃線跡はサイクリングロードに転用されたが、危険個所が発生したため再び廃止の憂き目に。

函館本線旧線跡の神居古潭駅

 この駅は石炭がらみではないが、道央の保存駅舎という事で…

 宗谷本線の秘境駅など道北を巡った後、再び函館本線に戻り、伊納駅‐納内駅の旧線跡に残る神居古潭駅跡へ。

 最寄りのバス停、神居古潭で下車した。車がせわしく行き交う中、人の気配が無い山間の国道にバス停のポールがぽつんと置かれているだけだった。近くのドライブインらしき家屋はもう廃墟だ。こんな所に本当に駅があったのかと思いつつ地図を見て歩くと、荒々しい川岸のつり橋の向こうが駅跡らしい。今風に言うなら完全に秘境駅の趣きだ。

国鉄函館本線旧線、神居古潭駅跡に復原された木造駅舎

 つり橋を渡り、坂を上ると神居古潭駅の木造駅舎があった。1997年、自転車で北海道を旅した時に訪れていて2回目の訪問だ。

 この駅舎は1989年(平成元年)に復元されたもの。復元のモデルとなった旧駅舎は1910年(明治40年)に建てられたたもので、西洋の意匠が取り入れられているのが特徴的だ。駅舎を軒が取り囲む様が回廊のようで、洋風の装飾が施された柱一本一本に支えられているのが優雅で端正な印象だ。

国鉄函館本線旧線、神居古潭駅跡に残る往時からの木造建築物

 駅舎は復元だが、隣に建つ古めかしい木造の小屋はどうやら現役時から使われているもののよう。建物財産標は剥がされ何だったのかはわからない。倉庫だったのだろうか…

国鉄函館本線旧線跡、神居古潭駅プラットホーム

 2面2線のプラットホームはほぼ当時のまま。しかし川側のコンクリートホームはガタガタになっている。レールこそ剥がされているが、カーブを描きながら伸びる様はいまだに駅の貫禄を漂わせていた。

まだある残存駅舎

 ダイジェスト版と簡単な形ではあるが訪問した駅を紹介した。

 今回は訪れなかったが、この地区には他に上砂川支線の上砂川駅跡、そして、少しそれて根室本線の芦別駅から分岐していた三井芦別鉄道の三井芦別駅跡にも当時の駅舎が残っている。いずれ訪れたいものだ。


 上であげた駅の中から、いくつかは詳細版の訪問記を作成しようと思う。

比婆山駅、駅舎と風景

芸備線・比婆山駅、廃止されたホーム跡と周囲の風景
比婆山駅の反対ホームは廃されて久しいがまだ残り、まるで遺跡のよう。周囲は山里の長閑な風景が広がっていた。
芸備線・比婆山駅、駅舎と廃止番線
駅舎とホームの間にはレールの存在を感じさせる空間があった。こちらは貨物用だったのだろうか…
JR西日本芸備線・比婆山駅、社殿風の木造駅舎が現役
木造駅舎は付近の熊野神社にちなみ社殿風。曲線を描き反る屋根や車寄せの懸魚といった和風の造りが小駅ながら神々しさ漂う…
芸備線・比婆山駅、昔の駅時刻表が使いまわされた木の駅名看板
駅名看板はどこかの駅時刻表だった古い木の板を再利用したもの。醸し出す雰囲気はもちろん「一・二等」という表記が歴史感じさせる。
芸備線・比婆山駅、池のあるミニ庭園
駅舎の横には池のあるミニ庭園がある。植栽もきれいに整えられ、駅の癒しの空間だ。
芸備線の秘境駅、比婆山駅の駅前
芸備線に沿って国道314号線が並走し、駅前にはこじんまりとした集落が形成されている。駅前商店は現役。
芸備線・比婆山駅の木造駅舎、古びた待合室
正面は外壁が改修されているが、待合室は昔の造りを比較的良く残す。
そしてホーム側の屋根や柱も古い木の造りを残し味わい深い。
JR西日本芸備線・比婆山駅、120形の広島支社色
三次行きの列車がのんびりとやってきた。1日5本のうちの貴重な一本だ。

比婆山駅訪問ノート

 比婆山駅の開業は1935年(昭和10年)12月20日。開業当初の駅名は備後熊野駅だが、1956年(昭和31年)に現在の駅名に変更となった。

 比婆山は駅から北に直線距離で約11㎞んにそびえる標高1299mの山で、日本神話の国生み神話女神の伊邪那美が埋葬された地との伝承があり、伊邪那美命を祭るのが熊野神社だ。

 駅舎は開業の昭和10年以来のもので、熊野神社にあやかってか、小駅ながら神社を思わす社殿風の造りがユニークだ。

 鳥取、島根、広島ともまたがる中国山地のこの一帯は比婆道後帝釈国定公園に指定されている。同国定公園内には名勝として知られる帝釈峡があり、熊野神社もあり行楽色のあるこのような社殿風の駅舎にしたのかもしれない。しかし現在、比婆山駅からそれら観光スポットへの公共交通は無く、歩くには距離が離れすぎているため、錆びれた無人駅と言った空気が漂う。1日の乗客は数人程度という。

 しかし今ではひっそりとしてしまった駅でも、駅舎横の池のある庭園はきれいに整えられている。こういった池は、もう少しで秘境駅と言えるような駅ではほとんどが枯れてしまっている。

 駅前商店(これも今や貴重!)で買い物をした時に、初老の店員さんにこの池について話題を振ってみた。すると、枯れていて池の底にはひび割れもあったけど、地元の有志で修復し維持していると教えてくれた。寂れた感は否めないが、それでも地元の人々にとって駅は集落のシンボルなんだなとしみじみと感じた。

[2012年(平成24年) 7月訪問](広島県庄原市西城町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

あの駅名が書かれた看板、元はどの駅にあったのか…

 やはり気になる“あの”レトロさ漂う駅時刻表を使いまわした駅名看板。元々はどこの駅にあったかを、自分なりに考察してみました。下記の記事へどうぞ。

比婆山駅「あの」古い駅時刻表、どこの駅のものだったのか…?

比婆山駅の駅名看板、一・二等、日豊経由など浮き出た文字

ときわ台駅、駅舎と風景

東武東上線・ときわ台駅、大谷石の壁と古レール特徴的な駅舎ホーム側
昭和10年築の駅舎が残る東上線ときわ台駅。開業時のままと言う大谷石(おおやいし)の壁や古レールの柱が印象深い。
東上線・ときわ台駅の洋風駅舎、改札口
改札口は明り取りで塔のように天井が高く取られている。
東武鉄道東上線・ときわ台駅、昭和10年開業時の姿が再現された駅舎
北口駅舎は元々、古い洋風駅舎が使われていたが、2018年の改修で可能な限り昔の姿に改修され、よりレトロで趣のある姿に…
東武東上線・ときわ台駅、ユニークな装飾の洋風駅舎
青いスペイン瓦の屋根、破風板の波と玉の模様、窓周りの装飾など細かい装飾が洒落ている。
東上線・ときわ台駅、街の昔の風景が展示された武蔵常盤小径
駅舎右側の大谷石の壁面は「武蔵常盤小径」と名付けられ、この辺りの昔の風景や建物が展示されたギャラリーに。
東上線・ときわ台駅武蔵常盤小径、昭和30年当時のときわ台駅
その中には昭和30年に撮影されたときわ台駅舎の写真も。特徴的な部分は昔のままだ。
東武鉄道東上線・ときわ台駅、駅前のロータリー
駅前にはロータリーが整えられている。北口一帯は東武鉄道が不動産開発をし昭和11年より分譲を開始した事により発展した。
東武鉄道東上線・ときわ台駅、路地の中にある南口の駅ビル
南口駅舎は北口とは正反対のコンクリートのビルで、路地裏に佇んでいるのが不思議な感じだ。

ときわ台駅訪問ノート

 ときわ台駅は1935年(昭和10年)の開業。開業当時は武蔵常盤台駅という駅名だったが、1951年(昭和26年)に現在の駅名に改称された。

 駅舎は開業以来の洋風駅舎だ。日本の駅舎としては珍しい石造りの壁で、栃木県宇都宮市大谷町から採掘される大谷石が使われている。青いスペイン瓦の屋根、改札ホールの高い天井、破風板の波線と玉の文様など、随所の洋風の造りも素晴らしい。

 この駅舎は、ときわ台駅より3年早く開業した日光線の南宇都宮駅とほぼ同じデザインなのも興味深い。壁も同じく大谷石が使われている。

 2008年にときわ台駅に訪れているが、その時も、趣ある洋風の佇まいに感銘を受けたもの。しかし2018年、駅舎のリニューアル工事が施された。過去の写真を参考にしたりなど、できる限り昔の姿を再現したという。リニューアル後の姿はよりレトロさに溢れた雰囲気に。駅舎横に新たに設置された大谷石の壁面「武蔵常盤小径」には、この街の昔の建物や風景を留めた写真が多く展示され、ときわ台駅の昔の写真、駅舎の図面などもあり、見ていて飽きない。

 間違いなく名駅舎で、地元の人々に十二分に愛されているが、大正築の原宿駅旧駅舎が無き今、東京23区内に残る古駅舎として、もっと注目されてもいいと思う。

東武鉄道東上線、2008年当時のときわ台駅北口駅舎
(改修前のときわ台駅北口駅舎(2008年))

[2018年(平成30年) 7月訪問](東京都板橋区)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 私鉄の三つ星駅舎

ミニマムでシンプルな和風駅舎

京福電鉄北野線・御室仁和寺駅、仁和寺を控え和風の造り
京福電鉄の御室仁和寺駅、開業の大正14年(1925年)築の和風木造駅舎。旧駅名「御室駅」古い駅名看板が掲げられいる。
京福北野線・御室仁和寺駅駅名標と仁和寺山門
世界遺産の名刹・仁和寺の最寄駅で、駅からは堂々たる構えの山門「仁王門」が望める。
京福電鉄・御室仁和寺駅、簡素ながら趣ある和風木造駅舎
仁和寺にあやかり和風の造りが取り入れられているが、路面電車の駅で小さな切符売場に上屋があるだけと設備は簡素。
京福電鉄北野線・御室仁和寺駅、ホーム
ホームは2面2線、駅舎は北野白梅町方面ホームに面している。構内通路は無く、上下ホームとは一般の踏切で行き来する。
京福電鉄北野線・御室仁和寺駅、車寄せが和風の造りの木造駅舎
車寄せなど随所にちりばめられた和風の造りが寺社のようで。出入口に鎮座する改札口はまるで賽銭箱!?
京福電鉄・御室仁和寺駅、駅舎正面横には古い出札口の造りが…
無人駅だが、出入口右手側に古い出札口の造りが残っていた。ここもちょっとした和風の造りで面白い。
京福・御室仁和寺駅、駅舎横の椿の木
駅舎横には椿の木が植えられ、くすんだ駅舎に風流さを醸し出す。
京福電鉄・御室仁和寺駅、一角には駅事務室跡
切符売場のある小さな事務室跡も残る。木の塀で囲われているのが民家っぽい。
京福電鉄北野線・御室仁和寺駅、ホーム側の造り付け木製ベンチ
ホーム側の造り付けのベンチは使い込まれた木の質感溢れ、また違った味わいを感じさせた。

御室仁和寺駅訪問ノート

 御室仁和寺駅は1925年(大正14年)、京福電鉄の起源の京都電燈時代に開業した。当初は「御室駅」という駅名だったが、2007年(平成19年)に現在の駅名となった。

 仁和寺を控え和風の造りが印象深いた木造駅舎だ。しかし軌道線…路面電車の駅であるためか、小さな切符売場があるだけの駅事務室に上屋が掛けられただけと、きわめて簡素な設備だ。この駅構造は琴電の元山駅と似たような造りで、中小私鉄の昔ながらの小駅と言った感じなのだろう。

 しかし寺社のような車寄せや、そこにある懸魚など和風の装飾や模様、ホーム側の屋根を支える持ち送り、出札口の造りなど、随所にちりばめられた和の粋が印象深い。由緒ある寺社の門前の駅はこうでなければとしみじみと感じさせた。

 仁和寺は平安時代の888年(仁和4年)宇多天皇の御代に落成した。そして宇多天皇が出家し、境内に御室と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、仁和寺は御室御所と称された。江戸時代末期まで皇族との関わりは深かったという。

 仁和寺は平安京のちょうど西北の外れにある。都から離れ山々を控えた閑静な場所に立地する寺院はきっと後生を願うのにはいい地だったのだろう。京都市街地の雑踏からから離れ落ち着いた立地にある古刹と、その前に佇むちっぽけな和風駅舎は、時代を超えた現代でもそんな雰囲気を漂わせていた。

[2016年(平成28年)1月訪問] (京都府京都市右京区)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 私鉄の三つ星駅舎

大正より首都の雑踏に佇み続けた木造駅舎を愛でる

 2016年6月、原宿駅が建て替えが発表された。原宿駅と言えば1924年(大正13年)築の木造駅舎が現役で残り、都内最古の木造駅舎として知られていた。建替え発表時点では、今の駅舎をどうするかの発表は無かった。

 原宿駅は2004年に訪れたっきりだった。もしかしたら無くなってしまうかもしれないので、そうなる前に訪れたいと思った。

JR東日本山手線・原宿駅、大正築の洋風駅舎をホームから見上げる
ホーム側から駅舎を見上げた。改修されながら使い続けられているとは言え、山の別荘のような優雅な佇まい。
原宿駅臨時ホーム(旧3番線)片隅の原宿駅開業70周年記念碑
正月のみ利用された3番線はもう工事中。片隅に「原宿駅開業七十周年記念碑」がポツンと佇む。
JR東日本山手線・原宿駅、北側にある皇室専用の宮廷ホーム
そして駅北側には皇室専用の通称「宮廷ホーム」がある。「宮廷」の名に比し驚くほど簡素だ。
JR東日本山手線・原宿駅、東京都内最古の木造駅舎
都内最古の駅舎は洒落た洋風の佇まい。有数の乗客数を誇る山手線にこんな駅舎が存在するのは奇跡だ。
大正の洋風木造駅舎の原宿駅、小さな塔と風見鶏
屋根の上にはレトロで小さな塔を戴く。チューリップハットのような屋根やてっぺんの風見鶏が遊び心感じさせる。
原宿駅、洋風の造りが趣深い大正の木造駅舎
ハーフティンバー調の木の装飾が洒落ていて、使い込まれた様が味わい感じさせる。時計回りの葉っぱの装飾も楽しい。
JR東日本・原宿駅、車寄せの木の装飾
車寄せのちょっとした木のレリーフも心憎い装飾…
JR東日本・原宿駅、木造駅舎らしい軒の造り。
小さな木の庇は他の古駅舎同様、使い込まれ、木造駅舎らしさ溢れる。支えの木の棒がATMの上部のカバーを貫いている!
趣ある造りの東京都内最古の木造駅舎、JR東日本原宿駅
原宿駅舎の魅力を凝縮したような角度から一枚…

[2017年(平成29年) 訪問](東京都渋谷区)

そして終焉、再建へ…

 大正築の木造駅舎は建築的に価値が高く、長年、原宿に佇み続けた小さな駅舎は街の風景に溶け込み、人々の愛着も並々ならぬものがあった。取り壊されるのか… それとも保存されるのか移築か… 建替えが発表されてから駅舎の処遇は大きな関心が寄せられていた。

 だげど結局、取り壊される事になった。

 2020年(令和2年)3月21日、新駅舎が供用開始となり、旧駅舎となった木造駅舎のシャッターは固く閉じられた。しかし直ぐに取り壊しに入る事は無いという。当初はオリンピック・パラリンピックの閉会後に取り壊される予定だったと記憶している。なのでしばらくは残りそうだ。

 2020年8月、取り壊し後、旧駅舎が復元される事が公表された。旧駅舎とほぼ同じ位置で、防火性に配慮しつつ、旧駅舎の部材をできる限り再利用するという。

 完成後のイメージ図を見ると、出入口とその両脇の窓部分までの構造が残るよう。少しズレるものの、ほとんど同じ位置なので、これならこの歴史的建築物をそのまま保存すればいいのにと思わなくもない…。しかし、人が多い街中という事で、防災面で難しいものがあるようだ。

 そして8月24日より旧駅舎の解体工事に入る事も発表された。残された時間はほんとうに僅かとなってしまった…。復元される駅舎がいいものになるよう期待している。

谷村町駅、駅舎と風景

富士急行大月線・谷村町駅、古レールの柱や木の上屋が味わい深い
木の上屋、古レールを使った柱、どっしりとした改札口…、きれいに改修されているけど古き良き佇まいに溢れるホーム
富士急行大月線・谷村町駅、古レールに添えられた花
古レールの柱1本1本には鉢植えの花が添えらえ駅は華やぐ。
富士急行大月線・谷村町駅の木造駅舎、広い待合室
谷村町駅は都留市の中心街にあり待合室は広いが、ひっそりとしていた…
富士急行大月線・谷村町駅、駅舎には中華料理店が入居
駅には中華料理店が入居。暖簾は降ろされ営業前だ。売店のような一角は立ち食いコーナーだったらしい…
富士急行大月線・谷村町駅、昭和4年築の木造駅舎
谷村町駅は昭和4年築の木造駅舎が現役。片隅の民家の玄関っぽい部分は富士急の駅舎独特の造りで駅員宿舎跡だ。
富士急行大月線・谷村町駅、駅舎屋根の風向計
観光に力を入れる富士急で木造駅舎は洋風のムードに改修。屋根のメルヘンチックな風向計が目を引いた。
富士急行・谷村町駅「よこさぬように美しく」のホーロー看板
駅舎にはタクシー会社も入居。タクシー窓口には古い駅舎でたまに見る「よごさぬように美しく」のホーロー看板も。
富士急行大月線、雨の谷村町駅と駅猫
強い雨が降り続き、駅で遊ぶ猫も戸惑い気味に外を見ていた…

谷村町駅訪問ノート

 駅の開業は1924年(昭和4年)6月19日。その時以来の木造駅舎が現役だ。駅は市役所などもある都留市の中心街あり、待合室は広く取られているのがそう感じさせる。訪問時はひっそりしていたが…

 富士急は観光路線とも言え、同社の木造駅舎は洋風の雰囲気にきれいに改修されている例が多い。この谷村町駅も、色使いが柔らかく、屋根に洒落た風向計が載せられ、童話に出てきそうなどこかかわいらしいムードが漂う。

 しかし、民家の一部を無理やり着けたような駅員居住スペースも富士急独特。富士急らしいというかどこかミスマッチなのが面白い。

 駅は乃木坂46「今、話したい誰かがいる」のMV、映画「麦子さんと」、ドラマ「いま、会いに行きます」などのロケ地となった。


 2017年10月、駅舎とプラットホームの上屋が国の登録有形文化財に指定された。

 2018年より、使われなくなった宿舎部分に、都留文科大学の学生が中心となり子供たちが集うスペース「ぷらっとはうす」を開設し活動している。

[2007年(平成19年) 9月訪問](山梨県都留市)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 私鉄の二つ星駅舎

南松本駅、駅舎と風景

JR東日本篠ノ井線・南松本駅、JR貨物の駅も併設
篠ノ井線の南松本駅で下車すると、目の前にはレールの…、そして多くのコンテナ。JR貨物の駅も併設されている。
JR篠ノ井線・南松本駅、貨物ヤードが広がる風景
ホームは島式の1面2線だが、広大な貨物ヤードに比べれば僅かなスペースだ。乗降客はそこそこ多い。
JR東日本篠ノ井線・南松本駅、改築が決まった木造駅舎
木造駅舎は半分に減築され小奇麗に改修されているが、1947年(昭和22年)築と歴史あるもの。
JR東日本・篠ノ井線・南松本駅、駅舎内部の出札口
内部はきれいに改修され使われている。出札口と待合室もある。
JR篠ノ井線・南松本駅、小さくなった駅舎と隣の居酒屋
駅舎が削られた部分は、飲食店となっている。
JR篠ノ井線・南松本駅の木造駅舎、古いままの車寄せ
何かと改修されている駅舎だが、正面の車寄せは古い造りを残す昔からのもの。
JR東日本・篠ノ井線・南松本駅の木造駅舎、側面の通風孔
屋根の側面には小さな通風孔が4つあり目を引いた。
JR篠ノ井線・南松本駅の木造駅舎、ホーム側の木の柱
新築のような駅舎だが、ホーム側の軒は木目浮かぶ古い木のままだ。切り裂かれたようなヒビがまるで悲鳴を上げているかのよう…

南松本駅訪問ノート

 木造駅舎が残っている事はなんとなく知っていて訪れたいと思っていたが、2019年の8月にやっと降り立つ事ができた。

 長野県第二の都市、松本市の都市圏にあるだけあって、広大な貨物ヤードの反対側の駅西側一帯は、マンションなどがある街並みが広がり、一日の乗降客は3000人程度と多めだ。

 南松本駅の開業は1944年(昭和19年)で、現駅舎は1947年(昭和22年)の築。元々はもう少し大きな木造駅舎だったが、2004年(平成17年)に、左側が削られ半分の大きさに減築された。一見、きれいに改修され味わいはいま一つだが、車寄せやホーム側軒の古びた柱など古い造りを残してるのが味わいを感じさせた。

 残念ながらこの駅舎、老朽化やバリアフリー対応のため、残念ながら建替えが決まっている。来年2021年の1月には新駅舎の供用開始が予定されているという。無くなる前に訪れる事ができたのは幸運だったのだろう。

[2019年(令和元年) 8月訪問](長野県松本市)

追記: 新駅舎供用開始、そして旧駅舎引退

 2020年夏からこの現駅舎の南側・右隣で、新駅舎の新築工事が始まった。現駅舎を右側の一部を切り崩しつつも利用を続け、新駅舎を建てていったという。

 そして工事が完了し、2021年1月23日より、新駅舎が供用開始となった。旧駅舎となった木造駅舎は、完全に使用停止となった。早ければ2月から取り壊し工事が始まる予定だという。

レトロ駅舎カテゴリー: JR・旧国鉄系の失われし駅舎

鶴形駅、駅舎と風景

奥羽本線・鶴形駅近く、秋北バスの鶴形停留所
奥羽本線の二ツ井駅から秋北バスで鶴形停留所へ。バス停はこじんまりとした街並みの中にあった。100mばかり南に歩くと鶴形駅だ。
JR東日本奥羽本線・鶴形駅、戦後築の高床式の木造駅舎
鶴形駅の木造駅舎は築堤のレールに合わせた高床式という変わった構造。きれいな花々が駅に彩りを添える。
奥羽本線・鶴形駅、高床式駅舎の1階部分は自転車置場やトイレがある
一階部分はトイレのある小室と自転車置場があり空間を有効活用。駅舎を支える鉄の柱には所々で古レールが使われていた。
奥羽本線・鶴形駅、ベランダのような出入口から周囲を見渡す
駅舎への階段を上ると車寄せ的な出入口がある。周囲を見下ろすと、ベランダにいるかのよう。2階からの視点が新鮮だ。
奥羽本線・鶴形駅の木造駅舎、広めの待合室
待合室はやや広めで無人駅となり窓口は塞がれていた。特急かもしかが窓の外をかすめるように通過していった。
奥羽本線・鶴形駅、地元小学生による手書きの駅案内図
鶴形小学校生徒による駅の地図。手書きの楽しさが溢れている。
JR東日本・奥羽本線・鶴形駅、駅舎ホーム側
駅舎とホームは少し離れていて、築堤上にあるホームとは短い橋で結ばれている。
JR東日本・奥羽本線、鶴形駅に入線した701系電車
2番線に秋田方面行きの普通列車が入線。都会的な701系電車は、秋田仕様のピンクの帯をまとっていた。

鶴形駅訪問ノート

 奥羽本線・鶴形駅の開業は戦後の1949年(昭和24年)と比較的新しい。当初は仮乗降場で、上下3本ずつの列車が停車したという。

 正式な駅に昇格したのは1952年(昭和27年)1月25日。今の木造駅舎は昇格当時からのものだが、築堤上のレールに合わせた高床式という変わった構造が強いインパクトを発する。古レールなどの鉄骨が駅事務室や待合室のある駅本屋を高くかかげ、1階は壁が無い屋外と言った感じ。1階の大部分が自転車置場で、片隅の小さな一室がトイレとなっている。

 無人駅だが、目の前にある鶴形小学校の生徒たちが、色々と活動していてるようだ。待合室には駅構内図や歴史紹介など手書きの掲示物あり、清掃活動時の写真なども展示されていた。

 また地元住民によるボランティアグループの鶴寿会が1965年(昭和40年)より長きに渡って、駅清掃の奉仕活動を続け、「鉄道の日」鉄道関係功労者大臣賞を受賞するなど表彰されている。

 駅前やホームに鉢植えの花々がいくつも置かれ、駅を華やかにしている。

 駅は1971年(昭和46年)に早々と無人化されてしまったが、地元の人々の愛着が変わらず駅を包みこんでいる。

[2007年(平成19年) 9月訪問](秋田県能代市)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星駅舎

黒姫駅、駅舎と風景

しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、小林一茶の句碑
「やれ打つな 蝿が手をすり 足をする」
ホームに小林一茶の句碑があった。一茶は黒姫駅のある信濃町の出身だ。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、昭和7年築の洋風木造駅舎
傾斜が急で高い屋根や、ファサードのギャンブレルの明り取りの窓と言った、洋風の造りが特徴的な洋風木造駅舎は昭和7年築。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、信濃町観光案内所
黒姫駅は野尻湖などがある信濃町の中心駅。駅舎には観光案内所が入居する。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、駅舎内部の売店・待合室
内部もすっかり改修され、一度は売店や蕎麦屋も撤退したが、地元の人々により営業が復活した。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、駅舎内イラストの装飾
改修された駅舎のあちこちに鳥や化石のイラストが描かれた小さな板が埋め込まれていた。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、レンガ積みのプラットホーム
プラットホームはレンガ積みで、官設鉄道~信越本線以来の歴史を感じさせる。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅、側線のターンテーブル(転車台)
構内片隅の側線跡には立派な転車台があった。レールは草生し車止めの処置がしてあって、もう使われていないのもったいない。
しなの鉄道北しなの線・黒姫駅の木造駅舎、切妻部分の装飾
屋根の妻側には小洒落た洋風の装飾が施されてた。

黒姫駅訪問ノート

 黒姫駅の開業は1888年(明治21年)と古く、当時は柏原という駅名だった。現在の駅名に改名されたがの1968年(昭和43年)とわりと最近だ。と言っても、半世紀過ぎているが…

 JR信越本線時代の1990年代前半に訪れて以来、約4半世紀振りに黒姫駅に降り立った。その時は名古屋からスキー列車・シュプール号でだった。スキーに来たのではなく、乗り鉄としてもちろん乗車目的(笑) 黒姫駅で降り立ち駅前に出ると、夜の闇の中に小さな駅舎が佇んでいた事はおぼろげながら覚えている。

 その時、意識していなかった駅舎は1932年(昭和7年)築。半切妻の高い屋根と、ファサードの明り取りのギャンブレル屋根が印象深い洋風木造駅舎だ。

 観光シーズンの8月、野尻湖や黒姫高原と言った周辺への観光客で、小さな駅は賑わっていた。そのためか駅舎内部だけを見れば、改修されていて古さは感じない。しかしどれだけ改修されようと、高くそびえるようなハイカラな屋根はやはり印象的で、駅の歴史感じさせる。屋根の側面に装飾が施されるのは、長野県の国有鉄道駅舎に良く見られる独特の造りだ。

 野尻湖は大正の頃、日本に住む外国人向けの別荘地として発展したのが、行楽地としての始まりという。そう言った国際的保養地として成長していた背景が、昭和の改築で洋風の駅舎を誕生させたのだろうか…?

[2019年(令和元年) 8月訪問](長野県上水内郡信濃町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 JR・旧国鉄の二つ星駅舎


.last-updated on 2020/07/23