駅高架化工事のため姿を変える半田駅
武豊線の半田駅が駅高架化工事のため、駅舎など主な設備での営業が6月5日をもって終了となる。
半田駅と言えば、1910年(明治43年)築の国内最古の跨線橋がいまだ使われ続けている事で知られている。
但し、この「最古」には若干の注釈付が付く。山陰本線・八鹿駅の跨線橋は、福知山駅にあった1907年(明治40年)築の跨線橋が、1955年(昭和30年)に移設されたもの。同じ山陰本線の大田市駅には、明治23年と刻印された鋳鉄製門柱(跨線橋出入口両脇に設置された鉄の柱)がある。つまり1890年築で、大田市駅の開業は1915年(大正4年)なので、どこかの駅から移設されたという事になるが、それがどこかは分かっていない。
…と、単純に造られた年ではなく「同じ場所でずっと使い続けられている」という意味での最古と言える。
とは言え、110年もずっと佇み続けているのは驚嘆に値し、愛知県下初の鉄道路線である武豊線の歴史を感じさせる鉄道遺産だ。
他にも跨線橋と同年築のレンガ造りの油庫(危険品庫)、大正11年築とされる駅舎、重厚な木造のホーム上屋など、歴史ある数々のものが撤去となる。幸いにも跨線橋と油庫は保存の方向で話が進んでいるとの事だが、現役という重みはやはり響きは違ってくる。
ちょっと前…、武豊線非電化時代の跨線橋
武豊線は2002年に初めて乗車し、現役最古とされる駅舎が残る亀崎駅などと共に、半田駅にも訪れた。それ以来、近場という気軽さから何度も訪れている。
何回目かに半田駅を訪れた2010年4月、木造跨線橋は当たり前のようにあった。この時、御年100歳。寄り添うレンガ製の油庫もだ。
武豊線は沿線の念願だった電化が決まっているが、この跨線橋はどうなるのだろうと思ったものだ。幸いにも取り壊しが決まったとは聞こえてこなかったが。
屋根を除いて内部は木造のままだ。階段を踏みしめる度に木の反響がかえってくるのが相変わらず心地よい。
跨線橋駅舎側の鋳鉄製門柱には「明治四十三 鉄道新橋」と刻印されていた。
現代的なキハ75と100年前に建てられた明治の跨線橋が邂逅する風景はこの駅の日常。跨線橋は気動車から排出される煙で、列車が真下に来る部分だけかすかに黒ずんでいた。
それから4年後の2014年4月。電化を9ヶ月後に控え、跨線橋の下には架線が通されていた。何とか通せたようだがギリギリだ。高速で通過する列車は無いが、パンタグラフから飛び散った火花が当たって燃えてしまわないか、素人目に気になった。
電化工事のついでか塗装がし直されていて、茶色だった部分は濃い赤色に。ペンキが厚く乗りつやつやしている。メンテナンスの賜物だが、よく100年以上も持っているなと思う。
2017年(平成29年)より、武豊線・半田駅前後の約2.6㎞の連続立体交差事業…つまりは高架化工事が着手された。半田駅は高架化される事になる。あの最古の跨線橋は諦めなければいけないだろう。「明治四十三… 」と標された鋳鉄製門柱だけは記念碑的に残されるかもしれないが…
2020年から半田駅仮駅舎の工事も始まった。もう時間の問題だ。
引退迫る最古の跨線橋を訪ねる
2021年6月6日から半田駅が仮駅舎に切り替えられると発表された。いよいよカウントダウンに入った。
6月になり半田駅の国内最古の跨線橋が役目を終える事が、新聞社やTVなどでも報じらるようになった。何と!その中で、跨線橋は駅前に整備される公園に移築される方向で話が進んでいると書かれていた。思わぬ話に狂喜乱舞する心境だった。
とは言え、110年の役目を終えるという大きな区切りは重みを感じざるを得ない。なので現役最後の様子を焼き付けようと武豊線に乗った。
あの木造跨線橋は当たり前のようにあった。だが、こうして列車から降りた私を出迎えてくれるのもこれが最後。今度来た時はもう無い。
跨線橋引退が報じられ始めたため、平日の昼間にも関わらず、跨線橋目的の訪問者があちこちにいた。みんな、一眼カメラやスマホを手に動き回り撮影していた。この感じなら、最終日となる6月5日の土曜日、半田駅はちょっとしたお祭り騒ぎかもしれない。
跨線橋を支える鉄の柱でさえ、レトロな味わいに溢れ美しい。
跨線橋と一体となったプラットホームの上屋も古い木造で、昔の駅のような郷愁漂う。何十本と並ぶ木の柱には皴のように木目が浮かぶ。列車から降りると、使い込まれた木で覆われたホームに…、そして帰る時は、跨線橋から続く木の上屋が目の前に広がり、いつもハッとさせられたものだ。
跨線橋の屋根は木でない素材に取り替えられているが、壁は木のままで。階段はカバーが取り付けられるなど改修されているが、踏みしめると木の感触が響く。一歩一歩踏みしめると、まるで小学校の頃の木造校舎が蘇ってくるかのような心地だ。
駅の外に出て眺めてみた。跨線橋、プラットホーム、レンガ製油庫、そして駅舎…。跨線橋と油庫は残るとは言え、この慣れ親しんだ風景はもうすぐ失われてしまう。リアルな牛の像がインパクトあった「知多酪農発祥之地」記念碑は、一足先に駅前から消え、地面に穴が残るだけだった。
半田駅は半田市のJR側の代表駅の位置付けだ。しかし、名鉄の知多半田駅に押され、やや閑散とした感。昼間は列車が到着しても、ぱらぱらと乗客が出てくる程度でローカル線のようなムード漂う。
この跨線橋の下、列車がすれ違うのもあと僅か。
今回、初めて西側にまわり跨線橋を眺めてみた。このド側面の眺めも渋いものだ。
そして南側からの風景も初めてだった。何回も来ているのに新鮮で、最後に訪れる事が出来て本当に良かった。
この跨線橋は保存の方向で話が進むとの事だが、どのような形で残るのだろうか?完全な形で移築されるのが嬉しいが、難しく部分的になるかもしれない。
できるなら、建築当時をイメージし復原した跨線橋を中心に色々と整備するのがいい。例えば、プラットホームは20メートル程度復元し、木造の上屋も移築し、往時を思い起こさせるような形だったら最高だ。駅に隣接する半田市鉄道資料館で静態保存されている蒸気機関車・C11-265を、停車しているようにホームに付けるのも面白い。資料館も近くに移し、公開日がもっと増えればと思う。周囲は芝生や花が心地よく人々が気軽に憩える公園がいい。武豊線の歴史に気軽に親しめる鉄道記念公園みたいになっていればいいかな…と思う。
[2021年(令和3年)6月訪](愛知県半田市)