3線が交わったゆとりある駅構内

蒲郡線との接続駅、名鉄・吉良吉田駅、西尾線用の3番ホーム。

 名鉄西尾線の列車に乗り終点の吉良吉田駅へ。蒲郡線との接続駅で、かつては三河線とも繋がっていたが、2004年に三河線の海線と称された碧南‐吉良吉田間は廃止された。

名鉄・吉良吉田駅、かつての西尾線・蒲郡線と三河線の乗換え通路跡

 3線のちょうど合流点にある吉良吉田駅の敷地は三角状となっていた。ホームはV字状に配され、西尾線と三河線が蒲郡線に合流する形で、かつては南側から三河線の1・2番線、西尾線と蒲郡線の3・4番線となっていた。三河線海線の末期は小さなレールバスがコトコト走ってたものだ…

 2008年に蒲郡線の列車は旧三河線の2番線に移された。レールはまだ繋がっているものの、西尾線と蒲郡線の直通運転は廃止。それだけでなく両線ホームの間には中間改札も設けられ、運行上分断された。

 両線の需要が段違いというのもあるのだろう。しかし磁気カードのプリペイド式乗車券・トランパスが吉良吉田駅で導入されたが、蒲郡線では導入されない事が決定していた。なので、トランパス利用者の蒲郡線乗車時の運賃精算の手間が嫌われたのだろう。

 三河線廃線後、1・2番線は封鎖されていたが、運賃精算の手間を無くすためか…、思わぬ形で蒲郡線ホームとして復活したものだ。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅、中間改札設置前の駅構内ホーム
(※2008年、旧三河線ホーム封鎖時の吉良吉田駅。)

 中間改札設置前、かつて両ホーム間には三角状の敷地が広がり、乗換え通路として機能していた。そこには小さな庭園風の空間もありゆとり感じさせたもの。泳いでいた金魚がただ懐かしく思い出された…

駅統合以来の木造駅舎?

名鉄吉良吉田駅改札口、木造駅舎らしか感じる木の柱

 外に出ようと改札口に向かった。改修された木造駅舎とは言え、年季が入った柱に出迎えられた。古びた木の柱はひびが入り、下部は補強されていた。

名鉄吉良吉田駅の木造駅舎、小さな待合室

 待合室は狭く、片隅に造り付けの木製ベンチが設置されていた。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅、改修されているが古い木造駅舎が残る

 吉良吉田駅の駅舎は、半切妻の屋根がレトロさを感じさせる木造駅舎だ。2階建て部分は、増築されたのだろう。


 西尾線・西尾‐吉良吉田間の起源となるのは西尾鉄道で、終着駅として1915年(大正4年)8月5日に吉良吉田駅が開業した。しかし当時は今より約300m北に位置し、現在とは別ものだ。

 一方、三河線の起源となるのが三河鉄道で、1928年(昭和3年)終着駅として三河吉田駅が開業した。位置は現在の吉良吉田駅より西に約300mあたり。

 1935年(昭和10年)8月1日に名鉄の路線となっていた西尾線は、1942年(昭和17年)12月28日に吉良吉田‐三河吉田間が延伸開業した。西尾線の三河吉田駅は現在の吉良吉田駅の位置にあたる。1941年(昭和16年)6月1日には三河鉄道も名鉄三河線となっていたが、両線の三河吉田駅は離れていた。両者が統合されたのは西尾線延伸の約1ヶ月後の1943年(昭和18年)2月1日、西尾線の方の駅に統合された。

 たった1ヶ月なら両駅同時に移転すればいいのにと思うが、何でタイムラグが発生したのか?準備が整った方から、いち早く開業させていく方針だったのか…?それとと三河線側の駅施設の工事が遅れたのか…?

 そして現在の吉良吉田駅へと改称されたのは1960年(昭和35年)11月1日の事だ。

 蒲郡線は元々、三河鉄道の延伸区間で、1929年(昭和4年)8月11日以降、東進し、1936年(昭和11年)11月10日、蒲郡まで全通した。蒲郡線と名付けられたのは1948年(昭和23年)5月16日だ。


 …と、吉良吉田駅の歴史は複雑だが、現在の木造駅舎はそういう推移を考えると、西尾線の三河吉田駅延伸時の1942年(昭和17年)か、それ以降だろう。

名鉄吉良吉田駅、木造駅舎らしさ感じる屋根

 色々と改修されているが、屋根の縁の木の造りとか、通風孔に昔ながらの造りを残す。

名鉄吉良吉田駅、駅舎横の構内売店跡

 駅舎の左側は駐車場やトイレとなっている。トイレは比較的近年に新築されたのか、きれいに見える。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅前にかつてあった構内売店
(※吉良吉田駅にかつてあった構内売店(2008年))

 だけど、この辺りには、かつて名鉄の構内売店があり、昭和を思い起こさせるレトロないでたちが印象深かったもの。構内を名乗るが、「名鉄指定」と掲げていた事から、名鉄の認可を受け駅売店として営業する個人商店のようなものだったのだろう。

今も残る三河線の廃線跡

 ちょっと周辺をぶらついてみよう…

吉良吉田駅西尾線ホームに停車する名鉄3300系電車

 西尾線ホームの北端には踏切があり、ホームと停車する列車を正面から見る事ができる。こうして見ると迫力あるもの。

吉良吉田駅近くに残る名鉄三河線廃線跡

 三河線の両端部は2004年に廃止されたが、吉良吉田駅近くは、まだ色濃く痕跡を留めている。住宅街だが、単線の廃線跡は幅が狭く何か建てるに十分な土地でもなく、道路を拡張するほどの交通量でもなく、転用し辛いのだろう。

名鉄吉良吉田駅、旧三河線ホームを使う蒲郡線の列車

 だが三河線のホーム跡は今でも使われ、三河線在りし日を偲ばせた。かつての1番線は形あるものの、現在は番号は振られていなく、留置線として使われるだけだ。

名鉄吉良吉田駅、木造駅舎と蒲郡線ホームに停車する列車

 少し離れて吉良吉田駅舎とかつての三河線ホームに停車する蒲郡線の列車を眺めた。

 蒲郡線は20年以上前から存廃問題が取り沙汰されているが、谷汲線や岐阜市内線など多くの名鉄の路線が廃止されてきた中で、辛うじて生き残っている。しかしトランパスが導入されず、広く普及したICカードも導入されておらず、見捨てられているとさえ感じる。

 ずっとこの変わった配線の駅を愛でていたいものよ。

[2021年(令和3年)10月訪問](愛知県西尾市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

味わい深い小湊鐡道型の木造駅舎

 二日間かけて小湊鉄道の駅を堪能する旅。昨日は月崎駅など、いくつかの駅を巡った。東京など首都圏近くにありながら、田舎のローカル線の風景を堪能でき、しかも桜満開の春もあってか、車内は立客が多くでる程の大賑わいだった。一部の駅もしかり。

 この調子なら、2日目にとっておいた上総鶴舞駅も同様に大勢の人が来るだろう。上総鶴舞駅は関東の駅百選に選出され、数ある小湊鉄道の駅の中でも一番人気だ。

 せめて人が少ない内にと、朝早くに五井駅前のホテルを出た。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、廃止された島式ホーム

 上総鶴舞駅に到着した。構内は広く、旅客ホームはかつて2面3線だったようだが、今は駅舎に面した1線のみ使われている。

 廃止された島式ホームは廃れながらも残っていた。その周りには、植えられた桜や菜の花がささやかに咲き誇る。まるで、風化した遺跡を鉢にした盆栽か何かの作品のようで、不思議な春の風情が美しく映った。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、線路沿いに植樹された桜並木

 ホーム南側、上総中野の方に出てすぐの線路沿に、桜が何本も植えられている。初めて上総鶴舞駅を訪れた十数年前、この木々は植樹されてあまり経っていないように見受けられ、簡単に手折られそうなほどか細かったのが印象的だった。よくここまで成長したもの。

 駅舎の正面に回った。レトロさ漂う木造駅舎は開業の1925年(大正14年)3月7日以来のもの。当初の駅名は鶴舞町という駅名で、1958年(昭和33年)に現在の上総鶴舞駅となった。

 派手さは無いが大きな改修は施されていなく、木造駅舎らしい素朴な佇まいが趣深い。

 小湊鐡道には今でも多くの木造駅舎が現役で使われているが、その内の7駅が上総鶴舞駅と同デザイン。素朴でどこにでもありそうだが、意外とそうでもなく、いわば小湊鉄道型の木造駅舎と言える。

 上総鶴舞駅は首都圏に近いのに素朴な木造駅舎があり、田舎らしい風情を味わえるので、ドラマ、映画、CM、ミュージックビデオなどロケ地となる事も多い。私は1990年代前半の、内田有紀主演のドラマに出てきたのを覚えている。ストーリーはもうよく覚えていないが、駅の佇まいは印象的だった。それ以来、この駅の存在が心の片隅に刻まれたのだろう。

上総鶴舞駅舎、正面右手の気になる出っ張り部分

 駅舎正面左側約4分の1が少し出っ張っている。出っ張り側面の膝の位置あたりに、小さな引戸がある。人が出入りしたり、物のやり取りをするには小さ過ぎで、何なのだろうと気になった。あまたの木造駅舎の造りを考えると、宿直室や休憩室のような部屋で、換気のための小窓だったのだろうか…?

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、昔の造りのままの待合室

 駅舎内部は、小荷物用の窓口こそカウンターが撤去され塞がれているが、その他の部分は昔ながらの造りをよく留め懐かし雰囲気。

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、出札口跡

 無人駅ながら、出札口の造りも昔のまま。木のカウンターなど、ペンキ越しに使い古された木の質感が伝わってくる。

 旧国鉄の駅ではガラス窓になっている事が多いが、木の壁にアーチのような穴をあけた感じl茶色い木枠の鉄柵は後付けだろうか?でも、この鉄柵も小湊鉄道のいくつかの駅で見られ、こんな所も小湊鉄道型の造りなのが面白い。

小湊鉄道、無人駅の上総鶴舞駅、外から覗いた駅事務室跡

 改札口から、少し駅事務室の中を覗いてみた。無人駅となってからだいぶ経つのだろうが、まるで撤収したのがついこの前かのように、そのままの造りを留めながらガランとしていた。いつか中を見学したいもの。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、レトロな木造駅舎の木の改札口

 木のラッチが残った改札口の向こうを、古豪気動車が走り抜けてゆくのが、何ともノスタルジックさ溢れる。


 2017年(平成30年)、この駅本屋(駅舎)は、駅構内に残る旧鶴舞発電所、貨物上屋と共に登録有形文化財に登録された。

賑わいの香り残す駅に咲く桜

 さて、駅舎の反対側にある鶴舞発電所跡でも見に行こう…

小湊鉄道・満開の桜咲き乱れる上総鶴舞駅

 駅の裏手は草生えた土地に轍(わだち)が伸び、のどかな田舎らしさ溢れる風景が広がる。桜も咲き、まるで春の山里を歩いているようで癒される心地。桜の向こうに佇む駅でさえ、遠くにあるかのよう。

小湊鉄道、上総鶴舞駅、発電所跡

 駅裏にあるトタン張りの廃墟のような建物が旧鶴舞発電所だ。駅舎と同じく1925年(大正14年)築。鶴舞駅に電気を供給するために建てられた火力発電所だが、周辺の町村にも電気を供給していたという。

 中は保線用具と思われるものがいくつもあった。今では倉庫として使われるようだ。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、広大な側線跡

 駅の北側、五井方の敷地には行き止まりの側線跡が広がっている。雑草が広がる中、枕木が僅かに埋まり、側線ホームと貨物上屋が残る。3~4線分位はあったのだろうか…?かつての賑わいを感じさせる。

小湊鉄道・上総鶴舞駅側線跡、登録有形文化財の貨物上屋

 側線跡には貨物上屋が残っている。周りにはレールや信号機器など、鉄道施設の部品が置かれている…というか放置されている。

 貨物上屋は四方がトタン壁で囲まれ、人が出入りする扉が1つあるだけだった。旧国鉄の駅なら、壁でがっちり囲まれている訳でなく、もっと開放的な造りなのだが。貨物上屋としてではなく、倉庫として使われるようになって、壁で囲われたのかもしれない。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、桜と菜の花の横をレトロな気動車が走る

駅舎横には桜だけでなく菜の花も植えられている。その中を列車が走っていく風景は何てメルヘンチックで幻想的か…

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、ホーム側の造り

 去り際、惜しむように最後の一瞬まで木造駅舎を見つめた。いい駅舎、いい駅だったなぁ…

[2014年(平成26年)4月訪問](千葉県市原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 私鉄の三つ星レトロ駅舎

風化したコンクリートブロックが重厚さ漂わす洋風駅舎

JR釜石線・遠野駅プラットホーム、キハ110系気動車が停車中

 新花巻駅から快速はまゆりに乗り、遠野駅に到着。2面3線のホームは線内の主要駅らしさ感じる。

釜石線・遠野駅、駅舎の屋根のカッパの鬼瓦

 遠野と言えば、柳田国男「遠野物語」のカッパの伝説。駅舎屋根の、JR印の鬼瓦にはカッパ像があしらわれていた。

JR東日本釜石線・遠野駅、駅舎ホーム側

 平日でコロナ禍の今は駅はひっそり。だけど普段は観光客も多いのかホームは掲示物で賑やかで、顔ハメ看板も。

 主要駅の一つの遠野駅は業務委託とは言え有人駅。ローカル線の駅で駅員さんがホームに立ち列車を見送る姿は今や珍しいかもしれない。

 遠野駅の開業は1914年(大正3年)4月18日。釜石線の前身の岩手軽便鉄道の東線・遠野-仙人峠駅(現在廃駅)間の開業時。最初の約1ヶ月は貨物駅としての営業だった。

 現在の駅舎は釜石線の改軌と全通が成った、1950年(昭和25年)築。一見、石造りが印象深い洋風駅舎だが、実は硬質コンクリートブロック造り。

JR釜石線・遠野駅舎、出入口近くの味わい深い造り

 コンクリート造りとは言え、風に晒され、風化し長年の汚れが染み付き、石造りのような重厚さ。出入口付近の造りも渋い!

JR東日本・釜石線、取り壊しに揺れる戦後築の洋風駅舎

 使い古され渋み漂う壁に瓦屋根が良く似合う。

 かつて2階には仙人峠越えのための機関区の事務所が置かれたという。JR化後はJR東日本直営の宿が置かれていた。しかし築70年を超え老朽化が進行し、現在の利用規模に見合った駅舎への建て替えが検討されている。宿は建て替えを見込み2015年に閉業となってしまった。レトロ駅舎の宿に泊まってみたかったなぁ…

JR釜石線・遠野駅、カッパ伝説にちなんだ駅前広場の池のあるミニ庭園

 カッパ淵は遠野の有名な観光名所だが、駅前広場にはカッパ淵ならぬカッパ池がある。カッパ像は古書から抜け出た妖怪のようで可愛いような不気味のような…

JR釜石線・遠野駅、駅舎内の待合室と切符売場

 駅舎内部の窓口と待合室。2020年には手作りおにぎり屋がオープンし、お土産屋なども販売している。

JR釜石線・遠野駅、コンクリート造りのレトロな改札口

 改札口にはコンクリートのレトロなラッチが残っている。乗降分離で二つに分かれているが、広い降車用と思われる方は閉じられ使われていないようだ。

JR釜石線の旅、遠野駅で買ったおにぎりとコーヒーを車内で

 遠野駅で買ったおにぎりは、釜石行きの列車に揺られながら味わった。遠野駅舎の余韻とともに…

[2022年(令和4年)5月訪問](岩手県遠野市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

レトロで印象深いホーム側の佇まい

 降雪による身延線計画運休に振り回され、早々に身延線から脱出した。降り続く雨にうんざりし、もう三島駅前に取ったホテルに行こうとしたが、早く着きすぎるのも癪。なので、道中、東海道本線の駅をちょっと訪れようと思いついた。

JR東海道本線・原駅、古レールの柱と駅名標

 東田子の浦駅を訪れた後、夕刻、原駅で下車した。島式ホームの上屋は古レールでがっちり支えられていた。

東海道本線・原駅、明治の開業時からのレンガ造りのランプ小屋(危険品庫)

 1番線を見ると、駅舎の隣にレンガ造りの小屋が目に入った。昔は油を保管したランプ小屋…、あるいは危険品庫、油庫というものだ。改修された駅舎にあって、何とも古めかしい。聞く所によると原駅開業の明治33年(1900年)以来のものという。

東海道本線・原駅、駅舎側ホームの古い木造上屋

 駅舎に繋がる1番ホームの上屋の柱や骨組みは古い木造。長年、風雨に晒され続けてきた柱は風化し木目浮く。左手前の柱はガタがだいぶ来ていて、歪んですらいる。ランプ小屋同様、こちらも駅の歴史を感じさせる。

東海道本線・原駅、上屋の年季入った木の柱

 その左手前の柱は歪んでいるだけでなく、盛大にヒビが入り裂けそう。改修の手が入ったのか、大きく削られた部分もある。

宿場町風の木造駅舎は新築のごとし

 もう夜の帳が降りつつあるが、完全に暗くなる前に駅舎を撮影しようと外に出た。

JR東海・東海道本線・原駅、木造駅舎は宿場町風に改修

 原駅は、戦後の1948年(昭和23年)地区の木造駅舎が健在だが、なまこ壁や格子窓など和の要素を取り入れた和風駅舎に改修されている。近くに東海道の13番目の宿場町・原宿があった歴史にちなむのだろう。なので宿場町風駅舎と言った所だろうか?

 見た所、ありふれた木造駅舎らしい原形はとどめていなく、大きく改修されているのだろう。それでも新築同様に改修されてまで使われ続けているのは凄い事だよなあと思う。

東海道本線・原駅、駅舎前の長い上屋が付いたロータリー

 駅舎前はロータリーが整備されていて、ロータリーに沿って駅舎出入口からは上屋が整備されている。ある程度の乗降客がある駅ではこういうふうに整備されている場合もある。撮影しずらいが、今日のような雨の日は利用者にはありがたい。

 ウィキペデアに載っている2018年の駅舎の写真には、上屋は無く駅舎前にタクシーが直付けされているので、このロータリーは比較的、近年に整備されたようだ。

東海道本線・原駅、開業百周年記念碑

 駅舎のスロープ前には、原駅百周年記念碑がひっそりと置かれていた。

JR東海道本線・原駅、待合室など駅舎内部

 切符売場や待合室がある内部は外観以上に古さを感じなく、最近、建てられた駅舎かのよう。だだっ広いが昔はキオスクでもあったのか、もっと待合室らしいスペースがあったのだろうか。

JR東海道本線・原駅、町の産業や名物を展示したショーケース

 待合室の片隅には原地区の産業や名産品を展示したショーケースが置かれていた。今でも見るが、昔は街の玄関たる駅には、よくこんな展示があったもの。

 食品よりも工業製品の紹介が目立った。原はものづくりが盛んな地域のようだ。

JR東海道本線・原駅、軒を支える柱が印象深い夜の木造駅舎

 原駅から去ろうとする頃、すっかり夜になっていた。

 それにしても夜の闇に浮かぶ木の回廊やランプ小屋、そして駅舎の美しい事よ…

[2024年(令和6年)2月訪問](静岡県沼津市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

伊豆箱根鉄道のサイクルトレインで愛車と共に

 田京駅から折りたたみ自転車で韮山の反射炉などを巡った後、韮山駅にやってきた。ここから同じ駿豆線の三島二日町駅まで列車に乗る。

 駿豆線では混雑する時間帯を除いた昼間、自転車をそのまま列車に載せられる「サイクルトレイン」のサービスをしている。鉄道と自転車の旅が好きな私には嬉しいサービス。愛車と共に、是非利用したい。

 1列車6台までの制限があり、利用するには事前の予約が必要。だが、そんなに堅苦しいものではなく、駅にあるインターフォンで、今から乗りたいと伝えると、運転席後部の乗車を指定され完了。切符を買うと自転車ごと改札口を通りぬけ、ホームで列車を待った。平日はこれから乗る韮山発15時15分が三島行きのサイクルトレインとしては最終だ。

伊豆箱根鉄道駿豆線のサイクルトレイン

 列車に乗り込み運転席後部に陣取った。近くには他の乗客もいる。もし倒したら、危ないからサイクルトレインはやめようという事になったら目も当てられない。なので、手でしっかりと自転車を保持しながら列車に揺られた。

車窓から見たレトロな駅へ…

 十数分で三島二日町駅に到着した。

伊豆箱根鉄道駿豆線、三島二日町駅1面1線のプラットホーム

 配線は1面1線の棒線駅。ホームは古レールに支えられた上屋に覆われていた。

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅、駅舎ホーム側の木枠の窓

 この日は、伊豆箱根鉄道の駅舎巡りと、韮山反射炉を見ようと言う大雑把なプランがあった。しかし細かい時刻は決めていなく、三島二日町駅に訪れる予定は無かった。

 しかし修善寺行き列車から見た、この木枠の窓に思わず魅かれ後で降りてみようと決めた。木枠の窓のある駅舎は、レトロなムードを駅に添えているかのようで味わい深い。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、無人駅となり塞がれた窓口

 窓口は、自動券売機がはめ込まれながらも昔の造りを残していた。木のカウンターやその支えが昔ながらで趣ある。

 無人駅だが、朝、ほんの一部の時間帯は係員がいるらしい。でも窓口は廃れ気味で、もう使われていないようだ。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、レトロな造りを垣間見せる駅舎

 駅舎を外から眺めようと、出口に向かった。古びた木の骨組みの向こうに見える、上部に曲線が入った柱…。えもいわれぬレトロな佇まいに期待は高まる。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、レトロさ残す古い駅舎

 駅舎を正面から見てみた。木造モルタル造りの駅舎は簡素なれど、そこはかとなくレトロな趣きを漂わせていた。

 狭い駅前の敷地は、有料の自転車駐車場となり、びっしりと自転車が並ぶ。しかし最初の数十分は無料なので、私も恩恵にあずかり自転車を安心して止められ駅舎観察に専念…

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅舎、洒落たスクラッチタイル

 縦長の窓と、腰の高さ位に線のように巡らされたスクラッチタイル。さり気ない洋風のムードに心魅かれた。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅舎、洒落た古い車寄せ

 色々な要素がレトロなムードを醸し出す駅舎。

 三島二日町駅の開業は1932年(昭和7年)12月15日。駿豆線の起源となる豆相鉄道の三島町(現・三島田町駅)‐南条駅(現・伊豆長岡駅)間が1898年(明治31年)5月に開業していたが、それに34年遅れての開業だ。1924年(大正13年)の修善寺開通よりも約8年遅かった。

 この駅舎は何年築かは不明という。でもこういうむせ返るほどの古さやレトロさは無いが、洋風の要素を取り入れたと思うと、開業時か昭和10年代だろうか…?

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、駅舎後方からの眺め

 奥から駅舎を見渡してみた。こちら側にも木枠の窓が残っていた。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、駅舎内部の待合室跡?

 駅舎内の窓口以外の部分は、扉などで完全に仕切られていないガレージの様な雰囲気で、やや殺風景。ホームからスロープが設けられ、その他の部分は自動販売機置場と化している。スロープ脇には、僅か数人分のベンチが置かれていた。かつての待合室…、いや今でもそうなのだろうが。だけど、昔はもっと待合室らしかったのかもしれない。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、豆タイル張りのコンクリートシンク

 周辺をブラブラしていると、駅舎脇の水場に豆タイル張りのコンクリートシンクを発見。こちらも相当古そう。駅舎と同い年だろうか…?

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅舎、線路・ホーム側

 駅舎を踏切から見てみた。出札口とちょっとした待合室だけの、いかにも中小私鉄らしい小ぶりな駅だ。

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅、1300系電車鉄道むすめヘッドマーク

 修善寺行きの列車がやってきた。アニメのラッピングトレインから復刻塗装まで、駿豆線の車両はバラエティーに富むが、目の前の車両は普通の塗装の1300系。だけどヘッドマークは温泉むすめ・鉄道むすめのコラボヘッドマークで、華やかなムードを添えていた。


 さあ、ここからは三嶋大社、そして三島駅前のホテルまでひとっ走りだ。

[2024年(令和6年)2月訪問](静岡県三島市)

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一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

古い駅名標保存されるホーム

 城端線と氷見線が、あいの風とやま鉄道への経営が移管される方針が公表された2023年10月下旬、約6年振りに福野駅を訪れた。

ホーム側に残る福野駅の古い駅名標

 駅舎ホーム側には、かつて正面に掲げられていた古い駅名標が保存されていた。使用感はもちろん書体もえらく古めかしい。1970年(昭和45年)頃から、駅舎改修の2015年(平成27年)まで使われていたとか。

 前回は保存されている加越能鉄道・井波駅舎訪問の中継点として降りただけで、福野駅に関する予備知識は無く、離れる列車から古い駅名標を目にし
「あああ…見逃した!」
と悔しいく思ったもの。

JR西日本・城端線・福野駅、木の柱並ぶ駅舎ホーム側

 古い木造駅舎が今でも現役。何とこの駅舎!城端線や氷見線の起源となる中越鉄道時代、1897年(明治30年)5月4日に福野駅が開業して以来のもので、富山県最古の駅舎。

 木の上屋や支える柱は古い木のままだが、斜めに配された支えの部分は、鉄製のものに交換されていた。

富山最古、福野駅の木造駅舎。骨組みなど古い木の部分

 白色に塗られているなど色々と改修されている。しかし、骨格となる木組みのの部分は古いまま。、灰色のペンキ越しに年月に刻まれた木目が浮かび、駅の歴史を感じさせた。

木造駅舎は明治築で富山最古の駅舎

 正面にまわり改めて富山最古という駅舎を見てみた。色々と改修されているので、古色蒼然としたレトロさはあまりない。恐らく正面の軒下ぎりぎりまで壁が移動され、待合室が拡張されたのだろう。

 それでも待合室に対し直角に駅事務室が配され正面に妻面が向いた造りは、ちょっとした規模の木造駅舎ではよくある造り。黒光りする屋根瓦は、城端線などこの辺の古駅舎らしさ溢れ、白い壁ならいっそう引き立たせる。

JR城端線・福野駅、明治の木造駅舎は駅事務室側が増築

 駅舎正面右手側にも、増築の跡が見られる。かつては貨物を扱っていただけでなく、1972年までは加越能鉄道加越線も乗り入れていた。かつては、もっと忙し駅だったのだろうなあ…

富山県南砺市、小30奇麗に整備された福野駅の駅前

 駅前は小奇麗に整備され、まるで都市郊外の新興住宅地を思わす。

 しかし駅から少し離れた北側一帯は、細い道が入り組んだ中、古い建物が残る地味にレトロさ漂う街並みが広がり、前回訪問時に大いに驚かされたもの。料亭など飲食店の跡も目に付いた。こちらが旧福野町の中心地で、二つの鉄路が交わる福野は大いに隆盛したのだろう。

城端線・福野駅舎、待合室と出札口

 待合室はすっかり改装されている。

 ローカル線の駅は、そこそこの規模の駅でも無人化されているのが当たり前。しかし福野駅は簡易委託とは言え、人員は配置されている。城端線や氷見線はそんな駅が多く思った。しかしそんな駅のほどんごが将来的には無人化が予定されているという。

城端線・福野駅、改修された木造駅舎の古い木の部分

 あちこち改修されていても、骨となる木組みは古いまま。風化した木にネジが打ち込まれた様が、武骨でまた味わい深い。

福野駅で折りたたみ自転車を広げ、加越能鉄道旧井波駅跡へ…

 福野駅を訪れたのは、富山最古という駅舎を改めて見てみたいという気持ちもあったが、ここから約5㎞離れた加越能鉄道・井波駅舎を見足りなく、もう一度見ておきたいと思ったからだ。

 前回はバスだったが、今回は自分の折りたたみ自転車で。駅前で袋から出して展開。加越能鉄道加越線の廃線跡の福野-荘川町間の大部分は自転車道に転用された。街中で自転車道の入口を見つけると、井波駅跡まで駆け始めた。

福野駅に戻り宝探し!??

 「加越線が現役だった時代はこんな車窓風景が広がっていたんだな…」
と追想しながら、美しき山々や散居村として有名な田園風景を駆け、福野駅に戻って来た。時間があったら福野のレトロな街並みも再訪したかったが。その時間は無くなった。また今度来ればいいが、今度まで残っているかどうか…

南砺市福野、夕方前の福野駅、駅前で待つ人々。

 10月も終わりになると、日が傾くのが早くなる。まだ明るいが、日はもう夕方の色を帯び始めていた。

 午後1時過ぎに福野駅に降りた時、駅は閑散としていたが、人々の帰宅時間が近づき、駅には人の姿が増え始めていた。

富山最古の明治の木造駅舎残る福野駅、古い建物財産標

 列車待ちの間、ホームをふらふらしていると、駅舎の壁に古い建物財産標が掛けられているのを発見。かまぼこ板のような木の板に、縦長で「停 第一号」と標され、建物財産標の中では最も古い部類のものだ。もう少し後の時代になると、小さな鉄のプレートに「停車場 本屋 1号」と表記される所。

 意味的には駅にいくつかある建物の中で、メインの建物という事を表している。

福野駅舎に秘かに残るNHKの古い放送受信章

 建物財産標の下には、ペンキで木材ごと塗りつぶされた小さな丸いプレートがあった。よく見ると
「放送受信章 NHK」と標されていた。古い家の玄関には、NHKと契約している事を表す小さなステッカーが貼られている事をよく目にするが、その昔バージョンだ。これはTV放送が始まった後のもので、更に細かく言うと、ラジオのみの契約だとこの受信章だったようだ。福野駅の歴史感じさせる逸品で、願わくばペンキを丁寧に剥がし復元されないものだろうか。

JR西日本城端線、福野駅に入線したキハ40の高岡行き列車

 やってきた高岡行きの列車に乗り込んだ。

 無人化、経営移管など、今度福野駅に来る時は色々と変化しているのだろう。だけど、この明治の駅舎はそのままであってほしい。

[2023年(令和5年)10月訪問](富山県南砺市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

折りたたみ自転車で二塚駅へ…

 北陸旅行の3日目は城端線の木造駅舎を巡る。まずは二塚駅へ。

 二塚駅は高岡駅から二駅…、新高岡駅ができるまでは一駅で、わずか3㎞ちょっとしか離れていない。これなら高岡駅で袋に収納した重い自転車を抱え広い構内を移動し列車に乗るより、ホテルから走っていた方が面倒が無いのではと思い、直接走って行く事にした。

 途中、街を東西に横切るあいの風とやま鉄道や氷見線の線路に行く手を阻まれた。目の前の跨線橋は自転車通行禁止。大回りかと当惑したが、運よくすぐに地下道を見つけた。

 少し走ると、もう郊外のような趣になっていった。そんな中、北陸新幹線の高架や新高岡駅、イオンモールが忽然と姿を現す。北陸新幹線の工事に関連し、だいぶ整備されたのだろう。

 新高岡駅を越えると、建物が減っていき緑が増え、田舎の町と町を結ぶ道路のような風景になっていった。

高岡市、城端線・二塚駅の駅前通り

 地図を見て、この道と思い右に曲がると、昔ながらのこじんまりとした街並が現れた。まさに駅前を感じさせる風景。二塚駅はこの中にある。

不思議なレトロさ残す大正の木造駅舎

折りたたみ自転車・ブロンプトンで高岡市街を走り二塚駅に到着。

 程なくして二塚駅が目の前に現れた。まずは駅舎を背景に旅を共にしている折りたたみ自転車・BROMPTON C LINE と記念撮影。

 引いて駅舎全体を眺めてみた。現在の二塚駅は二代目になり、初代は城端線の起源となる中越鉄道時代の1899年(明治32年)の4月3日で、今より約500m南に位置していたと言う。しかし、僅か3年後の1902年(明治35年)5月15日に廃止された。

 しかし1914年(大正3年)2月20日に現在地に移転して簡易停車場(その後、停留所)として再開業、国有化の1920年(大正9年)9月1日に駅に昇格した。今に残る木造駅舎は、駅昇格時の大正9年に建てられたと思われる。

 L字状の形状の横長の駅舎で、左側4分の1程度の待合室部分以外は、駅事務室など業務用の区画になっている。

トタン張りの木造駅舎、城端線・二塚駅

 よくある造りの木造駅舎だが、さすが築100年と年月を経るとガタが来て改修の必要があるのだろう。しかし、二塚駅の外壁はトタンですっかり覆われているのが特徴的。

 そう言えば昭和の頃はトタン壁の建物をよく見た気がする。昭和、平成と時代を超え現代に残るそんなトタン壁の建物は、独特でレトロさを醸し出す。

 木造駅舎の改修と言えば、新建材が用いられる事が多いが、新築のようでプラモデルのような印象さえ受ける。昭和末期かある時期から新建材が使われるようになったのだろうが、それ以前はトタンなど他の手法が用いられたのだろう。古い木の質感が素朴な木造駅舎のようでもなく、新建材のように味わいに欠ける訳でもない…。これはこれで古き味わい。二塚駅は一昔じゃなくて、二~三昔前の古駅舎改修の姿を今に残したユニークな存在なのかもしれない。

城端線・二塚駅、駅出入口横のコンクリートで埋めれられた池庭跡!?

 駅舎の中に入ろうとし出入口右横の木が茂る部分に何気に目をやると…、むむ!小さな岩で囲まれたコンクリートのこの狭い平面は…庭園と池の跡だろうか??

JR西日本城端線・二塚駅の木造駅舎、木の造り残す…

 大半がトタンで覆われていると言っても、木組みとか細部に古い木造駅舎らしさを残す。こんな秘めた質感がたまらない。

城端線・二塚駅、無人駅となり塞がれた窓口跡

 二塚駅は、近隣の中越パルプ工業まで引込線が伸び貨物列車が走っていた事もあり、JR貨物の駅も置かれ、同社による業務委託駅でもあった。しかし2015年に休止となると同時に無人駅となった。窓口跡はすっかり塞がれていた。約2年後の2017年4月1日に、貨物駅としては正式に廃止となった。

城端線・二塚駅、窓口跡に置かれた金銭受け

 改修で手小荷物窓口のカウンターは鉄板で覆われていた。そんなカウンターの片隅に謎の台がひとつ。花でも置かれていそうな趣。これは…、出札窓口に固定されていた金銭をやりとりするトレーで、窓口が塞がれた時に外されたのだろう。。

JR城端線・二塚駅舎、こじんまりとした待合室

 待合室は狭い。奥の壁際に造り付けの木製ベンチが設置されていた。

JR城端線・二塚駅、待合室の住友生命の鏡広告

 壁には縦長の鏡が吊るされていて、よく見ると鏡の中に住友生命と標されていた。数か月前の6月の愛媛旅行で住友が運行していた別子鉱山鉄道跡の星越駅舎を見に行った記憶がまだ鮮明なので、駅で見つけた住友のマークには不思議な親近感を覚えた。

 鏡広告と言えば、同じ富山県内の富山地方鉄道の古駅舎でもよく見る。富山地鉄の方は手作りの一点もの感漂うが、こちらは定形の販促品で、ある程度まとまった数作られと言った感じ。

貨物駅の面影

高岡市、JR城端線・二塚駅、のどかで広々とした砺波平野を望むプラットホーム

 ホームの方に出て見ると、のどかな農村風景が広がった。伸びやかな砺波平野の眺めが心地よく癒される心地。

城端線・二塚駅プラットホームと貨物線の名残残る留置線跡

 ホームは2面2線の相対式だが、反対ホームの背後には何線かの留置線が残る。ローカル線の城端線だが、比較的、近年まで貨物列車が運行されてた名残りを感じさせた。

 少し北には高架の道路が見え、その奥には新高岡駅前にある東横インの姿も見えた。

城端線・二塚駅、駅舎正面右側

 ぐるっと回って、駅舎正面右手側に来てみた。プロパンガスを固定していた棚、すっかり錆びたエアコンの室外機、古び色褪せたホースが絡む蛇口…、すっかり廃れたムード漂う。同じ駅舎正面とは言え、わんさか茂る植木に隔てられ待合室側とは違う駅のよう。

 古いトタン壁のせいか、他の木造駅舎とはどこか趣が異なる。2015年までJR貨物が使っていたせいもあるのだろう。

JR城端線・二塚駅、駅舎閉塞器室のひょうたん

 駅舎ホーム側の出っ張り…閉塞器室の内部には、なぜか瓢箪がたくさん吊るされていた。

 貨物駅があった時代のものだろうか…?室内には何か機器が残されたままだ。

JR西日本城端線・二塚駅1番ホームに入線した城端行き列車

 ホーム側の上屋は鉄筋に取り替えられていた。冬は砺波平野を吹き抜ける風がいっそう厳しいのだろう。風除けの壁が設置されていた。

 1時間弱、個性的でレトロな木造駅舎を愉しみ、やってきた城端行きの列車に輪行袋に収納した自転車を抱えて乗り込んだ。

[2023年(令和5年)10月訪問](富山県高岡市)

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一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

風情溢れる駅舎ホーム側の佇まい

のと鉄道・西岸駅、ホームから見た駅舎は木造校舎を思わす

 のと鉄道・穴水駅から七尾行の列車に乗り二駅、木造駅舎が残る西岸駅で下車した。ホームから駅舎の方を見ると、木の窓枠の向こうのがらんとした旧駅事務室の中に、木の机が置かれているのが見えた。どこか田舎の分校のような風情。

のと鉄道・西岸駅の木造駅舎、駅員休憩室も残る

 中を覗き込むと、奥の畳敷きの休憩室も昔のまま。畳は傷んでいるように見えるが、木の壁や引戸、棚なんかは、古アパートを見ているよう。この部分がここまでよく残っている駅はもうほとんどない。

のと鉄道・西岸駅、木造駅舎は改修されているが木の質感豊か

 壁はグリーン基調に塗装されている。しかし、それでも木造駅舎らしい古い木の質感が伝わり味わい深さがあふれていた。

のと鉄道・西岸駅、木造駅舎越しに見る紅葉など植木とプラットホーム

 ベンチに腰掛けた。ホームと駅舎の間は植栽で豊かで、公園の東屋で一休みしている気分。紅葉はまだ青々しさ残るが、もう少しで色づき始めるだろう。ああ、ここで秋の風情を愛でたいもの。

のと鉄道NT200形気動車、花咲くいろはラッピング車両(西岸駅)

 列車がやって来たので撮影しにホームに出た。やってきたのはアニメの美少女キャラが描かれたラッピング列車。こんなラッピング列車や、観光列車の里山里海号もあり、のと鉄道の車両は本当に華やかだ。

味わいある木造駅舎のある駅は「花咲くいろは」の聖地

 待合室を抜け駅舎の正面に出てみた。駅開業の1932年(昭和7年)8月27日以来という木造駅舎は木の板張りの素朴なままの造りを残す。黒光りする屋根瓦は、車窓から見た入り江や海沿いに建つ家々と同じ。まさにこのへんの建物。緑基調のホーム側と違い、こちらは白色というかクリーム色に塗られている。塗装の剥げが目立つが悪くない。

のと鉄道七尾線・西岸駅、駅構内の桜の大木

 駅舎前の大きな桜の木が一際目立つ。きっと春はさぞ見事なのだろう。駅舎右横の枝垂桜もざわざわと賑やかに枝を広げていた。

のと鉄道・西岸駅前、商店跡、郵便局、海も垣間見える

 駅前を見ると、右手前には昔ながらの渋い駅前商店が建っている。残念ながらもうやっていないようだが。道路を隔て真正面に郵便局がある。建物の間から、僅かに海が垣間見えた。

のと鉄道・西岸駅、待合室と窓口跡は改修されきれいに

 外観はレトロさ溢れるが、待合室はきれいに改修されていた。待合室が改修されると、どこか殺風景になる駅も少なくないが、木がふんだんに使われ、手入れも良く居心地はいい。

のと鉄道・西岸駅、2面2線のプラットホーム

 ホームは2面2線の配線。駅舎側の上りホームの和倉温泉方には、切り欠きの側線ホーム跡も残っていた。

 ホーム沿いには桜の木が何本も植えられ、まさに桜並木。のと鉄道では、能登鹿島駅が駅構内中に桜の木が植えられ、春には桜の園のようになる事でよく知られている。能登鹿島駅ほどでもないかもしれないが、この西岸駅もなかなかのものだろう。

のと鉄道・西岸駅、木造の古めかしいトイレ

 駅舎の近くには、古めかしい木造トイレが残っていた。見ている分には味わいあるが、実際使うとなると、設備の古さや清掃状態が気になり勇気がいるかなぁ…。だけど中を少し見ると、壁は木目の板に張り替えられ、サッシ扉には「洋式トイレ」と標されていた。改修されてきれいになってるらしい。使っていないから実際は知らないけど…。

 入口に建物財産標があり、昭和7年8月と標されていた。駅舎と同じく、こちらも駅開業以来ととても古い。

西岸駅「湯乃鷺駅」の謎の駅名標は…

 穴水行きの車内から、西岸駅に「ゆのさぎ」「湯乃鷺駅」と標された謎の駅名標があるのを目にし不思議に思っていた。最初、廃線となった能登線の駅名標でも展示しているのかと思ったが…

西岸駅の駅ノート。花咲くいろは、湯乃鷺駅のモデルでファンが聖地巡礼に訪れる

 待合室の片隅に何冊も駅ノートがあった。見てみると「花咲くいろは 聖地巡礼ノート」とタイトルが標されていた。この西岸駅、アニメ「花咲くいろは」で湯乃鷺駅のモデルとなった駅との事。こういうアニメには興味は無いが、待合室に美少女キャラのイラストが目に付くなあとは思っていたし、先ほどはアニメのラッピングトレインもやってきた。ああ、そういう事だったのだ。

 ノートにはNO.42と標されていた。はるばるここまで聖地巡礼に来てくれるなんて、のと鉄道にとってオタクとは心強い。


 去り難さを抑え、七尾行の列車に乗り込んだ。

のと鉄道七尾線・西岸-能登中島間、海や空が印象深い車窓、

 入り江や海沿いの小さな町、緑深い田舎風景と広がる空、どこまでものどかな風景広がる。まさに美しき里山里海。

 穴水以遠の輪島、蛸島までが廃止され、発足時の3分の1程度にまで縮小され、地図を見るとだいぶ寂しくなってしまったものよと思う。だけど残された区間は印象深く、趣ある木造駅舎も残っている。のと鉄道にすっかり魅了されてしまった。

[2023年(令和5年)10月訪問](石川県七尾市)

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一つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

印象深い木造駅舎と駅名標

 大館に到着し、一旦、ホテルで旅装を解いてから、再び自転車で出掛けた。行く先は花輪線の東大館駅。明日、東大館駅から列車に乗るので、その時に見てもよかったのだが、早朝で時間が無さそうなので、じっくり見ておきたいと思った。

 市内を20分ほど走り、ひらけた片側2車線の道が終わり、急に古めかしい感じの街並みになった。右に向くと、目的地の東大館駅があった。

東大館駅、木造駅舎正面の国鉄時代醸し出す駅名標

 この車寄せに掲げらている木の駅名標に、まず目が強く引き寄せられた。手彫りか手書きか…、木造駅舎を背景に、楷書体でただ「東大館駅」と標された木の板は、素朴で昔風。何十年も昔の国鉄時代の駅を見ているかのよう。

 引いて全体を見渡すと、これまた味わいのある木造駅舎だ。白く塗られているが、昔ながらの雰囲気を壊すような改修はされていなく落ち着いた雰囲気。この木造駅舎だからこそ、あの駅名標が似合っているもの。

 東大館駅の開業は1914年(大正3年)7月1日。後に花輪線の一部となる秋田鉄道の大館-陸中花輪(現・鹿角花輪駅)の、大館-扇田間の開業時に設置された駅だ。現駅舎は1929年(昭和4年)築。

 大館市の代表駅は大館駅だ。そんな駅からの支線の1つ目の駅は、小規模だったり閑散としている場合が多い。しかしこの東大館駅の駅舎はやや大きめで、支線なら主要駅規模と言ってもいい。

 大館の中心街は大館駅より東大館駅の方がむしろ近く、東大館駅前は大館一の歓楽街という。だから立派な駅舎が建ったのかもしれない。

東大館駅、日本の鉄道開業100年記念碑

 駅舎の右手側に「鉄道100年記念碑」なるものがあった。最初、花輪線か東大館駅に関連するものかと思った。しかし「十月十四日」と標されているのを見てピンと来た。どうやら1872年(明治5年)、新橋-横浜間に日本初の鉄道開通を記念した碑のようで、その100年後の昭和47年に建立されたようだ。

無人駅となった東大館駅舎内部、窓口跡と待合室

 待合室の中に入った。2020年に無人駅化され、窓口跡は塞がれている。出札口は大きく改装されているのだろう。しかし、こじんまりとしてものではく、斜め向きに配されたやや大きめで、主要駅で見るような形状だ。

 隣のジャバラのカーテンは何だったのか気になる。

昔日の賑わい感じさせるホーム側の情景

大館市の東大館駅の秋田犬(忠犬ハチ公?)像

 駅舎ホーム側に出て見ると、軒下には大館らしく秋田犬の像が鎮座していた。有名な忠犬ハチ公は大館の生まれで、大館駅前の秋田犬の里のハチ公像は有名だ。こちらは東大館のハチ公…と言った感じだろうか??

花輪線・東大館駅の木造駅舎、ホーム側と側線跡の草地

 ホームまでは草生した空地に隔てられているかのように距離があった。側線の跡で、島式ホームの駅舎側もレールが剥がされているから、余計に広く見える。駅舎はそんな片隅に佇むかのような風情。ホームとは構内通路で繋がれていた。かつては貨車などが賑やかに留置されていたのだろう。

花輪線・東大館駅、片側が廃され1面1線になった島式ホーム

 島式ホームだが、片方は廃され棒線駅に。残ったレールの隣にも、側線跡と思しきレール1線分の空間があった。

花輪線・東大館駅、駅舎横の業務用の木造建築物

 駅舎の北側には、小さな木造の建造物が3棟寄り集まっていた。倉庫か詰所か何かか…?古めかしいが、奥の1棟は引戸がサッシに交換されている。今でも何かに使われているのだろうか?

花輪線・東大館駅の木造駅舎、軒を支える古びた木の柱

 長い軒を支える古い木の柱が、均整を取るように並ぶ。そんな柱たちが夕日を浴びる様は何と美しいことか…

駅前

大館市、花輪線・東大館駅から見た駅前

 駅前からまわりを眺めた。駐車場は広く、その中に駅に降り立った人に、大館市をアピールするメッセージが標されたモニュメントが設置されていた。かつては急行「よねしろ」も停車した、大館市のもう一つの玄関口と感じさせた。

大館市、東大館駅舎と駅前の歓楽街(跡)

 東大館駅前一帯は大館の歓楽街という。昭和を感じさせる造りの飲食店が並ぶが、やや寂れいるよう。レトロな店構えがかつてをしのばせた。

秋田県大館市、夕暮れの東大館駅舎

 旅で訪れた駅の夕暮れは心にしみるもの。
「また明日、よろしく!」
と心で声を掛けながら、東大館駅を後にした。

そして翌朝…

 早朝5時半頃、ホテルをチエックアウト。自転車を展開し走り、12時間ぶりに東大館駅にやってきた。

夜明後の東大館駅

 もう夜は明けたが、木造駅舎は朝日の余韻を浴び佇んでいた。

花輪線・東大館駅の木造駅舎と駅巡りの相棒・BROMPOTON

 今回の旅を共にしている折りたたみ自転車・BROMPTONを、木造駅舎とあの駅名標をバックに記念撮影。楽しいけど、ホテルからたった1㎞走っただけで、また折りたたんで袋にいれなければいけないのは面倒だけど。

花輪線・東大館駅、石積みのホームと側線跡

 ホームの上屋や待合室は新しくなっているけど、側面の石積みのまま。こんな所にも長年の歴史を感じる。

JR東日本・花輪線、東大館駅に入線する上り始発列車

 大館からの上り始発、6時26分の盛岡行きの列車がやってきた。さあ、今日も旅が始まった。

[2023年(令和5年)9月訪問](秋田県大館市)

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二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

亀田の街を通りつつ…

 羽越本線の秘境駅として知られる折渡駅から羽後亀田駅を目指し自転車を走らせた。

 羽後亀田駅まで500メートル手前まで迫ったが、進路を90度東に向けた。自転車で柔軟に色々なルートを取れるので、折角なので駅名の由来となっただろう亀田の町を見てみたいと思った。

秋田県由利本荘市、羽後亀田駅から約2.5㎞離れた亀田の町並み。

 坂を越え軽快に下ると亀田の街並が現れた。少し自転車でぶらついた。車がすれ違える程度の町を東西に貫く道は、メインストリートなのだろう。シャッターや看板建築風の面構えなど、お店っぽい家屋が並ぶが、今、現役で営業している所はすごく少ないよう。だけど人の気配はそこそこし、今は田舎の宅地と言った感じだ。

秋田県由利本荘市、旧亀田郵便局の洋風建築

 そんな町並みの中、洋風のレトロな家屋があった。2階の高さに何やらエンブレムのようなものが付いているの目が吸い寄せられ「ああっ!」と思わず小さく唸った。郵便マークを囲う葉っぱや花の模様…。かつての亀田郵便局の局舎だ!1階部分はシャッターに改装されているので、移転後は店舗に転用されたのだろう。今ではその店舗も閉業したようだが。

 移転後、何十年…、いや半世紀以上はゆうに過ぎているのかもしれない。しかし、金色のエンブレムを戴く様は、この建物のかつての歴史を誇っているかのように輝いていた。


 さて、羽後亀田駅を目指そう。駅はここから約2.5㎞西と、ちょっと離れている。

大正築の木造駅舎

 亀田の町並みを抜け走り続けると、人家は少なくなっていき、車窓から駅間のひっそりとした風景を眺めているような気分。

 やがて羽越本線の踏切に差し掛かり、越えて左に曲がると、羽後亀田駅のプラットホームや跨線橋が見え、そして駅舎の前に出た。

 羽後亀田の駅舎は横に長いやや大きめの木造駅舎で、駅開業の1920年(大正9年)以来のもの。今年2023年で築103年というご長寿。

 桜の木が一本、寄り添っているのもまた風情溢れる。

 この羽後亀田駅、松本清張の小説「砂の器」で、事件のキーポイントとして登場した駅として知られる。被害者の「カメダ」という言葉が含まれた会話から、カメダとは地名で東北訛りだった事から、捜査でこの地を訪れるという流れだ。(結局、ここではなく「カメダ」とは違う駅だった訳だが…)

羽後亀田駅舎と我が愛車のブロンプトン

 とりあえず、駅巡りの旅を共にしている折りたたみ自転車・BROMPTONと木造駅舎で記念撮影。自分が入る気は無いけど(笑)

羽越本線・羽後亀田駅、風除室状の車寄せを備えた木造駅舎

 大正築の木造駅舎は木の風情溢れる。バス停のポールがちょこんと置かれているのも田舎風。時刻を見ると本数は少ないけど。

 木の質感が趣深いが、壁面に銀色の釘の跡が点々と規則正しく並んでいるのが目に付いた。古い木造駅舎ではこんなふうに釘は目立たないが、十何年か前にどうやら改修で正面の板を張り換えたらしい。それがまた年月が巡って使い込まれ古びた質感を得つつある。新建材等でもっと簡単に改修できたはずだが、よくこんな味わいある改修を施してくれたものだ。

羽越本線・羽後亀田駅、庇など昔ながらの造りを残す木造駅舎

 正面右側の庇の部分は、JR東日本カラーを意識したのか、緑色に塗られている。でもこちらは板が張り換えられていなく原形のまま。軒を支える柱など、より古びた木の質感を感じる。

羽越本線・羽後亀田駅舎の車寄せ、欄間や長押のような造り

 車寄せも昔ながら造りをそのまま残している。このへんは折渡駅の前に訪れた新屋駅と同じ造り。正面の軒支えは彫り込みなどの装飾が施された凝った造り。欄間や長押のような側面の板は古び木目浮く。やはり長年の使用でガタが来ているのか…、よく見ると側面の板の部分は少し曲がっている。

哀愁の羽後亀田駅

 暑さがピークの午後、ちょうど列車の間隔が空く時間帯で、乗降客の姿は無い。しかしトラックなど車が時折やってきては、ドライバーが出てきて、自動販売機で飲み物を買ったりトイレを使ったりしている。広いスペースがあり、気軽に車が停められる穴場なのだろう。

羽越本線・羽後亀田駅待合室

 待合室に入った。無人駅となっていて窓口は塞がれていた。ベンチは何故か新しかった。

羽越本線・羽後亀田駅、無人駅となり塞がれた切符売場

 簡易委託が取りやめになり、完全に無人化されたのは、半年前の3月18日。窓口を塞ぐ板が白っぽく真新しいのがそれを物語る。ついこの前までは、昔から使い継がれて来たこの木のカウンターで切符のやり取りをしていたんだなぁ…

羽越本線・羽後亀田駅の木造駅舎ホーム側

 駅舎のホーム側は新建材で改修され上屋も鉄筋製の新しいもの。正面とは打って変わって、昭和40年代か50年代に新築された駅舎のような雰囲気。

羽越本線・羽後亀田駅、閉鎖された島式ホーム

 2面3線の配線を持つが、ダイヤ改正の3月18日より島式ホームの2番3番線での乗降は無くなった。「列車の発着は1番線から」と注意書きが貼られたカラーコーンが置かれていた。自転車でやってくる時、鉄パイプが組まれているのを見て何か工事をしているのかと思っていたが、ホーム上屋の解体をしてるようだ。それにしても歴史感じる石積みのホームが使われないなんて、何やらもったいない。

羽後亀田駅、駅舎横の枯れた池のある庭園跡

 折りたたみ袋に収納した自転車を、ホームに上げておこうと1番ホームに向かった。

 ふと振り返ると、駅舎横の枯池にハッとさせられた。この駅に来て早々、この枯池の存在に気付いていて、写真撮影も済ましたのだが、駅舎を借景にする庭園跡はまた違った風景を 見ているかのよう。

 駅の外から見て…、1番線と駅舎を行き来する人々…、そして1番線から見下ろして…、かつては水を湛え緑豊かだった池庭は、さぞ乗降客の目を楽しませた事だろう。

秋田県由利本荘市の羽後亀田駅、寂れた感のあるひっそりとした駅前

 去り際にもう一度、外に出て駅舎を眺めた。こんな立派な駅舎がある駅、駅前にもうちょっと何かあってもいいような気がするのだが、ポツリポツリと家屋があるだけ。かつてはタクシー会社があったようだが、その建物ももう無い。小高い山に囲まれたこの地には、空地や実りつつある稲があるばかり。秘境駅として知られ、先ほど訪れた折渡駅よりは開けているかなという程度だ。

 しかし昔の航空写真を見ても、だいたいこんな感じで、多少の衰退はあるのだろうが、賑やかな街並みが形成された訳でも無さそう。

 この羽後亀田駅、合併して由利本荘市が成立するはるか昔、開業の大正時代は、松ヶ崎村という自治体に設置された駅だ。亀田町はその隣にあったのだが、亀田に無いのに亀田と名付けられた。駅は両者の中間に設置された格好だが、位置的には約2.5㎞離れた亀田より、松ヶ崎の方がやや近い。それでも約1.5㎞離れている。

 それぞれの自治体が市街地を形成していて、中途半端な位置に設置された駅の駅前が発展する余地はあまりなかったのかもしれない。それでも駅は賑わっていたのだろう。モータリゼーション前なら、バスや或いは歩いて駅に通い列車に乗った人も大勢いたのだろう。

羽越本線・羽後亀田駅、今や北東北の顔となった701系電車、

 そろそろ羽後亀田駅を立ち去る時間。秋田行きは、これまでなら跨線橋を渡らなければいけなかったが、1番線に統一されたお陰で、重い自転車を抱え渡らずに済んだ。

 やってきたのは701系電車。今やすっかり北東北の顔となったものだ。

[2023年(令和5年)9月訪問](秋田県由利本荘市)

レトロ駅舎カテゴリー:
二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

.last-updated on 2023/09/23