映画・鉄道員(ぽっぽや)ロケ地の駅、廃止!?

 2016年10月下旬、JR北海道が特に利用の少ない3線区の廃止・バス転換を協議する方針と、各種メディアが報じた。札沼線の北海道医療大学‐新十津川間、留萌本線の深川‐留萌間と共に明らかにされたのが、根室本線の富良野‐新得間だ。

 この発表を受け、ドラマ「北の国から」ファンと、映画「鉄道員(ぽっぽや)」ファンから落胆の声が上がった。…と言うのも、「北の国から」第一話で、東京から移住してきた黒板五郎一家が新天地・富良野での第一歩を標したのが布部駅。そして幌舞線の終着駅・幌舞駅として「鉄道員」の舞台となったのが幾寅駅だからだ。この両駅は、まさに廃止の方針が公表された根室本線の富良野‐新得間にある。2大ロケ地、いやファンにとっては伝説的な聖地が失われる報道は大きな衝撃となった。

 「鉄道員(ぽっぽや)」は、鉄道員として愚直に、そして不器用に生きた佐藤乙松の、心の底の悔恨と最期の奇跡が心に沁みる作品だ。私も映画館で見て、終盤では、いつの間にか涙を流していたものだ。演じたのは大俳優・高倉健だ。

 ロケ地となった幾寅駅は、ほとんどのシーンがこの駅で撮影さたと言っても過言ではない。まさに高倉健や広末涼子に次ぐ主役級の存在感を放っていた。鉄道員ロケのために、木造駅舎は先祖がえりのようにレトロ調に改修され、周囲には昭和レトロに満ちたオープンセットも建てられた。これらセットは今も残され、幾寅駅は南富良野町の観光資源になっている。


 根室本線の休止区間は、思えばこの前行ったのはいつだったか直ぐに思い出せない程、前の事だった。かなり改修されているものの、木造駅舎もいくつか残っているので、久しぶりに行きたいと思っていた。

 2016年8月末台風の被害で運休になっていたので、復旧してから久しぶりに列車でと思っていた。しかしその矢先、廃止の方針が発表された。廃止するつもりの路線を、満身創痍と言える経営状態のJR北海道がお金をかけて、あえて復旧させるものなのだろうか?もう「復旧してから」というのは無いのかもしれない…。ならば、例え列車が来なくても、まだ駅が駅である内に、訪れたいと強く思うようになっていた。

ロケのためレトロに改装された木造駅舎

 根室本線の列車代行バスで終点となっている落合駅まで行った。できれば新得まで行ってほしいものだが、ここから先の新得へ行く手段は絶たれている。運休にもかかわらず、代行バスが運行されないとは、普段から落合‐新得間の需要が著しく少なく、廃止が浮かび上がる現実をまざまざと見せ付けられる気分だ。

 すぐに落合駅を折り返し1駅、代行バスは幾寅駅に停車した。待合所となっている駅舎からは、数人の中高年の人が出て来て、私と入れ替わりバスに乗った。

根室本線、映画「鉄道員」ロケのためレトロに改修された幾寅駅舎

 恐らく十五年振りに、根室本線の幾寅駅に降り立った。いや、幌舞線の終着駅・幌舞と言った方がしっく来るような気にさせられる…。駅舎正面に大きく掲げられた駅名看板は、映画・鉄道員(ぽっぽや)のシーンのままに「幌舞駅」で、大仰な駅舎の片隅に「JR幾寅駅」と控えめに掲げられいる。

 現在の駅舎は1933年(昭和8年)、先代駅舎が焼失してしまった後に建てられたものだという。後年、外壁が新建材で覆われるなど、新築風の建物に味気なく改修された。だが鉄道員撮影のため、まるで開駅当時からの駅舎かと思う程、徹底的にレトロ調に改修された。

 木の造りは味わい感じるが、セットという事を知っていると、他の木造駅舎とはなんか違うよなと思えてしまう。それでも、屋根が真っ直ぐでなく、途中で軽く内側に折れている「腰折れ屋根」はセットとして改修される前からの元々の造りだ。腰折れ屋根は由仁駅旧駅舎や銭函駅など、北海道の古い駅舎でよく見られる形で、さり気なく古い造りを残しているのに魅かれる。

幌舞線の終着駅・幌舞駅こと幾寅駅、ロケ地となった木造駅舎、

 幌舞駅のロケセットとは言え、そのまま幾寅駅の駅舎として使われ続け15年以上過ぎている。その年月が刻み込まれたような木造駅舎は古び、味わいを宿すようになった。できる事なら、鉄路とともにこの風景の中にあり続け、歳をとって欲しい。今となっては悲痛な願いなのだろうか…。

南富良野町、根室本線・幾寅駅前。映画・鉄道員のオープンセット

 駅前に目を転じると、駅を取り囲むように、商店、食堂、理髪店など鉄道員のために作られたオープンセットが建ち並んでいる。レトロな建物が並ぶ風景は、まるで何十年前の昭和の駅前に迷い込んだかのような心地に陥る…。

鉄道員(ぽっぽや)ロケ地、根室本線・幾寅駅。セットの一つ、だるま食堂。

 オープンセットの一つ、木造建築のだるま食堂も、まるで半世紀以上昔から、この地に佇んでいるかのように古び、駅前の風景の中に溶け込んでいる。

 中がとうなっているか、窓越しに覗いてみた。すると、荒れ果てたがらんどう状態で、まるで打ち棄てられた倉庫のような雰囲気だった。外観だけ再現したといった感じだ。折角、雰囲気ある建物なので、食堂としてでなくても、何かで活用できれば、より面白いと思うのだが…。

根室本線・幾寅駅、鉄道員(ぽっぽや)ロケのためレトロ調に改装されたキハ40

 駅舎から少し離れて、作中に登場したキハ40形気動車が静態保存されていた。鉄道ファンの私としては、半分にカットされているのが、グロく残酷のような気もするが、色艶ある塗装で大切にされている様子が覗える。

 この車両、より旧型の国鉄気動車・キハ12形に似せるため、客室の窓をバス型の窓にしたり、正面部分などが改造された。駅舎同様にこだわりを見せたものだ。

 撮影終了後は臨時列車「ぽっぽや号」や、定期の普通列車として運転されていた。かつて幾寅駅を訪れた時は、擦れ違った列車がこのぽっぽや号で、乗車できなく残念な思いをしたものだ。しかし「ぽっぽや号」の任を解かれた後は、他の線区にも顔を出すようになった。2004年、石北本線の西女満別駅から2両編成の普通列車に乗車した時、後ろに連結されていたのがこの車両で、短区間だが運良く乗車できた。車内には鉄道員主要キャストのサイン色紙が飾られていたのを覚えている。

根室本線・幾寅駅の木造駅舎、軒は古い木のまま…

 待合室を通らず、外からまわり込み、駅舎のホーム側に出た。ホーム側も昔の木造駅舎の雰囲気が見事に再現されていた。でも、屋根裏面の木材の古び具合は、ロケのために作られたであろう壁とは明らかに質感が違う。長年、使い込まれ、深く渋い茶色に変化した木は、たかがセットと軽んじていた私に、この駅の歴史を印象付けた。

 プラットホームは駅舎より高い位置にある。運休が続き、誰も行こうとする人が居ないためだろうか…。目の前の階段は雪ですっぽり覆われ、僅かに階段の形を残すばかりだ。思い切って、雪の階段に足を一段一段と振り下ろしながらホームへ上がった。

根室本線・幾寅駅の木造駅舎、ホームからの風景

 ホームから眺めた駅舎はより大柄で、ずんぐりとした印象だった。倉庫のようなものが棟続きとなっているのが、他の木造駅舎では見られない造りだ。確か駅長宿舎という設定だったような…。

 こちら側の方が塗装の剥げが大きく、木の質感が露わになり、より木造駅舎らしい雰囲気だ。

JR北海道。運休中の根室本線・幾寅駅プラットホーム

 運休中のホームは誰の足跡も無く、一面真っ白の雪原のようになっている。そこに私の足跡をつけるのが、何か申し訳ないような気分にさせられる。

 配線は1面1線の棒線駅の構造だが、昔はもう1本ホームがあったという。それにしても、ホームだけでなく、レールまでも雪で完全に埋もれた様が、そして列車が来ないのがこんなにも寂しいものなのか。近づく廃止の足音…。冬の晴れ間、空は青く澄み渡り太陽の光が眩しいほどに降り注ぐ。しかし、気分はどこか晴れない…。

 よく見ると、子供より小さな足跡が、積もった雪に消されそうになりながらも点々と残っていた。駅に遊びに来た犬かキタキツネだろうか。足跡は構内を横切りどこかに消えていた。

幌舞線の終着駅…今も鉄道員の息吹き感じる駅

JR北海道・根室本線・幾寅駅の木造駅舎、待合室

 一旦、改修されたであろう室内も、木材をふんだんに使い、レトロ調に改修されている。しかし、セットとして改修されたとは言え、待合室は現役で立派に駅としての役割を果たしている。ベンチには座布団が一枚一枚びししりと並べられ、列車が来ない今も人の温もりを感じさせた。

根室本線・幾寅駅、映画・鉄道員(ぽっぽや)で窓口も昔風に改装

 昔の駅の必須設備、切符売場と手小荷物窓口も木材で見事に再現されていた。

 一段低い手小荷物窓口に置かれたテレビでは、鉄道員の予告編映像が繰り返し流されている。哀愁漂う主題歌の調べ、乙松や妻、そしてあまりにも幼くして天に旅立った娘のセリフが、誰もいない駅に静かに響いている。ああ、ここには乙松の喜びも悲しみも詰まっているいるのだ…。そう思うと、自宅のテレビで見るよりも、より深く心にしみ込むものがある。ただ一人、いつの間にか鉄道員の場面に引き込まれていた。

幾寅駅、旧駅事務室「幌舞駅の駅長」高倉健の肖像

 窓口より奥の駅事務室に入れるようになっている事が嬉しい。中に入り右側の出札口裏側を見ると、デスクの上に高倉健の遺影が飾られていた。遺影はきれいな花が添えられ華やかな雰囲気だ。そう言えば、高倉健が世を去ってから、もうすぐ2年か…。

根室本線・幾寅駅、内部は映画・鉄道員(ぽっぽや)の展示室に

 奥の部屋には、当地で鉄道員の撮影を記念した展示室になっている。撮影で使われたという古ぼけた鉄パイプの改札口を通り、中に進んだ。

根室本線・幾寅駅、鉄道員で高倉健が着た駅員の衣装

 鉄道員のワンシーンをとらえた写真、高倉健から地元の人に送られたお礼状、運賃標などの小道具など、色々なものが展示されていた。しかし、やはり撮影で実際に高倉健が着た駅員の衣装がより心に迫るものがある。ガラスで隔てられたすぐそこに、まるで健さんがいるような不思議な緊張に包まれた。

北海道・南富良野町の中心地、根室本線・幾寅駅付近の街並み

 駅前の街に出た見た。畑が広がる中に家屋が点在する田舎風景と勝手に想像していたが、家屋や商店、飲食店などが建ち並ぶ、まとまった街並みが形成されていた。幾寅駅周辺は町役場もある南富良野町の中心地だ。幾寅駅が南富良野町にある事は知ってはいたが、中心地は一体、どこなのだろうと思っていた。10分ほど歩くと、道の駅もあるらしい。

幾寅駅隣接、南ふらの情報プラザ内の鉄道員(ぽっぽや)映画看板

 駅に隣接した南ふらの情報プラザという施設が建っている。古くくすんだ外観の木造駅舎に比べ、はるがに大柄で新しい建物だ。トイレを借りようと中に入ったら、吹き抜けのエントランスに、鉄道員の大きな映画看板が掲げられていた。

 思えば、私が堪能したのは根室本線の幾寅駅なのか…、それとも幌舞線の幌舞駅なのか…?いずれにせよ虚実入り乱れたような、この地での滞在は印象深いものになった。

隣の東鹿越駅にて…

 代行バスの時間まで、あと1時間弱あるので、隣の東鹿越駅まではタクシーで先回りした。

 東鹿越駅であれこ見ていると、ホーム上の駅名標風の観光案内看板が目に入った。すぐ目の前に広がる金山湖の観光地図らしいが、ほとんど色が剥げ、明確なのは道路らしき太い線だけだ。

東鹿越駅、幾寅駅の国鉄型駅名標を使いまわした観光地図

 看板の塗料が剥げた部分からは、何か文字が現われていた。よく見ると駅名標のようだ…。不要になった駅構内の看板を、このように塗りつぶし転用する事自体は特に珍しくは無い。

 駅名標は、下部の両隣の駅を標した部分の多くが剥げ、ローマ字で書かれた駅名が何とか判読できそうだ。もう一度よく見てみると、「OCHIAI」「HIGASHI-SHIKAGOE」と書かれているのが判り、併記されたひらがなも、そう書いてあるのがなんとか判った。この両駅に挟まれた駅は… 幾寅駅だ!何と幾寅駅のかつての駅名標が、こんな所でひっそりと眠っていたのだ。半分より上に大きく「幾寅」と書かれた部分は、まだ多くが隠れたままだが、ローマ字の「RA」の部分は、なんとなく判る。飾り気のないシンプルさから察するに、恐らくは国鉄時代の駅名標なのだろう。

 地図の塗装を丁寧に全部剥がすと、隠された文字が姿を現し、かつての姿を取り戻すのだろう。国鉄型の駅名標は今やお宝とさえ言える貴重なものなので、復原して幾寅駅に戻して欲しいものだ。

[2016年(平成28年) 11月訪問] (北海道空知郡南富良野町)

追記1: 根室本線不通区間復旧断念、廃線か?

 この幾寅駅訪問から約2週間後の11月21日、JR北海道が南富良野町に、東鹿越‐新得間の復旧工事は見送る方針と通達した。東鹿越駅は、2017年(平成29年)3月のダイヤ改正での廃止が表明されている。そうなると、分断された根室本線の北部区間は滝川‐金山間となっていまい、金山駅‐新得間は次のダイヤ改正で実質的な廃線状態となる恐れもでてきた。

 根室本線の廃止が表明された富良野‐新得間のうちの、残りの区間である富良野‐金山間も、廃止の協議が滞りなく進めば進めば、数年の内に廃止かもしれない。

 2016年12月、JR北海道から平成29年3月ダイヤ改正が発表された。廃止が予定されていた東鹿越駅は、代行バスの接続駅となっている事から、とりあえずは存続される事になった。ただ、東鹿越‐新得間に関しては、何の発表も無かった。

 台風の被害で、同じく不通となっていた石勝線・根室本線のトマム‐芽室間は12月22日に復旧している。


 そして2022年1月28日、根室本線の廃線が俎上に上がっている区間・富良野‐新得間の沿線4市町村、富良野市、南富良野町、新得町、占冠村とJR北海道の協議があり、自治体側が鉄道による富良野-新得間の鉄道による復旧を断念、バス転換への協議に入る事が決まったという。

追記2: 幾寅駅廃止、しかし保存へ…

 長期運休が続いた根室本線・富良野-新得間の沿線の4市町村が、同区間の廃止とバス転換を容認し、2024年3月31日に最終運行、翌日4月1日付で廃線、幾寅駅も廃駅となった。

 南富良野町は鉄道員のロケ地として有名な幾寅駅跡を今後も観光資源として活用するため、2024年度に保全のための予算を計上した。幾寅駅舎は今後も残るようで一安心。

レトロ駅舎カテゴリー:
JR・旧国鉄の保存・残存・復元駅舎

幾寅駅基本情報+

鉄道会社・路線名
JR北海道・根室本線
駅所在地
北海道空知郡南富良野町字幾寅
駅開業日
1902年(明治35年)12月6日
現駅舎竣工年
1933年(昭和8年)
駅営業形態
無人駅
根室本線不通区間へのアクセス
2017年3月28日より、代行バスの運転区間が東鹿越‐新得間に変更された。運行期間は「当分の間」との事。最新情報はJR北海道のウェブサイトから関連コーナーで確認を。
その他、不通区間の補完手段として、占冠町営バスで、根室本線・富良野‐落合間の駅から石勝線方面に抜ける事ができる。富良野線が、富良野駅・布部駅近く、金山駅などを通り占冠駅へ。トマム線が、幾寅駅、落合駅などを通りトマム駅や占冠駅へ。本数は非常に少ないので、占冠村・アクセスマップから村営バスの項目で確認を。
また、旭川駅‐帯広駅間の都市間バス・ノースライナーが、富良野駅、山部駅、幾寅市街、新得市街などを通る。詳しくは運行会社の一つ、北海道拓殖バスノースライナーのページへ。

偉大なるローカル線、深名線の思い出

 深名線の廃線から20年が過ぎた。多くの国鉄赤字ローカル線が廃止となった後、深名線は北海道に残ったローカル線の中のローカル線と言える存在だった。

 深名線は、深川と名寄の121.8kmを結んでいた路線だ。国鉄時代の1960年代から1970年代、赤字路線として廃止候補にあげられた。しかし、沿線の代替道路が未整備という事で、その対象から免れ生き長らえてきた。しかし、1995年(平成7年)9月4日、深名線は遂に廃止となった。

在りし日の深名線、冬の朱鞠内駅

 初めて北海道への上陸を果たした1988年3月、寝台特急・北斗星で札幌に到着すると、最初の訪問路線として何故か深名線を選び、乗りに行ったものだ。札幌からその日の内に行きやすいというのもあったのだろうが、深川と名寄の121kmの間、これと言った規模の街や有名な観光地がある訳でなく、時刻表の地図の上に路線が伸びる様が、どこか細々とし頼りなさげに見えたのに、どことなく魅かれたからなのだろう。

「おかえり沼牛駅」

 深名線が廃止から20年になろうとしている頃、意外にもいくつかの木造駅舎が残っている事を知った。鷹泊駅、沼牛駅、政和駅、添牛内駅と4駅の木造駅舎が、傷みが進みながらも残っているらしい。

 その中で沼牛駅の駅舎は地元の人が買い取り、雪下ろしや補修などをし地道に守ってきたという。廃線から20年の2015年7月18日、「おかえり沼牛駅」として1日限定の駅舎公開イベントが開催され、大勢の人で賑わった。

 しかし、開業の1929年(昭和4年)より87年より佇み続け、そして廃線から20年。本格的な修繕が施されなかった木造駅舎は、傷みが酷くなる一方で、放っておけば崩れ落ちるのも時間の問題だった。そこで歴史ある駅舎を次世代に渡すため、大掛かりな改修を施す事になった。

 改修にあたり、資金は「クラウドファンディング」でネット上から広く寄付を募る事になった。しかし期限の8月1日の23時00分までに、目標金額の200万円に1円でも達していなければ募金は不成立となってしまう厳しいルールがあった。

 2016年5月31日からクラウドファンディングが開始となり、私もささやかながら早速、寄付した。しかし、なかなか金額の半分にも達せずやきもきしたが、最後の1ヶ月で追い上げを見せ、最終的には239万の金額を集め無事に成立した。

 クラウドファンディングの目標達成で本格的な改修作業に入り、一方で、有志による改修・清掃などのイベントが何度も開催され、遂に改修が完了した。改修完了記念の「おかえり沼牛駅改修お披露目会」は11月6日に開催される事になった。その日が多くの人が集まりやすい日曜日というのもあるが、沼牛駅開業日の11月8日に近い事も意識したという。

見事に甦った木造駅舎

 前日、運悪く休みを取れなかったため、当日、朝一の羽田発新千歳行きのJAL便に乗り、深川まで列車で駆けつけようと思った。降雪のため、フライトが条件付の運行になったり、各所の接続時間がギリギリになるなど危ない場面もあったが、10時5分、特急スーパーカムイで何とか深川駅に着いた。

 走って跨線橋を渡り駅舎を抜け、駅前のJRバス深名線の乗り場に向かった。きっと沼牛駅に行く人で賑わっているびだろうなと思っていたが、バスを待つ人はたったの数人で、「それらしい人」は私を除けば僅か2人…。ガラガラの車内のまま、バスは深川駅を出発した。本州だとこれから秋が深まる11月の上旬だというのに、窓の外は一面の雪景色。しかも、なお容赦なく雪が降り続いていた。

 バスは一旦、国道を外れ、沼牛駅最寄の下幌加内停留所に向かった。するとひたすら過疎地の雪原を走っていたが、家屋が散在する集落に入った。そして車の列が目の前に飛び込んできた!車の訪問者の駅前の道に列を成して駐車している。そして道には何人もの人が歩いている。普段は静かな集落の道が車や人で賑わい、バスの運転手さんも、すぐそこのバス停に行くのに一瞬、難儀したようだ。

「おかえり沼牛駅」で賑わうかつての駅前

 バスを降りると、賑わいの奥に木造駅舎が建っているのが見えた。もう廃虚同然ではなく、味わい深く、そしてしっかり地に佇む姿を取り戻していた。心躍る気持ちで、雪を踏みしめ急いだ。

深名線、駅舎が霞むほどの雪が降る沼牛駅

 11月上旬、北海道にはもう冬が訪れ、周囲は雪で真っ白だった。渋く活き活きとした茶色の駅舎は、絶え間なく降りしきる雪で白く霞んでいた。

 バスに乗った時は折角の記念すべき日なのに寂しいものだと思ったが、多くの人で賑わっていた。TVや新聞の取材陣も何組も来ている。そして記念品や幌加内名産の蕎麦を販売するテントも出店するなど、寒空の下、お祭りムードだ。

 できれば人が入らないすっきとした状態で撮影したいものだが、今日はお祭りだ。そう思う方が野暮だ。第一、駅舎は大雪で白いヴェールが掛かっているようにしか見えない。

深名線廃線跡に残る沼牛駅舎

 駅舎の脇を回りホーム側に出て、かつてはレールが敷かれていた場所降りてみた。そこは一面雪景色が広がっていた。まだ、葉さえ色付かず深まらない秋を飛び越え、いきなり真冬に襲われた私は、寒さに震え上がった。

 そして、駅舎への一歩を踏みしめた。開業当時の姿を取り戻した狭い待合室は大にぎわいだ。普段、ひっとしとした木造駅舎を訪れる事が多い私には、どこに居ようか戸惑った。とりあえず残り僅かとなっていた沼牛駅駅弁を購入すると、休憩所として解放されていた駅前の農業倉庫で一休みした。

沼牛駅、ちほく高原鉄道・上利別駅の部材が使われた窓口跡。

 そして再び駅舎に戻ってきた。

 復活した木造駅舎は待合室だけでなく、駅員事務室や宿直スペースと言った、普通なら乗降客が入る事ができないスペースも公開されていた。

 出札口は沼牛駅グッズなどの記念品、手小荷物窓口は沼牛駅駅弁が売り切れた後は飲食物の販売で利用されていた。本来の目的ではないものの、昔のままの姿に再現された窓口が活発に利用されている様子を見ると、やはり嬉しいものだ。

 今回の修復では、窓口裏側の駅事務室側も再現されるこだわり振りだ。出札口の駅事務室側は無人化された後、カウンターなど部材が撤去された状態だったという。そこで2006年に廃線となった、ちほく高原鉄道の上利別駅の木造駅舎の同じ部分の部材を譲り受け、沼牛駅の切符売場に取り付けられた。

 上利別駅の木造駅舎は廃線以来、長らえて来たが、数ヶ月前に残念ながら取り壊されたばかりだった。もし、もう少し取壊しが早かったら、使い継うという発想も思い浮かばなかっただろう。縁あって、こんな形で沼牛駅で生きる上利別駅に、数奇な運命を感じずにはいられない。

 窓口裏側の木のカウンターと引出し…、係員さんの邪魔になるので、少し離れた所から見るしかできなかったが、年月がしみ込んだような深く渋い茶色のカウンターと引出しは、沼牛駅の87年という空間に何の違和感も無く馴染んでいた。

沼牛駅、深名線廃線後、荒れた駅舎内部。

駅事務室の奥の駅長住居スペースに、靴を脱いで上がってみた。玄関的な数畳のスペースの奥は、板敷きの居間となっていて、テレビでは深名線在りし日のビデオが流れ、ちゃぶ台の上には飴玉や幌加内に関した本が置かれている。来訪者が自由にくつろぐ姿は、まるで顔なじみの駅長の家に上がりこんでる風情…。

 壁には沼牛駅修繕の様子や上利別駅など、関連する多くの写真が展示されていた。その中に修繕前の居間の写真も展示されていた。室内はボロボロで床板も無く荒れ放題で、とても人が居られる状態ではなかった。

沼牛駅の木造駅舎、修復された駅員休憩室

 だが、よくここまで修理したような思う程、室内は奇麗になっていた。隅から隅までの完全な改修ではなく、古さはあちこちにあるが、それでも同じ駅だとは思えない。

 クラウドファンディングでは50万円のプランもあり、沼牛駅駅舎を一晩貸し切れるという内容だった。趣き深い木造駅舎に宿泊できる、ファンにはたまらない非常に魅力的なプランだが、高額過ぎで、このプランを選んだ人は居なかったようだ。

 50万というのは高過ぎるが、一泊数万程度ならば絶対に行きたい。それに昭和年築の木造駅舎に宿泊できるとなれば、大きな話題になると思うのだが…。

深名線・沼牛駅駅舎の宿直室、押入れに貼られた古い新聞紙

 押入れの壁紙には古い新聞が使われていた。ある一枚には昭和28年3月17日の日付が記されている。また、国鉄の労働組合の機関紙らしき一枚には「バカヤロー内閣を倒せ」という見出しが掲げられていた。当時の首相・吉田茂の失言による衆議院解散「バカヤロー解散」で、吉田内閣を糾弾するスローガンだ。記事だけでなく、隅の広告もレトロで時代を感じさせ、狭苦しい空間がまるでセピア色のタイムマシーンのようだ。自宅の押入れを秘密基地にして遊んだ子供の頃と、不思議と重なるような心境になった。

 昭和28年当時の駅長さんが、古くなった押入れの壁を新聞で修繕でもしたのだろう。

JR北海道・深名線・沼牛駅の木造駅舎、増築部分の浴室跡

板敷きの居間の奥には、トイレがあり、更にその奥には水場や、何とお風呂も残っていた。浴槽は木製の桶でかなりのシブさだ!スノコがプラスチック製で、それほど劣化していない所を見ると、簡易委託化される1982年(昭和57年)3月30日までは、使われていたのではないだろうか。

 室内の掲示によると、この風呂場は開業当時からのものでなく、後年に増築されたとの事だ。

 本州など北海道の他の地域ににも、駅員用の浴場が駅構内に残っている場合もあるが、別棟の小屋になっている事が多い。冬はマイナスの気温が当たり前の北海道では、やはり風呂場を別棟にすると、僅か数メートルの距離でも、入浴直後の体を極寒に晒すのは体に悪いので、駅本屋内に設置されたのだろう。

深名線・沼牛駅、美作滝尾駅を参考に再現された窓口

 12時を過ぎると、少し人が引いたようで、見事なまでに再現された窓口跡をより堪能する事ができた。

 出札口のカウンターは、無人駅となり窓口が塞がれた後も残っていたという。窓枠は無くなっていたが、今回の改修で復元された。木の窓枠はやはり味わい深く、古びたカウンターにも似合っている。そしてまだ表面がすべすべとしたきれいな平で、角が取れていない真新しい木材で作られた窓口は、使い古された窓口ばかり見てきた私には、とても新鮮に映る。

 出札口の窓枠の再建にあたり類似例を探したところ、1928年(昭和3年)築の美作滝尾駅の木造駅舎と似ている事がわかり参考にしたという。ここでも失われつつある古き良き駅舎の造りが受け継がれているのだ。

深名線・沼牛駅の改札口跡、ちほく高原鉄道・上利別駅から移設したラッチ

 駅舎内部を堪能した後、後ろ髪を引かれつつ外に出た。やはり寒い!

 改札口ラッチ(柵)のうち両脇のものは、上利別駅から譲り受けたという。中央の柵と同じく木製だが、よく見ると風化して木目が浮かび上がり質感がまるで違う。

深名線廃線から21年…見事に蘇った沼牛駅の木造駅舎

 人が少し引いて、そして雪が幾分か弱まった隙に、改めて駅舎を正面から撮影してみた。よくここまで木の質感を全く損ねないで昔ながらの雰囲気のまま、きれいに仕上げてくれたものだと思う。寄付をして本当に良かったとしみじみとかみ締めた。

深名線・沼牛駅、クラウドファンディングできれいに修復された木造駅舎

 更に近づくと、木の質感がより迫り来るかのようで味わい深い。窓枠も木製だ。

 渋く濃い茶色は「松煙」「ベンガラ」「柿渋」と言った古来よりの塗料を調合し、元々の雰囲気を大切にした色になるようにしたという。茶色いペンキも悪くないが、木により良くなじみ木目さえもくっきり浮いているこちらの方がより木造駅舎らしいものだ。

修復された沼牛駅駅舎、今にも列車が来そうな深名線らしい冬景色

 深い雪に包まれた木造駅舎というのは、やはり冬の北海道らしく風情溢れる風景だ。

 駅舎が甦り、JR時代の駅名標が設置された駅は、まるでいまだに現役であるかのようだ。そして木々や山に囲まれた自然豊かな風景はきっと、何十年も前から…、いや、この駅が開業した当時からたいして変わっていないのかもしれない。違うのはレールがあるかないか位…。

 むしろ列車間隔が空く深名線だから、そのうち道床に積もった雪を踏みしめながら、単行の列車がやって来る…。そんな幻想さえ、一瞬目の前に見えたような気がした。

[2016年(平成28年) 11月訪問]

~◆レトロ駅舎カテゴリー: JR・旧国鉄の保存・残存・復元駅舎

沼牛駅基本情報+

鉄道会社・路線名
JR北海道・深名線
駅所在地
北海道雨竜郡幌加内町字下幌加内
駅開業日
1929年(昭和4年)11月8日
駅廃止日
1995年(平成7年)9月4日
駅舎竣工年
1929年(昭和4年) ※開業以来の駅舎
駅営業形態
無人駅(廃止前)
代替バス
ジェイ・アール北海道バス・深名線。時刻は同社路線バス・時刻表のページから深川方面(深名線)の項目から時刻表をリンクで。
駅舎公開・イベントなど
駅舎の内部は、通常は非公開だが「おかえり沼牛駅実行委会」により、食べものの提供や雪かきなど、いろいろなイベントが開催され、その時に、内部も公開されているようだ。詳しくは
おかえり沼牛駅実行委員会ウェブサイト、もしくは公式Facebookページまでどうぞ。

古駅舎の淘汰が進んだ飯山線

 2016年夏、山形と新潟を訪れ、飯山線を経て長野から特急しなので帰路に就くつもりでいた。そこで、飯山線にいい木造駅舎がある駅が無いかとウェブ上で情報を漁った。

 しかし、31駅中、古い姿を留めた駅舎は僅か1駅…、越後岩沢駅だけだった。殆どが建て替えられ、その多くが小さな簡易駅舎になってしまった。100km程度の営業距離のある旧国鉄・JRのローカル線なら、改修されながらも木造駅舎はいくつか残っているものだ。しかし96.7kmに、31もの駅がありながらたったの1駅とは…。ウェブ上で写真を見ただけなので、断言はできないものの、大いに驚かされた。

 このようになったのは、2015年に金沢まで延伸した北陸新幹線の影響も大きい。木造駅舎だった飯山駅は移転し、高架の新幹線ホームを持つ最新の駅舎に建て替えられた。その他の長野支社管内の飯山線6駅は、観光客を意識し「駅舎美化」の名の下に、建て替えやリニューアルが実施された。信濃浅野駅、替佐駅は元々の木造駅舎をリニューアルしたものだが、原形に大きく手を加えていて、まったくの別の駅舎のように変貌してしまった。

帰路、寄り道で越後岩沢駅へ…

 旅の2日目、越後岩沢駅には必ず訪問しようとと思っていたが、途中、列車に乗り遅れてしまい、飯山線経由ではその日の内に帰れなくなってしまった。上越新幹線で東京を経由するしか無くなり、飯山線を乗り通すのは次の機会にと思った。

 しかし“この次”あの木造駅舎はもう無いかもしれない…。飯山線に限らず、新潟県内のJRの駅舎は建て替えが進んでいて、古駅舎の残存率は意外に少ないように思う。なので越後岩沢駅にも建て替えの魔手が伸びてきてもおかしくない。

 越後岩沢駅は幸いにも、上越線との分岐駅の越後川口駅から僅か2駅目だ。時刻表を見て行程を練り直すと、帰路の途上、ちょっと道をそらせば、無理なく訪問できる事に気付いた。

 それでもやや時間があったので、一つ行き過ぎた下条駅(げじょうえき)を見て、折り返し越後岩沢駅にやってきた。

飯山線・越後岩沢駅、廃止されたプラットホームが残る

 1面1線に側線がある典型的なローカル線の配線だが、昔はもう一面、反対ホームがあり、その遺構が今でもはっきりと残っている。

飯山線・越後岩沢駅、廃ホーム跡

 廃ホームはまるで遺跡のように映った。構内通路の階段跡も残っている。

 使われていないとは言え、たまに手入れされているのだろうか・・・?ホーム上の雑草は刈り取られ、咲きそろった花々がきれいで、まるで廃ホームを活かした庭園か花壇のようで悪くは無い。しかし、びっしり生えた苔と錆びきったレールは、駅の衰退を物語っているようでどこか物悲しい。

冬は雪深い飯山線・越後岩沢駅、駅舎の雪囲い

 駅舎ホーム側の窓には、雪囲いの板が丁寧に掛けられ、冬の雪深さを物語っている。ただ、今は夏。立ってるだけで汗が吹き出る程暑い。雪囲いを纏った駅はやや暑苦しく映る。無人駅となり、冬に取り付け春に外すという作業が面倒なので、年中付けっぱなしなのだろう。

飯山線・越後岩沢駅、「計量管理事業場」のホーロー看板

 駅舎には「通商産業大臣指定 計量管理事業場」という小さなホーロー看板が取り付けられたままだった。昔は貨物も扱っていた証だ。

飯山線・越後岩沢駅、待合室の古い駅名標

待合室の扉を開けると、出入口上のこの駅の古い駅名標一点に強く目が引きつけられた。完全に改修された待合室にあって、唯一、古さを感じさせるものだ。

JR飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、待合室

 待合室は徹底低に改修され、古さをほとんど残していない。窓口跡があったと思われる部分は跡形なく埋められただの壁となった。作り付けの長椅子も新しめだった。

JR東日本飯山線・越後岩沢駅、昭和2年築の木造駅舎

 駅舎の正面にまわってみた。木造駅舎だが、外壁は新建材に張り替えられ、右端には倉庫が設置されたのか、シャッターが取り付けられるなど、大きく改修されている。それでも、国鉄やJRの前身の鉄道省が1927年(昭和2年)に十日町線として、越後川口駅からこの駅まで開通させた時以来の古い駅舎だ。

飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、車寄せ

 大きく改修されているが、車寄せは木のままの造りを残す。新建材で覆われ、ちょっと前に建てられた家屋のような雰囲気になった駅舎にあって、この駅の歴史を感じさせる。柱の下部がコンクリートで四角柱のように厚く覆われ、どっしりとした柱に仕上げられているのが独特で印象的だ。これなら雪に押し潰される事も無いだろう。

JR東日本飯山線・越後岩沢駅、駅前に野花が咲く

 駅舎の左前には、荒れた花壇が残っている。放置されて久しいのだろうが、雑草が生い茂る中に、色とりどりの野花が咲き誇る。誰かが植えた花々が、なおも季節を忘れずこうして咲くのだろうか。小さな草原の中の花畑を見ている心地で、不思議と心引き付けられた。

飯山線・越後岩沢駅、側線跡の車庫

 越後川口方にある側線ホームには、プレハブの倉庫が設置されていた。中から除雪車モーターカーのロータリーが僅かに姿を覗かせていた。貨物と言った当初の用途とは違うが、立派に現役の側線だ。

飯山線・越後岩沢駅、駅前の国道117号線

 駅から300メートル弱程歩くと、国道117号線に出る。小高い山々に囲まれた中、家屋が点在するこじんまりとした街並みだ。駅前に越後交通の岩沢駅前バス停があった。

飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、車寄せの柱

 駅に戻ってきて改めて駅を眺めると、昔ながらの形をした木造駅舎と、どっしりとした柱を持つ木のままの車寄せはやはり印象深い。新建材で外壁こそ改修されているが、飯山線最後の古駅舎の風格を十二分に漂わしている。

 よく眺めると、向かって左側の柱が真っ直ぐでなく、角が削られようになっていて、直線でないのに気付いた。あれ?何でと不思議に思った。こういう柱の場合、きっちりと四角柱に加工された木が使われている場合がほどんどだ。模様が彫り込まれている場合もあるが、この柱の場合はそんな感じでもなく、四つの内の三つの角が削り取られた様になている。もう一方の柱はちゃんと四角柱に加工されている。

 腐食した部分を削り取ったのだろうか…。

 いや、それとも木を切り出す時に、失敗してしまったか、端の半端な部分がきれいな四角柱にならなかっただろうか…。それでも、一応、柱として使うには問題無いし、廃棄するにはもったいないから、「えい、使ってしまえ!」という事になったのかもしれない。大工さん達のそんな息遣い、それとも「まあいいよ」と許容した大らかな国有鉄道の担当者の空気感が伝わってくるかのようだ。

[2016年(平成28年) 8月訪問]

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星駅舎

越後岩沢駅・基本情報+

鉄道会社・路線名
JR東日本・飯山線
駅所在地
新潟県小千谷市大字岩沢
駅開業日
1927年(昭和2年) 6月15日
駅舎竣工年
1927年 ※駅開業以来の駅舎
駅営業形態
無人駅
その他の訪問手段-路線バス
越後交通の長岡駅前-小千谷‐十日町線が、岩沢駅前から十日町まで飯山線にほぼ沿うルートで運行されている。
(参考URL: 越後交通路線バス・小千谷地区の時刻表)
飲食店
駅前に農家レストラン・喫茶「より処 山紫」がある。詳しくは公式サイトFacebookページまで。

萩市中心部3つの駅

 山口市から流れて来た阿武川は日本海に注ぐ直前、松本川と橋本川に分岐する。2本の川を濠にしたかのように、その内側に三角州が形成され、毛利氏が治める長州藩の城下町として発展し、幕末には吉田松陰や高杉晋作など幕末の志士を輩出した。萩市となった現在、市の中心地となり、歴史を留めた古い街並みは、山口県下でも有数の観光地になっている。

 1925年(大正14年)、この区間は美禰線(今の美祢線)として西側から延伸し開業した。路線は城下町の中には乗り入れず、濠のような2本の川の外側に沿って、南側に迂回するようにレールが敷かれた。この区間、城下町を貫けば3kmちょっとだが、迂回しているため倍の約6kmの距離を要している。

 萩中心地を迂回しているこの区間内に、3つの駅が設置されている。東側にあるのが東萩駅で、市街地にいちばん近い駅だ。業務委託とはいえ有人駅で、萩市の中心駅の位置付けだ。

 南側にあるのが萩駅だ。駅名だけを見れば萩市の代表駅という感じがするが、東萩駅に比べれば市街地からはやや遠く、現在では無人駅となり、その座は東萩駅に譲っている。萩駅には開業の大正時代以来の洋風木造駅舎が残っている事が知られ、内部は「萩市自然と歴史の展示館」として、萩市に関する写真や鉄道用品などを展示している。

 そして西にあるのが玉江駅だ。

さりげなく凝った装飾が目を引く駅舎

 東萩駅から萩市街地を萩駅まで歩き、洋風木造駅舎と桜を堪能した跡、山陰本線の下り列車に乗り1駅の玉江駅で下車した。

JR西日本・山陰本線・玉江駅、1面1線のプラットホーム

 国鉄時代からの駅舎が残る割に、1面1線の簡素過ぎる駅構造に意外な感じがした。単線の交換可能駅で、片側のプラットホームが廃止され1線になった駅では、残ったレールがホームに進入する直前に分岐している線形をそのまま残している場合はほとんどだ。しかし玉江駅にはその痕跡が無く、レールは真っ直ぐ伸びたままホームに進入している。玉江駅の構内配線は、元々、このような構造だったのだろう。

 駅舎が設けられるような国鉄の駅は、旅客用のホーム以外にも何線もの側線や貨物ホームなど、それなりの規模と敷地を有していた場合が多いが、とっくの昔に取り払われたのか、それらの痕跡も見当たらない。

 恐らくは、数キロの圏内により規模の大きな萩駅と東萩駅が同年の1925年(大正14年)に相次いで開業したため、玉江駅の駅としての機能やポジションは当初より小さく見積もられ、比較して小規模な構造になったのではないかと思う。玉江駅の貨物取り扱いの廃止年は1963年(昭和38年)と、萩駅より14年、東萩駅より20年も早いのがその事を物語っているような気がする。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、ホーム側

 ホームから改札口に向かって正面に階段があるが、側面から緩やかなスロープも設置されている。ホームと駅舎の間は木々が豊かに植えられている。この空間は、1線分位の幅がありそうなので、昔はこちら側にもレールが敷かれていたのかもしれない。

 駅舎の壁面はモルタルで固められている。軒を支える柱や駅務室側の窓枠は木のままで、駅の年月をほのかに感じさせる。

山陰本線・玉江駅、改札口跡、タイルの装飾

 改札口出入口の両縁は、四角い茶色のタイルがでこぼこに積み上げられているかのように埋められている。ちょっとした装飾で駅舎が随分とお洒落な雰囲気になるものだ。

山陰本線、萩市内の駅・玉江駅のモダンな木造駅舎

 待合室を通り抜け、まず駅舎の正面にまわってみた。マンサード屋根を掲げ重厚感のある洋風駅舎だった東萩駅の旧駅舎、そして今も残る洋風木造の萩駅駅舎に比べれば、モルタル木造の玉江駅駅舎はいかにも標準的と言うか地味にさえ映る。2つの駅があれだけ力が入っているのだから、もうちょっとインパクトのある駅舎でもよかったのではと思える。

JR西日本・山陰本線・玉江駅の木造駅舎、出入口の装飾が素晴らしい

 とは言え、三角屋根の切妻のファサードは目を引く。

 一見するとシンプルに思える駅舎だが、よく見ると装飾はさり気なく凝っていて、唸らせるものがある。出入口両縁には、改札口側と同様に、タイルの装飾が施されている。そして上部の小さな軒には、オレンジ色の洋風瓦が敷かれている。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、車寄せの軒の装飾

 車寄せの軒は木造の造りをそのまま残している。よく見ると軒を支える木の棒には、線のような切り込みが1本1本入れられ、模様のようになっている。こんな線無くてもいい筈なのに、何と!手間隙かけているのだろう!

山陰本線・玉江駅、長州出身の井上勝を紹介した看板

 出入口横には、長州藩士で鉄道の開通と発展に尽力し、日本鉄道の父と言われる井上勝の功績を紹介した看板が設置されていた。少し文字が消えているのが残念だが。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、木枠の窓と洒落た柵

 駅舎正面の待合室部分の窓は、何故かとても小さく細長い。そんな窓が僅かに2つあるだけだ。出入口扉のサッシ窓はガラス部分は大き目に取られているが、何でこんなにちっぽけなのかと不思議だ。東からは光があまり入らなさそうで、朝は薄暗そうだ。

 しかし窓枠は木製だ。何よりもアール・デコ調の鉄柵が何ともユニークだ。格子状の柵で窓全体を覆うのではなく、横長でちょこんと控えめに掛けられているのが、またお洒落な雰囲気を醸し出す。

そして驚愕の窓口跡

JR山陰本線・玉江駅、がらんとした待合室

 やや広めの待合室は、今では全部で4脚のベンチがポツンと置かれるだけでもの寂しい雰囲気が漂う。2000年代の半ば頃まではキヨスクがあり、乗車券の販売も行っていたという。

 玉江駅の東側は橋本川を隔て、萩の市街地が広がる。そして萩城跡まで約2km位で、その途上には城下町の風情を残した堀内地区など観光名所も点在し、観光に便利そうな駅に思える。しかし観光客はおろか、地元の利用者もぱらぱらといる程度と、駅はひっそりとしていた。

山陰本線・玉江駅、窓口跡(出札口、手小荷物窓口)

 窓口は完全に塞がれ、各種の掲示物が貼られている。そして前を覆い塞ぐように、ベンチが置かれている。

 しかし窓口の残されたカウンターをよく見ると、二つと無い非常に個性的で凝った造りなのに気付き、我が目を疑う程に驚かされた。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、窓口跡カウンターの造りが

 それは普通なら切符販売用の窓口(出札口)と、手小荷物用窓口のカウンターが別々に独立した造りになっている所が、この駅では、何とひと続きになってるのだ。左側のお腹位の高さに出札口のカウンターがあり、中間部分でストンと一段落ちるかのように低くなり、手小荷物用窓口のカウンターになって続いているのだ。さすがに一枚板ではなく、段差が出来ている部分は、縦に板があてがわれ両者が繋がれる形になっているが、なぜそうまでして一体にしたのかと不思議に思う。

山陰本線・玉江駅、出札口跡の凝ったカウンター

 そして出札口の方は、木のカウンターがでこぼこにカットされ、3つの出っ張った部分と、その間の2つのへこんだ部分という複雑な造りになっていた。へこんだ方に金銭受けの跡があるので、そちらに窓口があったようだ。。出っ張った角が、カーブを付けられ2段にカットされているのは、角に人が当たるのを防ぐためなのだろうが、デザイン性を感じ、何故これほどまでに凝っているのだろうか…

 複数の窓口が残る駅舎の場合、一枚の長いカウンターが設置されている場合や、窓口毎に小さな独立したカウンターが設置されている例もあるが、このカウンターは両者の中間型と言えるだろう。

 今まで木造駅舎など、いくつもの古駅舎の窓口跡を見てきたが、こんな形のものを見るのは初めてだ。他にもあったのかも知れないが、かなり珍しいものである事は確かだと思う。

 無人駅になり人影少なくても、木のカウンターの上には花や木がいくつも並べられ、人の手がささやかながらこの駅に潤いをもたらしている。もう無用の長物のように残っていても、存在している意味はあるものだなと思いながら、二つと無い個性的なカウンターを見つめた。

[2016年(平成28年) 4月訪問](山口県萩市)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄の二つ星駅舎

玉江駅駅・基本情報まとめ+

鉄道会社・路線名
JR西日本・山陰本線
駅所在地
山口県萩市大字山田字西沖田4757
駅開業日
1925年(大正14年)4月3日 ※開業時は美禰線(今の美祢線)の長門三隅‐萩の延伸開業として。1933年(昭和8年)の山陰本線全通時に、玉江駅など美禰線の一部が山陰本線に編入された。
駅舎竣工年
萩博物館ブログの記事の内に、開業間もない昭和初期の玉江駅の写真があるが、ありふれた感じの木造駅舎だ。どうやら昭和15年(1940年)に改築された二代目駅舎のようだ。
駅営業形態
無人駅
その他
萩循環まぁーるバスの西回りコースに、玉江駅前停留所が設置されている。30分に1本の運行で、萩駅など市中心部各地をまわる。詳しくは萩市の萩循環まぁーるバスのご案内まで。

北口には昭和築のレトロな洋風木造駅舎が残る

小田急・向ヶ丘遊園駅、プラットホームと周囲の都会的な風景
新宿から20分、タワーマンションがそびえ、建物が密集する都会の街並みの中、レトロな駅舎がポツンと佇む。
小田急電鉄・小田原線、マンサード屋根が特徴的な向ヶ丘遊園駅北口駅舎
そんな雑踏の中、向ヶ丘遊園駅北口には、昭和2年(1927年)築のマンサード屋根が特徴の洋風木造駅舎が残る。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園北口の木造駅舎、屋根を支える太い柱
ごっつい柱が大きなマンサード屋根を支えている。
小田急・小田原線、向ヶ丘遊園駅北口駅舎の改札口・窓口
屋根の下は窓口があり、自動改札機を人々が行き交うありふれた街の駅の風景。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅北口駅舎、再現された社章入りの窓
新建材で改修されたが、小田急電鉄の古い社紋があしらわれた窓周りの装飾は再現された。

モノレールが懐かしい南口駅舎

小田急・小田原線、向ヶ丘遊園駅南口駅舎
南口の方は平屋のごく普通の現代の駅舎だ。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅南口、かつてのモノレール駅跡地
南口の駅前にはビルが立ち並ぶ。道路の間の駐輪には向ヶ丘遊園モノレールの駅跡地だ…。

向ヶ丘遊園駅訪問ノート

 2回目の訪問となる小田急電鉄の向ヶ丘遊園駅。2000年代の前半で、ほぼ残存していた向ヶ丘遊園モノレール線の廃線跡を辿り、正門前駅まで雨の中歩いたものだ…。

 北口駅舎は駅開業の1927年(昭和2年)築の木造駅舎だ。マンサード屋根の妻面が正面に向いた大きな屋根と、屋根のドーマー窓が特徴的な洋風木造駅舎だ。小田急電鉄では、新松田駅などいくつかの駅が、同じデザインだったが、現役なのはこの向ヶ丘遊園駅の北口駅舎だけとなってしまった。

 マンサード屋根の駅舎は、かつては北海道の駅舎でよく見られた。

 大きなマンサード屋根はもちろん、2階の窓周りの装飾など古く趣きある造りを残すが、外観が新建材で改修されているのが、なんとも味気無く残念…。しかし、開業当時とがらりと風景が変わり、今では1日6万5千人の利用者がある状況で、小田急が北口駅舎を維持している事は、大いに評価に値するので、こちらも贅沢ばかりは言っていたら罰が当たる。


 向ヶ丘遊園駅は「ナチュラル・レトロモダン」をテーマにリニューアルが進行していて、2019年(平成31年)4月1日、コンクリート平屋の南口駅舎は、北口駅舎のマンサード屋根を載せた装飾が加えられ、跨線橋はレトロなイメージに改装された。

 そして2020年(令和2年)4月1日、北口駅舎の改修が完了し、リニューアルオープンとなった。屋根や柱はは焦げ茶色に変更され、外壁は新建材ではなく、モルタルかもしくはそれっぽい素材になり、全体的にシックな雰囲気に。まるで、開業時の姿を取り戻したかのようだ。

[2016年(平成28年) 2月訪問] (神奈川県川崎市多摩区)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 私鉄の二つ星駅舎

関東大震災後に建てられたコンクリート駅舎

JR相模線・倉見駅、信楽焼のたぬきがいる池庭
跨線橋を渡り改札口前に至ると、手前に金魚の泳ぐ小さな池と狸の置物が…
JR東日本・相模線・倉見駅、大正築のモダニズムコンクリート駅舎
駅舎は関東大震災後の大正15年築に建てられたコンクリート造り。箱型の単純過ぎる形状だがアーチ型の出入口が特徴的。
JR相模線・倉見駅、半円形の出入口が印象的な駅舎
半円の門を通して見る世界は不思議な感じ。無人駅化されたばかりで、券売機の取替え工事中。
JR相模線・倉見駅、駅前の商店街
将来、東海道新幹線の駅ができるかもしれない駅前。こじんまりとしながらも店が建ち並び、人通りもある。
JR相模線・倉見駅、ぼころびはじめた早咲きの桜
2月だが、早咲きの桜はもうほころび始めていた。そういえば12年前の3月に来た時は満開だった…

倉見駅訪問ノート

2004年の3月に訪問して以来、約12年振り2度目の訪問だ。

 駅舎は箱型のコンクリート駅舎というシンプル過ぎる形状にアーチ型の出入口が印象的。半円の窓を通して見る外の世界は不思議な感じで、大げさながら芸術性とはこんなちょとなもので紡がれるものかと思わされた。

 駅舎は1926年(大正15年)相模線の前身・相模鉄道が倉見駅まで延伸開業した時以来のもの。木造駅舎が多数派の日本にあってコンクリー造りなのは、前年の関東大震災で建築物が甚大な被害を被った事から、丈夫な駅舎が建てられたという。二つ北の社家駅も同じ形状だ。

 現在の相模鉄道は、大正当時の相模鉄道の流れを汲んでいるが、相模線もかつては相模鉄道の路線だった。1944年(昭和19年)、相模鉄道線の茅ヶ崎‐橋本間が戦時買収私鉄に指定され国有化され相模線となった。横浜‐海老名間の旧神中鉄道の区間はそのまま相模鉄道に残り、現在の本線となっている。

 ローカル色を帯びる相模線とは言え、首都圏西端を走り、JR東海道本線、小田急線、相鉄線、京王線、JR横浜線と言った主要な路線とも繋がっているためだろう。倉見駅の駅前はローカル線のような雰囲気につつまれながらも、シャッター通り化していないこじんまりとした街並みがあり、列車が発着する度に盛んに乗降客が出入していたのは、やはり首都圏の駅の風情を感じる。

 プラットホーム南側からすぐ見える場所に、東海道新幹線の高架が相模線を跨いでいる。この辺りに新幹線新駅を誘致する活動が町ぐるみで行われてれていた。12年前、この静かな地に新幹線の駅ができるのかと不思議な気持ちで眺め、歴史有る倉見駅駅舎の行く末を心配したものだ…。

 2016年現在、誘致は実現はしていない。しかし、JR東海からリニア中央新幹線開通後に駅の設置を検討してもいいという回答を得たようである。

[2016年(平成28年) 2月訪問](神奈川県高座郡寒川町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄の二つ星駅舎

109年という歴史の終止符

 2016年(平成28年)1月27日、南海電鉄・浜寺公園駅の明治築の洋風木造駅舎が遂に現役引退の時を迎える。この駅舎、1907年(明治40年)、東京駅を設計した事で有名な辰野金吾が片岡安と大阪で設立した「辰野片岡事建築事務所」が手掛けた事で知られている。

明治40年築、南海・浜寺公園駅の洋風木造駅舎(大阪府堺市)

 駅舎は高架の新駅舎の前に移築され、エントランスのように活用される予定だ。限りなく現役に近い存在で、これからも浜寺公園駅の象徴であり続けると想像できる。なので取り壊しの悲壮感は無く、109年の歴史にいったん終止符を打つが、次の時代へ向かうための転換点と言えるだろう。

夜、現役引退の時が迫る駅舎へ急ぐ

 1月27日、仕事が終わると急いで新幹線に乗り、浜寺公園駅を目指した。新幹線、地下鉄御堂筋線、南海本線と乗り継ぎ、現地に到着したのは23時を過ぎ。

南海、夜0時前の浜寺公園駅プラットホーム

 見慣れたプラットホームと洒落た待合室、そして駅舎といつも通りだ。こんな夜遅くという以外…。夜になって来た事はあるが、日付を跨ぐ直前のような時間に来たのは初めてだ。この時間は普通列車しか停まらなく駅は閑散とし、パラパラと地元の人が降りる程度。ひっそりとし一日が終わろうとしているのを実感する。そんな中に混じり、私のようなカメラを手にした人が数名うろついていた。

南海・浜寺公園駅、駅舎切り替え作業の作業員

 そして、駅舎の方を見ると、ヘルメットを被った作業員の姿が何人も動き回っていた。

 駅事務室の扉が開いていて、中には何人もの作業員がいた。この中を見るのは初めてで、少し離れた場所から興味津々に覗くと、物品の移動はかなり済んでいるようで、中はもぬけの殻に近い状態に見えた。自動改札口でも、5~6人の作業員が集まって何かをしていた。まだ営業中だが、仮駅舎への移転作業は既に始まっているようだ。


 作業中の現場を通りぬけ駅の外に出た。

南海浜寺公園駅、明治の洋風駅舎最終営業日、夜空の月

 駅舎のはるか上の漆黒の闇の中、最後の夜に花を添えるように月が輝いていた。最後の最後まで美しい光景を見せてくれる駅よと感嘆し、ただ空を見上げた。

 駅前の広場には、深夜にも関わらず、浜寺公園駅舎の引退を見守ろうという人が何人もいた。ざっと見て20人程度だろうか…

南海電鉄本線・浜寺公園駅、明治の駅舎での最終日

 駅舎右側の手前には、20日前訪れた時には無かった浜寺公園駅舎長年の利用を感謝した看板があった。

地元の人々に見守られながら…

 そして0時を回った。

南海・浜寺公園駅、なんば行き最終列車

 24時17分、なんば行き最終列車が出発。

夜の浜寺公園駅、引退の時迫る明治の駅舎

 最後の時が迫る中、人影は消える事なく、みんな思い思いに駅舎を撮影していた。

南海、明治の洋風駅舎の引退迫る浜寺公園駅に集まる人々

 先程よりなんか人が増えてきているなと思っていたが、いつの間にか倍以上になっていた。50人以上はいただろうか…。私みたいに一眼カメラを抱えた鉄道ファンっぽい人というより、手ぶらの人が多かった。家族だったり、犬連れだったり。友達と連れ立って来ていたり…。ある人は、「あなたなんでこんな時間にこんな所にいるの~!」と、下車してきた友達に驚かれていた人も。たぶん連日の浜寺公園駅舎引退の報道に接し、偉大で…そして身近だったこの駅舎の現役最後の瞬間を見届けようと、地元の人々が自宅から繰り出してきたのだろう。同じラストでも、近年、鉄道ファンで騒々しい列車のラストランと違い、地元の人々にほのぼの見守られながらその瞬間を迎える様は、あたりまえのようにあったこの駅舎が、いかに惜しまれているかをしみじみと感じさせられた。

浜寺公園駅、明治の洋風駅舎が迎える最後列車を見送る人々

 遂に24時27分、下りの最終列車・羽倉崎行きが入線。何人もの人が改札前に集まり、その瞬間を目撃しようとしていた。

 セレモニーっぽいものものは無く、ちょっとざわめいた雰囲気を除くと、いつも通りの光景なのだろう。しかし、古き駅舎が見送る最後の列車が行ってしまうと、109年という長き時に万感を覚え、あぁ…終わっちゃったんだなと寂しさが混じった気持ちを感じずにはいられなかった。

南海浜寺公園駅、最終列車が出て駅移設作業をする作業員

 終電が出るとすぐに作業員の方々が集結し、仮駅舎への移転作業が次の段階へ。早朝の始発に間に合わせなけらばいけないから大変だ。自動改札機は取り外され、ひとつひとつ仮駅舎へと運ばれていった。改札口の上では、何かを取り外そうとしていて、ドリルがけたたましい音を響かせ火花を散らせていた。

浜寺公園駅、明治の洋風駅舎引退直後に封鎖される駅

 「旧」となった明治の木造駅舎は、柵が置かれ遂に封鎖されてしまった。しばらくのお別れだ。


 深夜1時過ぎ、駅前を賑わしてた人々はいなくなり、駅移転で忙しく動き回る作業員の人だけが残った。その様子をしばらく眺め、今宵の宿となる阪和線の鳳駅近くのネットカフェに向け、不案内な真夜中の街をとぼとぼと歩き続けた。

翌日

 翌日の昼前、再び浜寺公園駅に歩いて戻ってきた。昨晩の余韻が残る中、よく寝付けなかった体に晴れた日差しは頭がクラクラする。

南海浜寺公園駅、旧駅舎使用停止された翌日の風景

 変わったのはあの駅舎が使われなくなっただけで、浜寺公園駅自体は今日も動いている。

南海電鉄浜寺公園駅、地下通路

 地下通路を通り旧駅舎がある西口へ向かった。

南海本線、供用開始された浜寺公園駅仮駅舎と旧駅舎

 仮駅舎も使用開始となっていた。「仮」とは言え、ブレハブ造りの簡易なものでなく、線路に隔てられた東西の地下通路の出入口も兼ねたしっかりした造り。トイレもあり、今どきの駅らしくバリアフリーにも配慮されエレベーターまで設置されていた。

 あまり面白味無く無機質だが、旧駅舎時代にあった丸ポストが移設されていたのは嬉しかった。

 旧駅舎は昨晩に比べ、しっかりとした工事用の壁が設置されていた。とは言え、頭より少し高い位の壁で、相変わらず佇む壮麗な洋風駅舎はなおもその輝きを失っていなかった。

 旧駅舎引退の報で、足を止め旧駅舎を眺めていたり、撮影したりしている人が今日も多かった。

閉鎖された浜寺公園駅旧駅舎を見る犬の散歩中の人とわんこ

 犬の散歩中の人も足を止め閉鎖された旧駅舎に見入っていた。その間、ワンちゃんはちょっと退屈そう…

[2016年(平成28年)1月訪問](大阪府堺市西区)

レトロ駅舎カテゴリー: 私鉄の保存・残存・復元駅舎

追記: 旧駅舎曳家後、活用開始

 2017年末、浜寺公園駅旧駅舎を、解体しないでそのままの姿で移動させる「曳家」で数十メートル西に移動させた。

 そして2018年4月15日、暫定位置での浜寺公園駅旧駅舎の活用が始まった。中央の改札口付近はイベントホール、駅舎右手側の旧一等待合室は今まで通りギャラリーとして、左手側の旧駅事務室跡はカフェとなった。

 曳家の様子と活用開始後の浜寺公園駅は下記へどうぞ。

曳家後の浜寺公園駅旧駅舎、カフェにギャラリーに工事中でも活用中
 

日本を代表する名駅舎の今後

 2016年年明け、南海本線の浜寺公園駅を訪れた。浜寺公園駅の駅舎は明治40年(1907年)に建てられた洋風木造駅舎が現役で残っている事で知られている。しかしその駅舎も、南海本線の高架化により2016年1月27日を最後に役目を終える。

 東京駅丸の内駅舎を設計した事で広く知られる辰野金吾が関わったレトロな洋風駅舎は、間違いなく日本を代表する現存古駅舎の1つ。そのため、現駅舎のあり方が論議され続けたが、保存される事が決まった。

 コンペにより新しい浜寺公園駅の全体像も定まり、今後、最優秀賞のプランを元に整備されていくとの事。
(※関連ページ: 堺市ウェブサイト、堺市、浜寺公園駅・諏訪ノ森駅 駅舎及び駅前交通広場等計画提案競技について浜寺公園駅最優秀賞(PDF) より ) 


 最優秀賞の作品は、歴史ある現駅舎へのオマージュがふんだんに盛り込まれ、現在の姿を知る私には、真新しい駅の中にも、どこか懐かしさを感じるものになりそう。そして何より、現駅舎は新駅舎の正面に移築され門のように利用されるとの事で、限りなく現役駅舎に近い存在でありつづけると言えるだろう。なので引退と言っても、取り壊される時のような悲壮感は薄い。

 しかし、それ以外の多くのものは失われゆく運命にある。それらは地味ながら、どれも駅舎と共に浜寺公園駅を構成し続けた一員で味わい深く印象的な、いわば名脇役。失われゆくのは何と惜しい事か…

高架化へ向けた工事が進む浜寺公園駅

 今回の浜寺公園駅訪問は、阪堺電車で浜寺駅前から入った。両駅は目の鼻の先にあり、浜寺駅前から一歩出ると、浜寺公園駅は目の前だ。

阪堺電気軌道の浜寺駅前が目の前の南海電鉄・浜寺公園駅

 初めて浜寺公園駅を訪れた2003年は、片側1車線ずつの狭い道の両側に、飲食店などお店が並ぶ昔ながらの駅前通といった風情だったが、訪れる度に風景は目まぐるしく変わってった。現在では1店の飲食店を除き、全て撤退と取壊しが完了し、道路は拡張された。

南海電鉄、現役引退を目前に控えた浜寺公園駅舎(2016年1月)

 そして3年振りに、壮麗な洋風駅舎に対面した。駅舎の周囲にも工事用のフェンスが迫る光景を見て、遂に「その時」が近づいている事を実感させられた。写真左手のちょっと写り込んだ建物は建築中の仮駅舎だ。現駅舎よりおそらく面積が広く、フェンスの間から中を覗くと、エレベータの入口も見え、仮駅舎とは言えなかなかの規模のようだ。

南海電鉄・本線、浜寺公園駅、駅舎正面にある碑

 駅舎車寄せの左横には、浜寺公園駅を説明した碑があった。この碑、かつてはここよりもう少し前の松の木の植え込みの横にあったものだ。しかし松の木々は工事に関連し撤去され、碑だけがこの場所に移動された。あの松の木は諏訪ノ森駅のステンドグラスにも描かれた、この近辺一帯の海岸風景の名残だ、まさにこの駅に相応しい植込みだった。

 しかし横の小さな看板に、「ここにあった松は浜寺公園内に仮移植された。」と書かれていました。「仮」というのがとても気になる。高架化完了後、この駅に戻す含みを持たせていると期待していいのだろうか…

歴史感じさせる愛すべき名脇役たち…

南海電鉄本線・浜寺公園駅、改札口を通ると正面に枯池のある庭園が…

 改札口を通ると、上下線のレール間にある庭園風の空間が私の目に飛び込んでいた。2005年に再訪した時、この場所に枯れた池があるのに気付いた。3連の池で、更に1・2番ホーム端にも仏塔のようなオブジェが添えられた枯池まであった。例え池は枯れて久しくても、こんなに目を引かれる存在だと改めて気付いた。レールの間に空いたスペースがあって、何となく作ったのではなく、改札口を通る人の目を捉える事まで計算していたのかもしれない。

南海電鉄・浜寺公園駅、古レールを使った柱がある3番線

 駅舎に面したプラットホームがなんば方面行きの列車が発着する3番線だ。浜寺公園駅はほぼ普通列車しか停まらないが、大阪都市圏の路線だけあってホームは長い。ホームを和歌山の方に歩くと、木の壁と古レールが支える上屋が続く。古い木の壁がずっと続く光景は、駅舎同様に駅の歴史を感じさせる。木の壁には扉がある箇所もあり、その裏には古色蒼然とした木造の倉庫が設置されている。

南海電鉄・浜寺公園駅3番ホーム端、柿など木が植えられている

 歩き続けると、上屋は途切れ頭上には青空が広がった。ホーム沿いは木の壁に代わって木々が植えられていた。乗降客は上屋のある範囲内に集中し、昼下がり、このあたりまでやって来る人はほとんどいない。

 木々の中には、柿の木も混じっていた。秋が過ぎた冬を迎えた今、残った実は萎み艶やかさを失くしていた。

南海電鉄・浜寺公園駅、駅舎に付随する屋外の改札口

 駅舎横の降車用改札口は大きな屋根に覆われていた。半世紀以上も前、浜寺公園が海水浴場のあるリゾート地とした賑わった頃を偲ばせる。件のコンペの最優秀作品を見ると、駅舎=駅本屋は保存されても、残念ながらその隣にあるこの改札口は保存されないようだ。

浜寺公園駅、屋外改札口跡にある木のラッチ

 この屋外の改札口には、木のラッチもいまだ残っていた。初めて見た2003年は4列の改札口が並び壮観ですらあったが、工事を控え一部が切り取られていた。

南海電鉄本線・浜寺公園駅、歴史感じる石積みのプラットホーム

 プラットホームには石積みの古いままの造りがよく残っていた。嵩上げされたホームの土台のように残る石積みは、すっかり赤茶けている。この下りホームの1・2番線も、上りホームと同様に古レールが上屋を支える。高架化工事となるとプラットホームはさすがに崩さざるを得ない。しかし、この石積みや古レールを、駅の歴史を伝えるものとして新駅で展示する構想があるようだ。実現すれば何と素晴らしい事か!

南海電鉄・浜寺公園駅、1・2番ホームにあるレトロな待合室

 和歌山方面行きの1・2番線にある木造の待合室は、駅舎のデザインを採り入れた味わいあるユニークなもの。こちらも新駅舎で活用できないものだろうか…

南海電鉄・浜寺公園駅、変わった配線のプラットホーム

 浜寺公園駅は変った構内配線も特徴的。明治のあの駅舎が面した3番線の北側に、ローカル線でよく見るような切り欠きのホームが設けられいて、4番線となっている。こういう形状の場合、たいてい切り欠きホームは行き止まりとなっているが、ここでは3番線を通った上り線レールが分岐して4番線に入り、また上り線に合流する配線となっている。この4番線は通過列車を待つための退避用のホームとして利用されている。こういう場合、1面2線の島式ホームを作るか、上り線をホームの無い通過専用線にして、停車・退避用のホームを作る場合が多い。4番線も古い石積みのホームなので、元々は行き止まりホームだったのだろう。しかし列車本数が多い南海本線で待避線を作りたく、この切り欠きホームを活用したのだろう。

 以前は昼間も使われていて、4番線から列車に乗った記憶もあるのだが、この日は「この時間ここから発車する列車は無い」という注意書きが吊るされたロープが張られ、ひっそりとしていた。

隠れた名駅舎?がある東口

南海・浜寺公園駅、昔の私鉄小駅らしい東口駅舎

 浜寺公園に近い西側に対して、反対の東側は住宅街に面し、券売機や改札口と言った必要最低限の設備しかない小さなコンクリート駅舎があるのみ。西側の壮麗で風格ある駅舎に対し、まるでローカル私鉄の小駅のようで、そのギャップが面白い。

 しかし折れた屋根が大きくせり出したユニークなデザインで、壁にはレトロなフォントで駅名が標され、昭和レトロなモダンさを醸し出す。こちらもなかなか味わいのある駅舎だ。

 この東側駅舎は取り壊されるのだろう。しかし、新駅舎の壁に描かれ、その姿を新駅にも留めるらしい。

南海電鉄・浜寺公園駅東口駅舎の隣にある地元住民用の傘用ロッカー

 東側駅舎の横に、謎のロッカーコーナーがある。コインロッカーの趣きだが、靴箱程度の扉で、奥がやたらと深い奇妙な形状だ。

 よく見ると、どうやらこのロッカー、地元の自治会が住民の置き傘のために設置したようだ。何ともローカル線らしい不思議な風情だ。


 2016年になり1月27日の浜寺公園駅舎の現役引退…、というより一区切りまで遂にカウントダウンに入った。これらひっそりと消え去る名脇役たちにも憐憫と愛着をもって思いを馳せたい。

 時間が取れれれば、最終日となる1月27日も訪れるつもりだ。

[2016年(平成28年)1月訪問](大阪府堺市西区)

 そして1月27日、浜寺公園駅舎引退の瞬間を見届けた。その時の様子は以下へどうぞ!
南海電鉄・浜寺公園駅~明治の洋風木造駅舎、現役最終日の夜~
 

昭和2年の開業時からの木造駅舎残る駅

 20年振りに、岐阜県の長良川鉄道を訪れ、昼頃、大矢駅で降りてみた。国鉄越美南線時代は美濃下川と名乗り、1986年(昭和61年)12月11日の第三セクター転換時に現在の駅名に変更された。

長良川鉄道・大矢駅、国鉄小駅らしさ残る旅客と側線跡ホーム

 小高い山に囲まれた中、2面2線の相対式プラットホームがあり、さらに駅舎北側に行き止まりの側線ホームがある。国鉄のローカル線小駅の標準的な構内配線だ。こういう配線の痕跡を残している駅は多いが、側線ホームは残っていても、レールは剥がされホームが崩れるなど、廃れきっている場合がほとんどだ。しかし、この大矢駅の場合、側線ホームの側面はコンクリートの板で補強され、錆び付きながらもレールが残る。転換後も使われていたのだろう。

 駅舎の待合室を見ると、男性が座っているのが目に入った。今、上り列車が行ったばっかりなので、迎えを待っているのだろうか…。まあ、他の所から見ていこう。

長良川鉄道・大矢駅、素朴で味わいある木造駅舎が残る

 駅舎の正面にまわってみた。駅開業の1927年(昭和2年)以来の木造駅舎は、古色蒼然とし昔ながらの造りを良くした佇まいは非常に味わい深い。小奇麗に改修された駅舎には無い風格を宿す。サッシ窓に取り替えられているが、それをちっぽけな問題にしてしまっている。左右に植えられた植栽は、ローカル線の駅らしいゆとりある光景で、古き駅に趣きを添える。

長良川鉄道・大矢駅、木の質感溢れる木造駅舎

 近づいてみると、磨り減らされ使い込まれた木の質感がまさに眼前に迫り来る。これぞ木造駅舎と声に出して賞賛せずにはいられない。

 事前にネット上で長良川鉄道の駅舎をざっと見て、いちばん気になっていたのがこの大矢駅だった。しかし、実際に降り立ってみると、期待以上の素晴らしさだ。

長良川鉄道・大矢駅の木造駅舎、修理され使われる木の柱

 しかし、車寄せを支える木の柱を見てみると、補修の跡が傷跡のように生々しく残っていた。痛んだ一部が新しい木材に取り替えられ、古い部分と新しく取り替えられた部分は鉄の板で接合されている。古き良き味わいをその身にまとう事と、廃れゆく事は紙一重…

長良川鉄道・大矢駅、余裕ある駅構内スペース

 駅舎左手には、更に駅の敷地が広がっていた。先程見た側線ホームがある辺りだ。現代のローカル線の無人駅は、ホームに待合室という最少の設備がコンパクトにまとめられた駅が多いが、昔の駅には貨物などを扱うこんな広い空間が、ほとんどの駅にもあったのだ。

 しかし見渡すと、隅に駐車されている白い軽トラックが、唯一使われていそうなものだ。あとは廃棄された電柱が山積みになっていたり、標識が無造作に置かれていたりと、廃材置き場と化していた。

長良川鉄道・大矢駅、駅構内の詰所など建物

 その敷地の奥に進むと、隅に3棟の小屋が並んで建っているのが見え、更にレールを隔てた反対側にも木造の小屋があるのが見えた。3棟並んだ建物のいちばん奥のものは、かなり古そうな木造の建物だが、他の2つはプレハブで木造のものよりは新しそうだ。

 でも建物をつぶさに見ていくと、どれも荒れていて、今では打ち棄てられているのが解る。たぶん、この敷地は第3セクター鉄道に転換された後しばらくは、保線基地として使われていたのだろう。

長良川鉄道・大矢駅、駅前のこじんまりとした街並み

 駅前からの道を出ると一本の道と交差した。車がやっと擦れ違える程度の細い道で、かつては商店なんかもあったようだが今では閉店となってしまっている。すぐ西側を流れる長良川の対岸に国道が通っていて、車のほとんどはそちらを走るのだろう。駅周辺はひっそりとしていた。

長良川鉄道・大矢駅、木造駅舎と駅前の桜の木

 駅舎に振り返ると、少し坂を上がった所に、木造駅舎があるのが見えた。道の両脇には、桜の老木がアーチを造るように枝を伸ばしている。ああ…、春に来てみたいものだ。

 待合室を見てみると、列車の発着が無いにもかかわらず待合室にいたあの男性が、いつの間にかいなくなっていた。そう言えば、白い軽トラックも無くなっていた。迎えを待っていたのではなく、静かな休憩場所を求めて、この大矢駅に来ていたのだろう。

 待合室のやや広めだ。そして内部は、木造駅舎らしい造りを留めながらもきれいに改修されていて、廃れた雰囲気は無い。休憩に来たくもなるだろう。

 窓口まわりは大きく改修されていた。右側に改修された出札口跡が残るのみだ。

 左側の窓口跡を見ると、サッシ窓越しにダンボールが置かれているのが目に入った。以前は何かの会社が入居していたのだろうか…?長良川鉄道は無人駅の駅舎を賃借しているケースも見られるが、この駅にもそんな気配が残っている。同社のウェブサイトを見ると、大矢駅の旧駅事務室も貸し出し中の旨が告知されていた。どなたか、いかがだろうか?

長良川鉄道・大矢駅の木造駅舎、待合室の造り付け木製ベンチ

 何かと改修されている待合室だが、造り付けの木製ベンチは見事に昔のままの造りを留めていた。磨り減り皺のように浮かび上がった木目が、この駅の年月を私に静かに語りかける。

岐阜県郡上市、長良川鉄道・大矢駅の円空仏の複製品

 プラットホームには、三体の円空仏が置かれ「円空のふるさと美並」という看板が添えられていた。今は郡上市の一部となっている旧美並村は、円空の出生地と推定されているという。

 仏像はさすがにレプリカなのだろうが、木をざっくりと削っただけの素朴さは親しみやすく、独特の魅力を感じるものだ。

長良川鉄道。大矢駅に入線するレールバス

 円空仏は優しい顔で駅という空間に佇んでいる。きっとこの古き木造駅舎と行き来する列車を見守ってくれているのだろう。

[2015年(平成27年) 11月訪問](岐阜県郡上市美並町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 旧国鉄の三つ星駅舎

定山渓鉄道、唯一の残存駅舎

 かつて札幌市内に定山渓鉄道という私鉄の鉄道路線があった。しかし私が北海道を旅するようになった頃、既に廃線となっていて、鉄道に興味を持ち色々な本に触れている内に、それとなく知ったという程度だった。

 定山渓鉄道の東札幌駅‐定山渓間が廃止されたのは1969年(昭和44年)の11月1日だ。しかし、廃線から半世紀近く経とうとしているが、石切山駅の駅舎は驚くべき事に現存しているという。石山振興会館として集会所みたいに使われて、また石山商店街振興組合の事務所になっているという。嬉しい事に管理人の許可を得れば内部も見学が可能との事。これは是非見てみたいものだ。

廃線後も佇む木造駅舎

 札幌市営地下鉄南北線の終点、真駒内駅からじょうてつバスの12番の路線に乗った。「じょうてつ」はその名の通り、かつて定山渓鉄道線を運行していた会社で、鉄道路線廃線後も、社名にその痕跡を留めている。人口200万に迫る日本有数の都市に成長した札幌市内だけあって、夕方前のバスは立客もでる程賑わっていた。

 最初こそは街中を走っていたが、いつの間にか山深い景色に変貌していた。周囲の地形も起伏があり、まるでローカル線の車窓風景を見ているのと変らない気分だ。ローカル線なら畑や空家、そして崩れかけた廃墟も目に付くところだ。しかし山の中の風景とは言え、見える建物は寂れた感じがしなく、どれも使われている雰囲気を感じた。中心街から離れているとは言え、さすがは札幌市内だけの事はある。

 そして10分程で開けた街の中に入り、石山中央停留所に着き下車した。道路沿いに先に進むと、交差点で石造りの建物が建っているのに驚かされた。2階建ての小さな建物なれど、歴史感じさせる重厚な雰囲気に圧倒された。

 そして、交差点の先には、商店などが立ち並ぶありふれた街並みの中、一目で駅舎だったとわかる平屋の建物が立っていた。これこそが定山渓鉄道・石切山駅の駅舎だ。

定山渓鉄道・旧石切山駅。廃線後、駅舎は石山振興会館に

 おお!!ついに定山渓鉄道の生き証人である木造駅舎が私の目の前に現われたと感激の面持ちで眺めた。

 石切山駅の開業は1917年(大正7年)10月17日と、定山渓鉄道開業当初から存在する駅で、当時は現在よりやや東に位置していたという。大正後期にルートが変更され、それに伴い駅も現在の位置に移転し、戦後の1949年(昭和24年)に今に残る木造駅舎が建てられた。

 平屋でこれと言って奇抜な形状は無い、ありふれた感じの木造駅舎の面影をよく残している。戦後の駅舎とは言え、築60年を過ぎている。しかしその割にとてもきれいで、白く塗られた壁に、赤い屋根が映える。駅舎らしさを残しつつ、大切に使われいるのが嬉しい。

定山渓鉄道・石切山駅跡ホーム側、廃線跡は道路に転用

 駅舎の裏手…、かつてはプラットホームが設置され何線ものレールが側に回ってみた。さすが長い年月が流れ、廃線跡は道路に転用されていた。駅舎が佇む以外、鉄路の痕跡は全く無い。まっすぐ伸びる道路を見つめ、ここに列車が行き来していたんだなあと、昔を思うしかなかった。

定山渓鉄道・石切山駅の旧駅舎、屋根の石造りの煙突。

 駅舎をホーム側から眺めると、赤い屋根から石造りの古そうな煙突が突き出ているのが目に入った。すっかり黒ずんでいるのが、長年、使われてきた証だろう。

 外観を一通りざっと見ると、中を見せてもらおうと正面にまわった。まず寒冷地独特の風除室みたいな小部屋が付属している。その中に入ると玄関があり、右横に事務所らしき部屋があった。だが、その部屋は薄暗く誰もいなかった。そして、真っ直ぐ進むとかつては待合室だった所だ。床はフローリング敷きになるなど、きれいに改装されていて、照明で明るく照らされている。

 室内には40代位の女性二人と小学生の子供数人がいた。とりあえず見学許可をもらおうと、その女性に話しかけた。すると、この方はここを今借りているだけであって、管理人は別に居るので、自分が見学の許可を出す事はできないと言った。そして管理人のおじさんはさっきまでは居たけど、どこかに出掛けてしまったとの事。何と運の悪い事か!!多分、また帰ってくるけど、よろしければ電話で呼び戻しましょうかと言ってくれたが、そこまで面倒な事をしてもらわなくてもと思い、帰ってくるのを気長に待つ事にした。まあ運悪く戻ってこなくても、また来る事ができるだろう。

石山振興会館、旧石切山駅のパンフレット。

壁に旧石切山駅のパンフレットがあるのが目に入った。これが手に入り、駅舎の外観を拝んだだけでもまあ良しとしようと気を取り直し、手に取った。

 パンフレットを見ると、現役時の駅舎の姿など、懐かしい写真が掲載されていた。管理人さんが戻ってくるのを待つ間、パンフレットを片手に、再び駅舎の外観を眺めてようと思った。

 古い写真を見ると、先ほどの駅舎正面右側の風除室のような部分は、現役時は無かったようだ。写真の中には、一般的な木造駅舎のように 軒が正面から右側側面に掛けて巡らされている姿が残されている。どうやら風除室は廃線後の増築のようだ。

定山渓鉄道・石切山旧駅舎、下部は札幌軟石で造られている。

 石切山駅は、かつてこの近辺で採取した札幌軟石の積み出しでとても賑わったという。札幌軟石は街が発展していく中、札幌などの建物に多用されたという。この石切山駅の木造駅舎の腰壁部分も、札幌軟石で形作られている。駅舎の木の板は新築のようなきれいな白色だが、石造りの下部は歴史が染込んだかのように黒ずんでいる。

定山渓鉄道・石切山駅、駅舎壁面に残る採光窓の跡。

 外壁の上部を見ると、壁に木枠で形作られた横長の構造物が所々にあり、気になっていた。往時の写真を改めて見ると、この部分には窓だった。明り取りの窓で、下の普通の窓もあり、意外と開放的な雰囲気で、室内は明るかったのだろう。しかし改修で埋められてしまったようだ。

札幌市南区石山・石切山駅近く、石造りの旧石山郵便局

 バスで下りた時、交差点の角にある石造りの洋館に驚かされたが、この地が札幌軟石の里である事を考えると、こんな建物があるのも頷ける。昔は道沿いに石造りの建物がズラリと並んでいたのかもしれない。

 建物正面上部には郵便マーク(〒)が入った紋章が掲げられているのが目を引く。かつての石山郵便局との事だが、今では他の目的で使われているらしい。

 この周辺を歩くと、旧石山郵便局以外にも、石造りの建物があったり、石壁があったりと、現代の街並みの中で、あちこちで石の構造物があるのが目に入った。そして、近くの山は、山肌が一部削れ土面が露わなままだ。時代が流れても、軟石で賑わった当時の面影を留めているのが味わい深さを感じさせる街だ。

 程なくして、駅舎の中に初老の男性が入っていくのに気付いた。あの方が管理人かと思い、追いかけるように私も中に入った。聞いて見ると、やはりこの方が管理人との事。そして、有り難く入室の許可をいただいた。

気になる駅舎内部を見学

旧石切山駅、石山振興会館の内部

 駅舎の中に入った。先程の女性が中にいたので、目が合うと一礼した。たぶん、先程の経緯もあり、許可を得たと察してくれたのだろう。他に室内には、もう一人の女性と子供が3人居た。子供たちはホワイドボードに向かって席についている。何か勉強で使っているようだ。

 中は駅事務室と待合室の壁がほぼ取り払われ、一室となっている。ざっと見て、50平方メートル以上はあるだろうか・・・?広くは無いが、会合やちょっとしたイベントなどに使える多目的スペースと言った所だ。

 床は間新たしそうなフローリングで壁面の建材は白く、きれいに改修され、駅舎の年月を感じさせない。古い建物を実情にあわせて使っていくためには必要な措置だろう。

 しかし、天井は木の造りのままだ。廃線後、この天井は覆い塞がれるるように改修され、隠れてしまっていたが、近年の改修で、元の天井を取り戻したという。天井の隅に三角形の持ち送りのようなものがあるのが目を引く。そして蛍光灯がいくつも吊るされる中、天井に丸い照明がポツンと設置されている。元々の待合室の照明だったのだろうか…?

現・石山振興会館、石切山駅の面影残した煙突跡

 待合室と駅事務室の壁は取り払われているが、僅かにその痕跡らしきものが残っている。恐らくかつては室内の半分よりやや広い程度が待合室で、残りの左側が駅事務室などがあり、境目に窓口があったのだろう。

 その境目の真ん中あたりに四角く太い柱のようなものが打ち込まれたままだ。いや、しかしよく見ると、これは煙突だ。側面にはパイプを通していた跡も残る。待合室側、駅事務室側両方のストーブの配管が繋がれ、煙を排出していたのだろう。

石山振興会館、旧石切山駅の懐かしい写真を残した冊子。

 片隅の棚には石切山駅についての冊子もあり、かつての石切山駅駅舎の姿やプラットホームの写真など、現役時の貴重な写真や歴史が綴られていた。じっくりと読みたい所だが、背後からは女性が子供達に向かって「テストをします…」と話しているのが聞こえてきた。静かに見ているつもりだが、あまりウロチョロするのも気を散らして邪魔になる。そろそろ立ち去り時だ。

旧石切山駅、現・石山振興会館、軒下増築部分の室内

 最後に事務所の中にいる管理人のおじさんに声を掛けた。細長く狭い事務所の中は、掲示物が賑やかで、パソコンが置かれたデスクもある。そんな中、壁の低い部分には、石造りの姿を垣間見せている。今でこそ、この部分は事務所に改修されたが、かつてここは露出した屋外で、軒下だったのだ。

定山渓鉄道・旧石切山駅、駅舎ホーム側

 内部の見学を終え、名残り惜しさにもう一度駅舎を見まわった。駅舎ホーム側にも、細長い部屋か倉庫のようなものが増築されているのが目に付く。そして採光窓の痕跡がこちら側にも残っている。

札幌市南区、定山渓鉄道旧石切山駅構内、廃線跡?の公園

 かつてのプラットホームや構内の周辺を見てみた。廃線跡の北側は公園になっている。そして更に奥を見てみると、山深い起伏のある地形で人家は見当たらなかった。現代的な街のすぐ背後が、こんなに緑豊かで山深いのだと驚かされた。おそらく、この風景だけが、定山渓鉄道が運行されていた当時とほどんど変っていないのだろう…。

札幌市南区石山、旧石切山駅とじょうてつバス石山中央停留所。

 帰りの石山中央のバス停は駅舎の真正面にあった。時刻表を見てみると、真駒内駅行きの他に、札幌駅に直通するバスもあるようだ。折角なので違うルートをと思い後者を選んだ。

 札幌行きのバスに乗り込み動き出すと、最後にと石切山駅駅舎の方に振り返った。すると温かな木造駅舎の中では、まだ小学生たちが一生懸命、机に向かっている様子が目に入った。

[2015年9月訪問](札幌市南区)

レトロ駅舎カテゴリー:
私鉄の保存・残存・復元駅舎

旧石切山駅・基本情報+

鉄道会社・路線名
定山渓鉄道・定山渓鉄道線
駅所在地
札幌市南区石山1条3丁目1-30
駅開業日
1917年(大正7年)10月17日
駅舎竣工年
1949年(昭和24年) 。元々、今よりやや東側にあったが、線路切り替えにより、この時現在地に移転。
駅廃止日
1969年(昭和44年)11月1日
現状
石山振興会館に。管理人の許可を得れば内部の見学が可
アクセス方法
旧石切山駅の最寄バス停は、じょうてつバスの石山中央。停車する路線は主に以下の二つ。
  • 地下鉄南北線・真駒内駅から12番で約10分。日中は1時間に4本以上。
  • 札幌駅から、すすきのなどを経由する快速8番。札幌駅から約40分。日中、1時間に2本。
  • 時刻表など詳しくは(株)じょうてつ・バス情報のページからどうぞ。
イベント
冬季には「石山スノーファンタジー」のイベントとして、駅舎がイルミネーションで飾られる。

.last-updated on 2023/01/31