かつての八百津線分岐駅もすっかり小さく…

 存廃問題が騒がしくなってきた広見線末端区間にある明智駅で下車した。この駅から分岐していた八百津線が2001年に廃止されて以来、約24年振りの訪問で、ここから終点の御嵩駅に至っては初の乗車だった。

名鉄広見線・明智駅に到着した6000系電車

 ホームにはビニール張りの上屋で覆われていた。ちょっと安っぽいなと思うが、無いよりはだいぶいい。こちらの方がコスト的に安上がりなのだろう。

 同じ面の隣の八百津線用の1番線跡にはスロープが設置されバリアフリー化されていた。ただ鉄パイプで組まれたもので、工事現場のような仮設感漂う造りだった。

名鉄広見線、交換設備撤去、反対ホームが廃止された明智駅

 列車が離れ風景が開けると、目の前に反対ホームあった。石積みの歴史感じるホームにはがっちりとした上屋があり、ベンチのある待合所も健在。だけど2年前に廃止され、レールはほとんど剥がされ、構内通路は無くなっていた。交換設備は撤去されたため、新可児駅-御嵩駅間の7.4㎞は行き違いできる駅が無くなり、同区間は基本的には2両編成の6000系電車が行ったり来たりするだけの運用になっている。

明智駅東側の構内跡、左側は八百津線用の1番線

 駅の東の方を見ると広い構内跡が残っていた。少し先には貨物か何か業務用ホームとおぼしき構造物も残っていた。

 明智駅は元々、2面4線という分岐駅らしい構内配線を持っていた。駅舎側から八百津線用だった1番線と2番線。反対側に廃止された3番線と、3番線に面して側線跡もあった。現在、生き残っているのは僅か2番線だけ。ずいぶん小さくなってしまったもの…。棒線化されてしまったため、その2番線も、現在では番号は振られなくなった。

名鉄広見線・明智駅駅舎を後ろから見る。

 スロープを下りつつ、駅舎を眺めた。窓にはサッシの柵が取り付けられているものの、木造駅舎らしい趣き。いい風情だ。


 正面から撮影しようと外に出たが…、駅舎左手前に被るように車が1台止められていた。あれれ…、駅巡りではよくある事だけど。そのうち立ち去るかもしれないと 駅舎の観察をはじめた。

名鉄・明智駅、木の質感豊かな木造駅舎

 外壁は驚く程、古い木の質感が豊か。これは何と!名鉄にまだこんなに木造駅舎らしさ溢れる木造駅舎があったとは。

 軒を持つが、柱ではなく駅舎から斜めに取り付けられた軒支えが支える。

名鉄広見線明智駅、列車で運ばれる新聞を取りに来た新聞屋のカブ

 撮影していると、駅舎の横に1台のホンダの業務用バイクのスーパーカブが停められた。時間は午後3時。
「これは、もしや…」
と思った。

 名鉄では日曜祝日以外の午後、名鉄名古屋駅から一般の列車に夕刊を積み込んで各駅に発送している。名鉄名古屋駅で新聞の積み込み作業にに出くわした事があるが結構大々的。あの狭く混雑する駅の真ん中の島式ホームで、乗降客と新聞が入り乱れているかの如くだ。そして目的の駅に着いた新聞は、待機する新聞屋さんが自分で下し受け取っていく。

 もうそろそろそんな時間かと思い観察していると、もう一台、スーパーカブがやってきた。更に駅舎の真正面に軽のワンボックスがデンと停められた。これも新聞屋さんぽい。

 3時24分、御嵩行きの列車が到着すると、ホームで待機していた男性数人が、ドア横に積まれた新聞を取り出していた。チラッと見ると量は少なく、一家庭の一ヶ月分位の量を束ねた程度だった。

 そしてワンボックスの軽の荷台で仕分けっぽい事をしていると思ったら、各々新聞を持ち直ぐに駅から立ち去って行った。

名鉄広見線・明智駅舎に取り付けられた列車接近警告ランプ?

 駅舎ホーム側、駅事務室の扉の上に、「下り」「上り」「八百」と標された3つ一組のランプがあるのを発見した。これは列車がどの番線に接近しているかを示す警告のランプで、「八百」は八百津線を表している。小さく乗客の目に付きにくい位置にあるので、おそらく駅員さんの業務用だったのだろう。

 よく見ると、「八百」の所だけ電球が無い。2001年に八百津線が廃止された時に外されたのだろう。

半切妻の入母屋造の味わい深い駅舎

 周辺をうろうろしていると、いつしかあの車はいなくなっていた。

 風景が開け、駅舎前景をすっきり見る事がができた。

 入母屋造りという屋根の形状の駅舎はあるが、妻面が半切妻(はかま腰)になっているのは珍しいのでは…?そして木の質感豊かで木造駅舎らしさ溢れ趣深い。屋根の赤色は名鉄のコーポレートカラーだ。ちょっと色褪せてはいるけど…。

 駅の開業は1920年(大正9年)8月21日。当時は東農鉄道による経営だった。この駅舎が何年に建てられたが不明だが、開業当初からのものだろうか…?

 駅名は元々は伏見口で、長い間、その名を名乗っていた。しかし明智光秀の出身地説がある事から、可児市の働き掛けにより、1982年(昭和57年)4月1日に明智駅へと改称された。

名鉄広見線・明智駅舎、無人駅となり塞がれた窓口跡

 広見線の主要駅と言えるが、2008年(平成20年)6月29日より無人駅となり、窓口跡はシャッターで固く閉ざされていた。

 待合室は旧国鉄の駅舎に比べて狭く、壁際に造り付けのベンチが僅かばかり設置されている程度。正面にも改札口側にも扉は無く、その痕跡も残ってなかった。駅舎こそあるが、元々、開け放たれた東屋のような感じだ。尾西線の苅安賀駅もこんな造りだったなぁ…

名鉄広見線・明智駅舎、待合室のレトロな木製ベンチ

 造り付けの木造ベンチは、ペンキ越しに使い込まれた質感が伝わりレトロさ感じさせる。脚が土台から外れそうなのが気になる…

名鉄広見線・明智駅舎待合室、改札口横の木製の極小ベンチ

 改札口ラッチ横の僅かな空間にも同じ古さの木のベンチがあった。僅か1.5人分の長さが可愛いが、ラッチのせいで一人しか座れない。いや、有人駅時代は乗降客の邪魔になりそう。

名鉄広見線・明智駅、木造駅舎らしさ溢れる待合室の天井。

 こんな素晴らしい木製ベンチがあるのだからと座って一休み。ふと上を見上げると、天井は木の板張りのまま。これもまた何と味わい深い事が。

名鉄広見線・明智駅、駅前ロータリーに八百津線代替バスが停車

 24年前は駅舎に関心は無く、この駅舎の記憶も無い。ただ建物に囲まれた狭い駅前のこの感じは何となく印象に残っている。

 駅前には小さなバスロータリーがあり、八百津線代替バスなどが乗り入れいている

名鉄広見線・明智駅、半切妻の入母屋屋根が特徴的な木造駅舎

 少し離れ駅舎を眺めてみた。やはり半切妻の入母屋造は個性的で印象深い。使い古された木造の入母屋造の建物は、まるで日本の古民家を見ているかのよう。

 しかしドイツ屋根とも言われる半切妻の駅舎を眺めていると、不思議と洋風駅舎にも見えてくる。


 広見線は今年に入り、存続か廃止・バス転換かが問題になっている。沿線の可児市と御嵩町で年1億円の補助をしているが、それでも赤字は大きく、補助の枠組みも今年度で終わるという。

 広見線が存続。そして味わい深くユニーク…、そんな明智駅の駅舎は末永くあってほしい。

[2025年(令和6年3月訪問)](岐阜県可児市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 私鉄の三つ星レトロ駅舎

街の玄関口は大正築レトロな駅舎

 水郡線と常磐線の駅巡りをし、高萩駅に着いた頃には夜の帳が降り切る寸前だった。

JR東日本・常磐線、何本もの留置線がある高萩駅

 高萩駅で降りたのは約17年振りで2回目。前回2006年は古い駅舎の左横に、駅施設らしき小さな建築物がレール沿いに列を成すようにずらり連なっていたのが強く印象に残っていた。改築する事無く古い駅舎を守ろうとしているのか…?それとも本当はもっと使い勝手のいい新しい駅舎に建て替えたいが、経費が下りないので、そうやってしのいでいたのか?当時はそんな事を考えていた。もうその状態は解消されていたが。


 完全に暗くなる前に、駅舎の外観だけはいい状態で撮影しようと外に出た。

 駅舎は洋風でレトロな造りが印象深い木造駅舎。開業は1897年(明治30年)2月25日だが、この駅舎が建てられたのは1926年(大正15年)4月。3年後の2026年に100歳を迎える歴史ある駅舎。めでたいめでたい!

常磐線・高萩駅、半切妻の屋根とファサードが特徴的な洋風駅舎

 側面やファサードの急角度の半切妻や、その中の半円調の装飾がレトロで洋風のムードを奏でる。どことなく足利駅舎や今は無き伊勢崎駅舎、移築保存された旧栃木駅舎と言った両毛線の洋風駅舎群に雰囲気が似ている…

 この半円の赤い装飾、縦にラインが入れられたようなデザインだが、白い部分が少し広い真ん中は窓だったよう。埋められたのが塞がれたのか、その部分だけよく見ると、白さというか質感が違う。100周年を機に窓を復活させてくれないものだろうか…

JR東日本・常磐線・高萩駅舎、正面の庇は古レールが支える

 出入口車寄せの軒は古レールでしっかり支えられている。あの半円の色に合わせたのか、赤茶色に塗られている。ペンキ越しに伝わってくる鉄の質感が渋い。

大正築の高萩駅舎に施された耐震補強

 駅舎には耐震補強が施されていた。東日本大震災で茨城県は震度6の揺れが直撃したが、高萩駅舎は耐え忍び甚大な被害はなかった。意外と屈強だけど、老朽化しているだろう古い駅舎に地震対策は必要だ。

レトロな高萩駅の姿に倣った高萩駅前交番が隣接

 駅舎にぴったり隣接する駅前交番は、半切妻の屋根など、特徴的な高萩駅舎に倣った造りなのが面白い。

現代的な駅風景の中で…

JR東日本・高萩駅改札口と出札口

 築100年を迎えようかという古い駅舎だが、内部は改修され自動改札機も設置されすっかり現代的。増築されJR東日本系列のコンビニ、NEW DAYSまで入っている。

待合室内のミニ高萩駅舎。手指用消毒液を収納。

 待合室の一角には、ミニ高萩駅舎が!手指消毒液が収納されているのが、コロナウィルス蔓延という時代を反映している。デフォルメはされているが、特徴はとらえよく出来ている。駅員さんの力作だろうか?いっその事、目でも描き入れて高萩駅のゆるキャラにしてはどうか(笑)

常磐線、夜の高萩駅、プラットホームと駅舎

 東口へ行ける跨線橋からは高萩駅を一望する事ができる。列車は出払い、何線分ものレールが敷かれた構内はひたすら広い。

 こうして見ると、東京上野ラインとして東京都心に乗り入れる列車が発着するプラットホームは、長い上に改装され新しくきれい。跨線橋はエレベーターを備えバリアフリー。都会の駅に遜色無い。そんな中、よく古い駅舎ががんばっているものだ。

茨城県高萩市の中心駅、夜の帰宅時間帯の高萩駅

 夕方のラッシュ時間帯で、帰宅する人々、送迎の車やタクシーで市の代表駅である高萩駅は賑わう。

JR東日本・常磐線・高萩駅、レールと木の軒がレトロなホーム側

 駅舎正面だけでなく、ホーム側の木の軒や支えるレールも新しい設備に埋もれながらも見事に昔ながらの佇まいを残していた。今でこそ駅舎に面したホームは無いが、かつてはこっち側にも列車が発着したのだろうなぁ…

[2023年(令和4年)5月訪問](茨城県高萩市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

天皇陛下が立ち寄られた昭和初期築の小さな無人駅

 折りたたみ自転車に乗り、長崎本線の肥前浜駅にやってきた。2010年以来、約14年振り2度目の訪問だ。

 肥前浜駅には1930年(昭和5年)11月30日の開業以来の木造駅舎が改修されながら使われて来た。洋風の趣きで、個性的ながらもレトロさ感じさせるいい駅舎だったもの。

 しかし2018年(平成30年)、鹿島酒造ツーリズムの開催にあわせ、開業の昭和5年当時の姿をイメージし復元された。久しぶりに目にする木造駅舎は、淡いピンク色の塗装のせいか、前回の記憶のままの風情を残しながらも、より瀟洒なレトロな趣きを感じるものになっていた。

 変わったのは駅舎だけではない。近年のもう一つの変化と言えば、2022年(令和4年)9月23日の西九州新幹線の開業だ。経営分離されずJR線としての運行は継続されているが、肥前鹿島‐長崎間の特急列車の運行は廃止となった。ローカル列車だけが残ると、電化設備のコストが高い事から、肥前浜以西は非電化となった。肥前浜‐諫早間は、数時間も列車間隔が空く場合もある。特急かもめで賑わった特急街道も随分と寂しくなったものだ。

2010年、復元前の肥前浜駅舎。個性的な木造駅舎。
(復元前、2010年当時の肥前浜駅舎。)

 改修前の駅舎は、車寄せを含めた正面の3連の三角屋根のファサードが、なんとも個性的で目を引いたもの。1985年頃にこのような姿に改修されたとの事。あともう少し左側に長い建物だったが、減築され小さくなったようだ。

 訪問した2010年当時は、かつて入居し数年前に撤退したヤマト運輸の痕跡がまだ色濃く残っていて、駅事務室跡には観光案内所が入居していたものだ。

JR肥前浜駅の木造駅舎、正面窓口の造りが復元。

 駅舎が改修・復元されると、3連のファサードの左側の部分は無くなったが、その真ん中には窓口が出現していた。とんでもないものを隠し持っていたものだ。昭和20年とか昔の肥前浜駅の写真を見ると、確かにその場所には窓口があった。

 通常、切符売場は駅舎の中に設けられる場合がほとんどだ。駅舎正面の外に向かって窓口がある造りは珍しいが、無い訳ではない。ただ肥前浜駅のように、正面にしっかり一室、窓口を設けような造りはかなり珍しいのでは?

 でも突然変異的に個性的な造りはできてしまうもの。待合室の混雑緩和のため、出札口は外に設けたのか…?それとも列車の切符を売る目的以外の窓口だったのだろうか?

肥前浜駅、天皇皇后両陛下が訪問され日本国旗が掲げられる。

 車寄せの両側の柱には、小さな日章旗が掲げられていた。

 10月初旬、国民スポーツ大会(国体の新名称)に出席されるため、天皇、皇后両両陛下が佐賀県を訪問されたが、訪問地としてこの小さな無人駅が選ばれた。その名残なのだろう。私より11日前の10月6日の事なので、ついこの前。旗はまだ純白の白さで、日の丸は鮮やかだ。

 ご夫妻は地元の小学生が紹介する浜地区の歴史に耳を傾けられ、駅舎リニューアルの際、隣にオープンした日本酒バー「HAMA BAR」に立ち寄られ、鹿島市の酒造についての説明を受けられるなど、地元の人々と交流なさったという。

 ニュース映像には、駅舎の前で駅についての説明をお聞きになられているような場面もあった。この趣ある駅舎の感想もお聞きしたいものだ。

活用される昭和初期築のレトロ駅舎

JR長崎本線・肥前浜駅のストリートピアノ(駅ピアノ)

 待合室は窓口跡こそ改修され昔の面影は無いが、壁に沿って木の造り付けのベンチが巡らされ、窓枠は木製のものに取り替えられた。まさに昔の駅の趣き。

 奥の方にはベンチを切り欠き、ピアノが1台置かれていた。街中など公共の場所に置かれ誰でも自由に弾けるストリートピアノ…、駅の場合は駅ビアノというものが流行っているが、こんな地方の小さな駅にまであるとは。誰か弾きに来る人はいるのだろうか?

JR長崎本線・肥前浜駅の木造駅舎、待合室のレトロな天井

 見上げると、天井は木の枠材と6角形の照明の台座が紡ぐ白い空間。レトロ駅舎という世界に引き込まれていく心地…

一部が非電化となった長崎本線、肥前浜駅にキハ47が入線

 ホームには地元の幼稚園児が散歩に来ていて賑やかだ。江北行きの列車が入線すると、歓声が上がったり手を振ったりで大盛り上がり。

JR長崎本線・肥前浜駅の木造駅舎、ホーム側

 列車到着を見計らって来ていたのか、園児たちはいなくなり静けさが戻った。

 駅舎ホーム側もレトロな造りだ。

JR肥前浜駅の木造駅舎、ホーム側の古びた柱

 ホームの軒を支える柱は、補強されながらも古びた造りを垣間見せた。

佐賀県鹿島市、JR肥前浜駅内の観光案内所と売店

 観光案内所に入ってみた。売店も併設され、鹿島市など佐賀県のものを中心とした品ぞろえで、お土産にもいい。近年、地方の主要駅は売店が無くなってしまった駅も多いので、嬉しくもある。後で買い物をしよう。

駅で一献、肥前浜宿の地酒が味わえる「HAMA BAR」

肥前浜駅、肥前浜宿酒造の日本酒を提供する「HAMA BAR」

 さて、話題の日本酒パー「HAMA BAR」に行ってみよう。駅舎とは別棟だが屋根で繋がっている。

佐賀県鹿島市。肥前浜駅の日本酒バー・HAMA BAR

 この浜地区や鹿島の酒蔵(さかぐら)で醸造された日本酒が、レールに面した窓の棚にずらりと並べられている。カウンターから列車を眺めながらグラスを傾ければ最高だろう。

 アルコールに弱い私だが、地の銘酒をちょっとだけ試してみたくもなる。しかし、自転車で飲酒運転になってしまうので、残念だがそうはいかない。

肥前浜駅の日本酒バー・HAMA BAR、幸姫の甘酒

 しかし、ノンアルコール飲料を見てみると、肥前浜の酒蔵幸姫酒造の甘酒があった。美味しく一献。

肥前浜駅「HAMA BAR」肥前浜宿の蔵元の日本酒も

 壁には5本の大吟醸が展示されていた。どれも鹿島市の酒蔵によるお酒で、幸姫酒造、富久千代酒造、光武酒造この浜地区の製品だ。

 天皇皇后両陛下のご訪問の際、公務中でその場でお飲みになる事はできなかった。日本酒好きという陛下、公務中の辛い所だが、前日のホテルでは飲まれたようで「これをいただきました。大変おいしかったです。」と、富久千代酒造の鍋島大吟醸を指さされながら仰ったという。

ピアノの調べに包まれて…

JR九州長崎本線・肥前浜駅の木造駅舎、レトロな車寄せの柱

 車寄せの柱の足元の土台が小洒落ている。

長崎本線・肥前浜駅の木造駅舎、車寄せ

 車寄せの内側は白い漆喰でかためられ、丸い照明の台座も付いている。

 古い街並みが残る肥前浜宿までは、駅から道なりに約400m。約3㎞の祐徳神社まで足を伸ばす人は、観光案内所でレンタサイクルを借りるのがお勧めだ。


 売店でお土産を見ていたら、ピアノの音が聞こえてきた。誰かが待合室のあのピアノを弾いているようだ。

 どういう曲か知らない。ただ荘厳で美しい曲が力強く演奏され駅中に響き渡った。のんびりとした小さな木造駅舎は、一瞬にしてコンサートホールのような厳粛で優雅な空間へと一変した。いや、もはや神々しいとすら思う。レトロ駅舎と言うものは見慣れたつもりだったが、こういう駅空間を感じる事ができるとは…。ファサード、待合室の天井、車寄せ…、私に肥前浜駅の味わい深さをもう一度感じさせるように、ピアノの調べは響いた。

 ピアノを管理している売店の人によれば、ピアノの先生との事。こんな素晴らしいひと時をくれた演奏者の方々に、拍手の一つでも贈りたかったし、失礼でなければヨーロッパの路上パフォーマーにするように、おひねりを渡したかった。しかし、演奏は途切れず相方の人は動画を撮影しているように見える。あまり変な事をしては迷惑になってしまいそう。心の中でありがとうと言い、ピアノの音色に見送られながら肥前浜駅を後にした。

帰路、肥前浜駅での乗換え。

 この後、日本の古い街並みが残る肥前浜宿に立ち寄り、有明海の干潟を眺めつつ、肥前七浦駅や大魚神社の海中鳥居に立ち寄り多良駅まで走った。多良駅から折り返し帰りの途に就いた。

 肥前浜‐長崎間が非電化された影響で、肥前鹿島方面への列車の多くは、肥前浜駅で運行が区切られ乗換えが発生するようになった。私が今度乗る列車も肥前浜駅で終点。輪行袋に入れた重い自転車を抱え、跨線橋渡るのも面倒だなぁと思っていた。

長崎本線、非電化と電化の境界駅となった肥前浜駅のホーム

 肥前浜駅では島式ホームの2番線に到着したが、隣の3番線に江北行きの普通列車が既に停車していた。どうも、乗り換えが発生する場合でも、原則、このように対面で乗り換えできるように配慮されているらしい。

 重い自転車を抱えつつ、楽々、隣に停まる列車に乗り移った。

[2024年(令和6年)10月訪問](佐賀県鹿島市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 旧国鉄・JRの三つ星レトロ駅舎

14年振りに那古船形駅へ…

 早朝、宿をチェックアウトし館山駅からわずか一駅、那古船形駅で降りた。2007年に訪れて以来、約14年振り。木造駅舎が印象深く、いつか再び訪れたいと思い続けていた。

内房線・那古船形駅、1面1線の棒線駅になり跨線橋が撤去された駅構内

 ホームに降り立つと、金網のフェンスで仕切られた1番線の向こうに、あの木造駅舎が佇んでいるのが見えた。かつて島式ホームの1面2線の配線だったが、駅舎に近い1番線側は廃止された。

 そして跨線橋も撤去され、随分とすっきりしたのも驚かされた。17年前、跨線橋の上から周囲の風景を眺めたのが懐かしい。

 廃止された1番線側はレールが剥がされ、スロープや通路が整備され長い階段を昇降しなくても駅舎と行き来できる。跨線橋は無用の長物として撤去されるのも納得。

 跨線橋がある駅で、駅舎側をホームにすれば、階段を昇降する面倒は省けるからそうすればいいのにと思う事は多い。しかし現実、なかなかそうはならない。乗降客の負担を取り除く那古船形駅の改修は、評価に値する。

JR内房線・那古船形駅の木造駅舎、千葉地区独特のホーム側窓口

 駅舎ホーム側の改札口近くにはカウンターのある窓口の跡があった。精算窓口がこの位置にあるのは、千葉県内のJR駅でよく見られる造りだ。

内房線・那古船形駅の木造駅舎、旧屋外改札口付近の上屋

 ホーム側には昔ながらの木造の軒がまだ残されていた。駅舎横の屋外の改札口があったと思われる所まで覆われていた。

千葉県に残るJR随一の木造駅舎

 駅舎の外に出てみた。

JR東日本・内房線、古い木造駅舎が残る那古船形駅

 正面側は使い古された木の板が露で素朴な造りなのが、いかにも昔からの木造駅舎らしさ漂う風情で味わい深い。

 那古船形駅の開業は1918年(大正7年)8月10日。この木造駅舎は開業以来のものと思われる。

内房線・那古船形駅、古い木造駅舎に掲げられたホーローの駅名標

 古く堂々たる木の車寄せには、国鉄時代からのホーローの駅名標がとてもよく似合う。

那古船形駅、木造駅舎は内房線仕様に改修されたが塗装は剥げてきた

 私が訪れた2007年は、ちょうど改修されて間もない頃。他の内房線の木造駅舎のように、水色の屋根に白色の壁という「内房線仕様」の改修が施されていた。特に白くペンキで塗られた木の壁は艶々と光り輝くかのようで、木造駅舎には不釣り合いに思えた。

 そんな壁も、17年程度で白いペンキはほぼ剥がれた。こびりつくように残った部分ももう輝きは無い。他の内房線の木造駅舎は新建材等で改修され、趣が落ちた中、那古船形駅は木の外壁が残ったのを嬉しく思っていたが、こうなってしまったのを見ると、古い木造駅舎のメンテナンスの難しさを感じる。

内房線・那古船形駅、古く木造駅舎らしい造り

 近くで見ると、使い古された木の凄みがより迫りくるかのよう。窓はさすがにサッシに替えられていたが、一つ長い窓を木の板で塞いだ痕跡が残っていたのが気になった。

 そろそろ再塗装の頃合いだと思う。できれば本来の木の質感を活かしてほしい。しかし築100年を超えたと思われる木造駅舎、老朽化が進んでいる事だろう。いっその事そろそろ建て替えをとならなければいいが…

内房線・那古船形駅、無人駅となり出札口は塞がれた

 待合室の壁は木目のプリント板になるなど大きく改修されていた。壁と化した窓口跡も昔ながらの面影はなかった。

 改札口横には出札口兼改札口があった。最初に訪れた時は、駅員さんがいたものだが、2019年4月1日より無人化され、現在では虚しく塞がれていた。

那古船形駅の木造駅舎、待合室の古い腰折れ天井

 改修された待合室だが、天井は中心部分が水平で壁に向かって下の方に傾斜が付けられる「腰折れ天井」という造りが古い木のままの造りで残ってて強く目を引く。なんと素晴らしい!

 素朴で何の変哲もない木造駅舎、なぜこんな腰折れ天井が採用されたのだろうか?昭和になると、鉄道省から「小停車場本屋標準図」が通達され、小規模駅舎の標準化が図られた。しかし那古船形駅が建てられた当時は、「この位の大きさでこんな設備を」という要請なら、先例となる他の駅舎を参考にしながらも、それに縛られない設計が出来たのだろう。もしかしたら、設計・施工した人や会社やらが、狭く圧迫感を感じるから、天井だけ少し高くしておこうと提案し、この天井になったのかもしれない。

館山市にある那古船形駅、駅前の風景

 駅前は店舗も少なくひっそりし、町はずれ感が漂う。手持ち無沙汰に西に歩いてみたら、街や港があった。


 この前、来た時は夕方で、ホンダのバイク・スーパーカブが駅舎の前に1台、もう1台と集まって来たのを不思議に思いながら見ていた。運転していた人は駅の名に消えたと思ったら、程なくして新聞の束を抱え戻ってきて、バイクに積み走り去っていったもの。彼らは新聞屋さんで、両国駅からやってきた新聞輸送列車から夕刊を引き取りに来ていたのだった。その新聞輸送列車も2010年3月のダイヤ改正で廃止され、あの不思議な光景も今では懐かしいものに。
(関連ページ: 那古船形駅、ちょっと不思議な夕方の光景~駅に集まるホンダ・スーパーカブ~)


 1番ホームの廃止と棒線化、跨線橋の撤去、無人化、新聞列車輸送の廃止、そして駅舎の塗装の剥がれと、ここ十数年でこんなにも変化があった那古船形駅。時が流れれば変化があるものつくづくと感じさせた。

 今度は駅舎だろうか?でも今度訪れる時、出迎えてくれるのはやはりこの木造駅舎でなければ!

[2024年(令和6年)4月訪問](千葉県館山市)

レトロ駅舎カテゴリー:
二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

3線が交わったゆとりある駅構内

蒲郡線との接続駅、名鉄・吉良吉田駅、西尾線用の3番ホーム。

 名鉄西尾線の列車に乗り終点の吉良吉田駅へ。蒲郡線との接続駅で、かつては三河線とも繋がっていたが、2004年に三河線の海線と称された碧南‐吉良吉田間は廃止された。

名鉄・吉良吉田駅、かつての西尾線・蒲郡線と三河線の乗換え通路跡

 3線のちょうど合流点にある吉良吉田駅の敷地は三角状となっていた。ホームはV字状に配され、西尾線と三河線が蒲郡線に合流する形で、かつては南側から三河線の1・2番線、西尾線と蒲郡線の3・4番線となっていた。三河線海線の末期は小さなレールバスがコトコト走ってたものだ…

 2008年に蒲郡線の列車は旧三河線の2番線に移された。レールはまだ繋がっているものの、西尾線と蒲郡線の直通運転は廃止。それだけでなく両線ホームの間には中間改札も設けられ、運行上分断された。

 両線の需要が段違いというのもあるのだろう。しかし磁気カードのプリペイド式乗車券・トランパスが吉良吉田駅で導入されたが、蒲郡線では導入されない事が決定していた。なので、トランパス利用者の蒲郡線乗車時の運賃精算の手間が嫌われたのだろう。

 三河線廃線後、1・2番線は封鎖されていたが、運賃精算の手間を無くすためか…、思わぬ形で蒲郡線ホームとして復活したものだ。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅、中間改札設置前の駅構内ホーム
(※2008年、旧三河線ホーム封鎖時の吉良吉田駅。)

 中間改札設置前、かつて両ホーム間には三角状の敷地が広がり、乗換え通路として機能していた。そこには小さな庭園風の空間もありゆとり感じさせたもの。泳いでいた金魚がただ懐かしく思い出された…

駅統合以来の木造駅舎?

名鉄吉良吉田駅改札口、木造駅舎らしか感じる木の柱

 外に出ようと改札口に向かった。改修された木造駅舎とは言え、年季が入った柱に出迎えられた。古びた木の柱はひびが入り、下部は補強されていた。

名鉄吉良吉田駅の木造駅舎、小さな待合室

 待合室は狭く、片隅に造り付けの木製ベンチが設置されていた。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅、改修されているが古い木造駅舎が残る

 吉良吉田駅の駅舎は、半切妻の屋根がレトロさを感じさせる木造駅舎だ。2階建て部分は、増築されたのだろう。


 西尾線・西尾‐吉良吉田間の起源となるのは西尾鉄道で、終着駅として1915年(大正4年)8月5日に吉良吉田駅が開業した。しかし当時は今より約300m北に位置し、現在とは別ものだ。

 一方、三河線の起源となるのが三河鉄道で、1928年(昭和3年)終着駅として三河吉田駅が開業した。位置は現在の吉良吉田駅より西に約300mあたり。

 1935年(昭和10年)8月1日に名鉄の路線となっていた西尾線は、1942年(昭和17年)12月28日に吉良吉田‐三河吉田間が延伸開業した。西尾線の三河吉田駅は現在の吉良吉田駅の位置にあたる。1941年(昭和16年)6月1日には三河鉄道も名鉄三河線となっていたが、両線の三河吉田駅は離れていた。両者が統合されたのは西尾線延伸の約1ヶ月後の1943年(昭和18年)2月1日、西尾線の方の駅に統合された。

 たった1ヶ月なら両駅同時に移転すればいいのにと思うが、何でタイムラグが発生したのか?準備が整った方から、いち早く開業させていく方針だったのか…?それとと三河線側の駅施設の工事が遅れたのか…?

 そして現在の吉良吉田駅へと改称されたのは1960年(昭和35年)11月1日の事だ。

 蒲郡線は元々、三河鉄道の延伸区間で、1929年(昭和4年)8月11日以降、東進し、1936年(昭和11年)11月10日、蒲郡まで全通した。蒲郡線と名付けられたのは1948年(昭和23年)5月16日だ。


 …と、吉良吉田駅の歴史は複雑だが、現在の木造駅舎はそういう推移を考えると、西尾線の三河吉田駅延伸時の1942年(昭和17年)か、それ以降だろう。

名鉄吉良吉田駅、木造駅舎らしさ感じる屋根

 色々と改修されているが、屋根の縁の木の造りとか、通風孔に昔ながらの造りを残す。

名鉄吉良吉田駅、駅舎横の構内売店跡

 駅舎の左側は駐車場やトイレとなっている。トイレは比較的近年に新築されたのか、きれいに見える。

名鉄西尾線・蒲郡線・吉良吉田駅前にかつてあった構内売店
(※吉良吉田駅にかつてあった構内売店(2008年))

 だけど、この辺りには、かつて名鉄の構内売店があり、昭和を思い起こさせるレトロないでたちが印象深かったもの。構内を名乗るが、「名鉄指定」と掲げていた事から、名鉄の認可を受け駅売店として営業する個人商店のようなものだったのだろう。

今も残る三河線の廃線跡

 ちょっと周辺をぶらついてみよう…

吉良吉田駅西尾線ホームに停車する名鉄3300系電車

 西尾線ホームの北端には踏切があり、ホームと停車する列車を正面から見る事ができる。こうして見ると迫力あるもの。

吉良吉田駅近くに残る名鉄三河線廃線跡

 三河線の両端部は2004年に廃止されたが、吉良吉田駅近くは、まだ色濃く痕跡を留めている。住宅街だが、単線の廃線跡は幅が狭く何か建てるに十分な土地でもなく、道路を拡張するほどの交通量でもなく、転用し辛いのだろう。

名鉄吉良吉田駅、旧三河線ホームを使う蒲郡線の列車

 だが三河線のホーム跡は今でも使われ、三河線在りし日を偲ばせた。かつての1番線は形あるものの、現在は番号は振られていなく、留置線として使われるだけだ。

名鉄吉良吉田駅、木造駅舎と蒲郡線ホームに停車する列車

 少し離れて吉良吉田駅舎とかつての三河線ホームに停車する蒲郡線の列車を眺めた。

 蒲郡線は20年以上前から存廃問題が取り沙汰されているが、谷汲線や岐阜市内線など多くの名鉄の路線が廃止されてきた中で、辛うじて生き残っている。しかしトランパスが導入されず、広く普及したICカードも導入されておらず、見捨てられているとさえ感じる。

 ずっとこの変わった配線の駅を愛でていたいものよ。

[2021年(令和3年)10月訪問](愛知県西尾市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

味わい深い小湊鐡道型の木造駅舎

 二日間かけて小湊鉄道の駅を堪能する旅。昨日は月崎駅など、いくつかの駅を巡った。東京など首都圏近くにありながら、田舎のローカル線の風景を堪能でき、しかも桜満開の春もあってか、車内は立客が多くでる程の大賑わいだった。一部の駅もしかり。

 この調子なら、2日目にとっておいた上総鶴舞駅も同様に大勢の人が来るだろう。上総鶴舞駅は関東の駅百選に選出され、数ある小湊鉄道の駅の中でも一番人気だ。

 せめて人が少ない内にと、朝早くに五井駅前のホテルを出た。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、廃止された島式ホーム

 上総鶴舞駅に到着した。構内は広く、旅客ホームはかつて2面3線だったようだが、今は駅舎に面した1線のみ使われている。

 廃止された島式ホームは廃れながらも残っていた。その周りには、植えられた桜や菜の花がささやかに咲き誇る。まるで、風化した遺跡を鉢にした盆栽か何かの作品のようで、不思議な春の風情が美しく映った。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、線路沿いに植樹された桜並木

 ホーム南側、上総中野の方に出てすぐの線路沿に、桜が何本も植えられている。初めて上総鶴舞駅を訪れた十数年前、この木々は植樹されてあまり経っていないように見受けられ、簡単に手折られそうなほどか細かったのが印象的だった。よくここまで成長したもの。

 駅舎の正面に回った。レトロさ漂う木造駅舎は開業の1925年(大正14年)3月7日以来のもの。当初の駅名は鶴舞町という駅名で、1958年(昭和33年)に現在の上総鶴舞駅となった。

 派手さは無いが大きな改修は施されていなく、木造駅舎らしい素朴な佇まいが趣深い。

 小湊鐡道には今でも多くの木造駅舎が現役で使われているが、その内の7駅が上総鶴舞駅と同デザイン。素朴でどこにでもありそうだが、意外とそうでもなく、いわば小湊鉄道型の木造駅舎と言える。

 上総鶴舞駅は首都圏に近いのに素朴な木造駅舎があり、田舎らしい風情を味わえるので、ドラマ、映画、CM、ミュージックビデオなどロケ地となる事も多い。私は1990年代前半の、内田有紀主演のドラマに出てきたのを覚えている。ストーリーはもうよく覚えていないが、駅の佇まいは印象的だった。それ以来、この駅の存在が心の片隅に刻まれたのだろう。

上総鶴舞駅舎、正面右手の気になる出っ張り部分

 駅舎正面左側約4分の1が少し出っ張っている。出っ張り側面の膝の位置あたりに、小さな引戸がある。人が出入りしたり、物のやり取りをするには小さ過ぎで、何なのだろうと気になった。あまたの木造駅舎の造りを考えると、宿直室や休憩室のような部屋で、換気のための小窓だったのだろうか…?

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、昔の造りのままの待合室

 駅舎内部は、小荷物用の窓口こそカウンターが撤去され塞がれているが、その他の部分は昔ながらの造りをよく留め懐かし雰囲気。

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、出札口跡

 無人駅ながら、出札口の造りも昔のまま。木のカウンターなど、ペンキ越しに使い古された木の質感が伝わってくる。

 旧国鉄の駅ではガラス窓になっている事が多いが、木の壁にアーチのような穴をあけた感じl茶色い木枠の鉄柵は後付けだろうか?でも、この鉄柵も小湊鉄道のいくつかの駅で見られ、こんな所も小湊鉄道型の造りなのが面白い。

小湊鉄道、無人駅の上総鶴舞駅、外から覗いた駅事務室跡

 改札口から、少し駅事務室の中を覗いてみた。無人駅となってからだいぶ経つのだろうが、まるで撤収したのがついこの前かのように、そのままの造りを留めながらガランとしていた。いつか中を見学したいもの。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、レトロな木造駅舎の木の改札口

 木のラッチが残った改札口の向こうを、古豪気動車が走り抜けてゆくのが、何ともノスタルジックさ溢れる。


 2017年(平成30年)、この駅本屋(駅舎)は、駅構内に残る旧鶴舞発電所、貨物上屋と共に登録有形文化財に登録された。

賑わいの香り残す駅に咲く桜

 さて、駅舎の反対側にある鶴舞発電所跡でも見に行こう…

小湊鉄道・満開の桜咲き乱れる上総鶴舞駅

 駅の裏手は草生えた土地に轍(わだち)が伸び、のどかな田舎らしさ溢れる風景が広がる。桜も咲き、まるで春の山里を歩いているようで癒される心地。桜の向こうに佇む駅でさえ、遠くにあるかのよう。

小湊鉄道、上総鶴舞駅、発電所跡

 駅裏にあるトタン張りの廃墟のような建物が旧鶴舞発電所だ。駅舎と同じく1925年(大正14年)築。鶴舞駅に電気を供給するために建てられた火力発電所だが、周辺の町村にも電気を供給していたという。

 中は保線用具と思われるものがいくつもあった。今では倉庫として使われるようだ。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、広大な側線跡

 駅の北側、五井方の敷地には行き止まりの側線跡が広がっている。雑草が広がる中、枕木が僅かに埋まり、側線ホームと貨物上屋が残る。3~4線分位はあったのだろうか…?かつての賑わいを感じさせる。

小湊鉄道・上総鶴舞駅側線跡、登録有形文化財の貨物上屋

 側線跡には貨物上屋が残っている。周りにはレールや信号機器など、鉄道施設の部品が置かれている…というか放置されている。

 貨物上屋は四方がトタン壁で囲まれ、人が出入りする扉が1つあるだけだった。旧国鉄の駅なら、壁でがっちり囲まれている訳でなく、もっと開放的な造りなのだが。貨物上屋としてではなく、倉庫として使われるようになって、壁で囲われたのかもしれない。

小湊鉄道・上総鶴舞駅、桜と菜の花の横をレトロな気動車が走る

駅舎横には桜だけでなく菜の花も植えられている。その中を列車が走っていく風景は何てメルヘンチックで幻想的か…

小湊鉄道・上総鶴舞駅の木造駅舎、ホーム側の造り

 去り際、惜しむように最後の一瞬まで木造駅舎を見つめた。いい駅舎、いい駅だったなぁ…

[2014年(平成26年)4月訪問](千葉県市原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 私鉄の三つ星レトロ駅舎

風化したコンクリートブロックが重厚さ漂わす洋風駅舎

JR釜石線・遠野駅プラットホーム、キハ110系気動車が停車中

 新花巻駅から快速はまゆりに乗り、遠野駅に到着。2面3線のホームは線内の主要駅らしさ感じる。

釜石線・遠野駅、駅舎の屋根のカッパの鬼瓦

 遠野と言えば、柳田国男「遠野物語」のカッパの伝説。駅舎屋根の、JR印の鬼瓦にはカッパ像があしらわれていた。

JR東日本釜石線・遠野駅、駅舎ホーム側

 平日でコロナ禍の今は駅はひっそり。だけど普段は観光客も多いのかホームは掲示物で賑やかで、顔ハメ看板も。

 主要駅の一つの遠野駅は業務委託とは言え有人駅。ローカル線の駅で駅員さんがホームに立ち列車を見送る姿は今や珍しいかもしれない。

 遠野駅の開業は1914年(大正3年)4月18日。釜石線の前身の岩手軽便鉄道の東線・遠野-仙人峠駅(現在廃駅)間の開業時。最初の約1ヶ月は貨物駅としての営業だった。

 現在の駅舎は釜石線の改軌と全通が成った、1950年(昭和25年)築。一見、石造りが印象深い洋風駅舎だが、実は硬質コンクリートブロック造り。

JR釜石線・遠野駅舎、出入口近くの味わい深い造り

 コンクリート造りとは言え、風に晒され、風化し長年の汚れが染み付き、石造りのような重厚さ。出入口付近の造りも渋い!

JR東日本・釜石線、取り壊しに揺れる戦後築の洋風駅舎

 使い古され渋み漂う壁に瓦屋根が良く似合う。

 かつて2階には仙人峠越えのための機関区の事務所が置かれたという。JR化後はJR東日本直営の宿が置かれていた。しかし築70年を超え老朽化が進行し、現在の利用規模に見合った駅舎への建て替えが検討されている。宿は建て替えを見込み2015年に閉業となってしまった。レトロ駅舎の宿に泊まってみたかったなぁ…

JR釜石線・遠野駅、カッパ伝説にちなんだ駅前広場の池のあるミニ庭園

 カッパ淵は遠野の有名な観光名所だが、駅前広場にはカッパ淵ならぬカッパ池がある。カッパ像は古書から抜け出た妖怪のようで可愛いような不気味のような…

JR釜石線・遠野駅、駅舎内の待合室と切符売場

 駅舎内部の窓口と待合室。2020年には手作りおにぎり屋がオープンし、お土産屋なども販売している。

JR釜石線・遠野駅、コンクリート造りのレトロな改札口

 改札口にはコンクリートのレトロなラッチが残っている。乗降分離で二つに分かれているが、広い降車用と思われる方は閉じられ使われていないようだ。

JR釜石線の旅、遠野駅で買ったおにぎりとコーヒーを車内で

 遠野駅で買ったおにぎりは、釜石行きの列車に揺られながら味わった。遠野駅舎の余韻とともに…

[2022年(令和4年)5月訪問](岩手県遠野市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

レトロで印象深いホーム側の佇まい

 降雪による身延線計画運休に振り回され、早々に身延線から脱出した。降り続く雨にうんざりし、もう三島駅前に取ったホテルに行こうとしたが、早く着きすぎるのも癪。なので、道中、東海道本線の駅をちょっと訪れようと思いついた。

JR東海道本線・原駅、古レールの柱と駅名標

 東田子の浦駅を訪れた後、夕刻、原駅で下車した。島式ホームの上屋は古レールでがっちり支えられていた。

東海道本線・原駅、明治の開業時からのレンガ造りのランプ小屋(危険品庫)

 1番線を見ると、駅舎の隣にレンガ造りの小屋が目に入った。昔は油を保管したランプ小屋…、あるいは危険品庫、油庫というものだ。改修された駅舎にあって、何とも古めかしい。聞く所によると原駅開業の明治33年(1900年)以来のものという。

東海道本線・原駅、駅舎側ホームの古い木造上屋

 駅舎に繋がる1番ホームの上屋の柱や骨組みは古い木造。長年、風雨に晒され続けてきた柱は風化し木目浮く。左手前の柱はガタがだいぶ来ていて、歪んですらいる。ランプ小屋同様、こちらも駅の歴史を感じさせる。

東海道本線・原駅、上屋の年季入った木の柱

 その左手前の柱は歪んでいるだけでなく、盛大にヒビが入り裂けそう。改修の手が入ったのか、大きく削られた部分もある。

宿場町風の木造駅舎は新築のごとし

 もう夜の帳が降りつつあるが、完全に暗くなる前に駅舎を撮影しようと外に出た。

JR東海・東海道本線・原駅、木造駅舎は宿場町風に改修

 原駅は、戦後の1948年(昭和23年)地区の木造駅舎が健在だが、なまこ壁や格子窓など和の要素を取り入れた和風駅舎に改修されている。近くに東海道の13番目の宿場町・原宿があった歴史にちなむのだろう。なので宿場町風駅舎と言った所だろうか?

 見た所、ありふれた木造駅舎らしい原形はとどめていなく、大きく改修されているのだろう。それでも新築同様に改修されてまで使われ続けているのは凄い事だよなあと思う。

東海道本線・原駅、駅舎前の長い上屋が付いたロータリー

 駅舎前はロータリーが整備されていて、ロータリーに沿って駅舎出入口からは上屋が整備されている。ある程度の乗降客がある駅ではこういうふうに整備されている場合もある。撮影しずらいが、今日のような雨の日は利用者にはありがたい。

 ウィキペデアに載っている2018年の駅舎の写真には、上屋は無く駅舎前にタクシーが直付けされているので、このロータリーは比較的、近年に整備されたようだ。

東海道本線・原駅、開業百周年記念碑

 駅舎のスロープ前には、原駅百周年記念碑がひっそりと置かれていた。

JR東海道本線・原駅、待合室など駅舎内部

 切符売場や待合室がある内部は外観以上に古さを感じなく、最近、建てられた駅舎かのよう。だだっ広いが昔はキオスクでもあったのか、もっと待合室らしいスペースがあったのだろうか。

JR東海道本線・原駅、町の産業や名物を展示したショーケース

 待合室の片隅には原地区の産業や名産品を展示したショーケースが置かれていた。今でも見るが、昔は街の玄関たる駅には、よくこんな展示があったもの。

 食品よりも工業製品の紹介が目立った。原はものづくりが盛んな地域のようだ。

JR東海道本線・原駅、軒を支える柱が印象深い夜の木造駅舎

 原駅から去ろうとする頃、すっかり夜になっていた。

 それにしても夜の闇に浮かぶ木の回廊やランプ小屋、そして駅舎の美しい事よ…

[2024年(令和6年)2月訪問](静岡県沼津市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

伊豆箱根鉄道のサイクルトレインで愛車と共に

 田京駅から折りたたみ自転車で韮山の反射炉などを巡った後、韮山駅にやってきた。ここから同じ駿豆線の三島二日町駅まで列車に乗る。

 駿豆線では混雑する時間帯を除いた昼間、自転車をそのまま列車に載せられる「サイクルトレイン」のサービスをしている。鉄道と自転車の旅が好きな私には嬉しいサービス。愛車と共に、是非利用したい。

 1列車6台までの制限があり、利用するには事前の予約が必要。だが、そんなに堅苦しいものではなく、駅にあるインターフォンで、今から乗りたいと伝えると、運転席後部の乗車を指定され完了。切符を買うと自転車ごと改札口を通りぬけ、ホームで列車を待った。平日はこれから乗る韮山発15時15分が三島行きのサイクルトレインとしては最終だ。

伊豆箱根鉄道駿豆線のサイクルトレイン

 列車に乗り込み運転席後部に陣取った。近くには他の乗客もいる。もし倒したら、危ないからサイクルトレインはやめようという事になったら目も当てられない。なので、手でしっかりと自転車を保持しながら列車に揺られた。

車窓から見たレトロな駅へ…

 十数分で三島二日町駅に到着した。

伊豆箱根鉄道駿豆線、三島二日町駅1面1線のプラットホーム

 配線は1面1線の棒線駅。ホームは古レールに支えられた上屋に覆われていた。

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅、駅舎ホーム側の木枠の窓

 この日は、伊豆箱根鉄道の駅舎巡りと、韮山反射炉を見ようと言う大雑把なプランがあった。しかし細かい時刻は決めていなく、三島二日町駅に訪れる予定は無かった。

 しかし修善寺行き列車から見た、この木枠の窓に思わず魅かれ後で降りてみようと決めた。木枠の窓のある駅舎は、レトロなムードを駅に添えているかのようで味わい深い。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、無人駅となり塞がれた窓口

 窓口は、自動券売機がはめ込まれながらも昔の造りを残していた。木のカウンターやその支えが昔ながらで趣ある。

 無人駅だが、朝、ほんの一部の時間帯は係員がいるらしい。でも窓口は廃れ気味で、もう使われていないようだ。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、レトロな造りを垣間見せる駅舎

 駅舎を外から眺めようと、出口に向かった。古びた木の骨組みの向こうに見える、上部に曲線が入った柱…。えもいわれぬレトロな佇まいに期待は高まる。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、レトロさ残す古い駅舎

 駅舎を正面から見てみた。木造モルタル造りの駅舎は簡素なれど、そこはかとなくレトロな趣きを漂わせていた。

 狭い駅前の敷地は、有料の自転車駐車場となり、びっしりと自転車が並ぶ。しかし最初の数十分は無料なので、私も恩恵にあずかり自転車を安心して止められ駅舎観察に専念…

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅舎、洒落たスクラッチタイル

 縦長の窓と、腰の高さ位に線のように巡らされたスクラッチタイル。さり気ない洋風のムードに心魅かれた。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅舎、洒落た古い車寄せ

 色々な要素がレトロなムードを醸し出す駅舎。

 三島二日町駅の開業は1932年(昭和7年)12月15日。駿豆線の起源となる豆相鉄道の三島町(現・三島田町駅)‐南条駅(現・伊豆長岡駅)間が1898年(明治31年)5月に開業していたが、それに34年遅れての開業だ。1924年(大正13年)の修善寺開通よりも約8年遅かった。

 この駅舎は何年築かは不明という。でもこういうむせ返るほどの古さやレトロさは無いが、洋風の要素を取り入れたと思うと、開業時か昭和10年代だろうか…?

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、駅舎後方からの眺め

 奥から駅舎を見渡してみた。こちら側にも木枠の窓が残っていた。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、駅舎内部の待合室跡?

 駅舎内の窓口以外の部分は、扉などで完全に仕切られていないガレージの様な雰囲気で、やや殺風景。ホームからスロープが設けられ、その他の部分は自動販売機置場と化している。スロープ脇には、僅か数人分のベンチが置かれていた。かつての待合室…、いや今でもそうなのだろうが。だけど、昔はもっと待合室らしかったのかもしれない。

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅、豆タイル張りのコンクリートシンク

 周辺をブラブラしていると、駅舎脇の水場に豆タイル張りのコンクリートシンクを発見。こちらも相当古そう。駅舎と同い年だろうか…?

伊豆箱根鉄道駿豆線・三島二日町駅舎、線路・ホーム側

 駅舎を踏切から見てみた。出札口とちょっとした待合室だけの、いかにも中小私鉄らしい小ぶりな駅だ。

伊豆箱根鉄道・三島二日町駅、1300系電車鉄道むすめヘッドマーク

 修善寺行きの列車がやってきた。アニメのラッピングトレインから復刻塗装まで、駿豆線の車両はバラエティーに富むが、目の前の車両は普通の塗装の1300系。だけどヘッドマークは温泉むすめ・鉄道むすめのコラボヘッドマークで、華やかなムードを添えていた。


 さあ、ここからは三嶋大社、そして三島駅前のホテルまでひとっ走りだ。

[2024年(令和6年)2月訪問](静岡県三島市)

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一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

古い駅名標保存されるホーム

 城端線と氷見線が、あいの風とやま鉄道への経営が移管される方針が公表された2023年10月下旬、約6年振りに福野駅を訪れた。

ホーム側に残る福野駅の古い駅名標

 駅舎ホーム側には、かつて正面に掲げられていた古い駅名標が保存されていた。使用感はもちろん書体もえらく古めかしい。1970年(昭和45年)頃から、駅舎改修の2015年(平成27年)まで使われていたとか。

 前回は保存されている加越能鉄道・井波駅舎訪問の中継点として降りただけで、福野駅に関する予備知識は無く、離れる列車から古い駅名標を目にし
「あああ…見逃した!」
と悔しいく思ったもの。

JR西日本・城端線・福野駅、木の柱並ぶ駅舎ホーム側

 古い木造駅舎が今でも現役。何とこの駅舎!城端線や氷見線の起源となる中越鉄道時代、1897年(明治30年)5月4日に福野駅が開業して以来のもので、富山県最古の駅舎。

 木の上屋や支える柱は古い木のままだが、斜めに配された支えの部分は、鉄製のものに交換されていた。

富山最古、福野駅の木造駅舎。骨組みなど古い木の部分

 白色に塗られているなど色々と改修されている。しかし、骨格となる木組みのの部分は古いまま。、灰色のペンキ越しに年月に刻まれた木目が浮かび、駅の歴史を感じさせた。

木造駅舎は明治築で富山最古の駅舎

 正面にまわり改めて富山最古という駅舎を見てみた。色々と改修されているので、古色蒼然としたレトロさはあまりない。恐らく正面の軒下ぎりぎりまで壁が移動され、待合室が拡張されたのだろう。

 それでも待合室に対し直角に駅事務室が配され正面に妻面が向いた造りは、ちょっとした規模の木造駅舎ではよくある造り。黒光りする屋根瓦は、城端線などこの辺の古駅舎らしさ溢れ、白い壁ならいっそう引き立たせる。

JR城端線・福野駅、明治の木造駅舎は駅事務室側が増築

 駅舎正面右手側にも、増築の跡が見られる。かつては貨物を扱っていただけでなく、1972年までは加越能鉄道加越線も乗り入れていた。かつては、もっと忙し駅だったのだろうなあ…

富山県南砺市、小30奇麗に整備された福野駅の駅前

 駅前は小奇麗に整備され、まるで都市郊外の新興住宅地を思わす。

 しかし駅から少し離れた北側一帯は、細い道が入り組んだ中、古い建物が残る地味にレトロさ漂う街並みが広がり、前回訪問時に大いに驚かされたもの。料亭など飲食店の跡も目に付いた。こちらが旧福野町の中心地で、二つの鉄路が交わる福野は大いに隆盛したのだろう。

城端線・福野駅舎、待合室と出札口

 待合室はすっかり改装されている。

 ローカル線の駅は、そこそこの規模の駅でも無人化されているのが当たり前。しかし福野駅は簡易委託とは言え、人員は配置されている。城端線や氷見線はそんな駅が多く思った。しかしそんな駅のほどんごが将来的には無人化が予定されているという。

城端線・福野駅、改修された木造駅舎の古い木の部分

 あちこち改修されていても、骨となる木組みは古いまま。風化した木にネジが打ち込まれた様が、武骨でまた味わい深い。

福野駅で折りたたみ自転車を広げ、加越能鉄道旧井波駅跡へ…

 福野駅を訪れたのは、富山最古という駅舎を改めて見てみたいという気持ちもあったが、ここから約5㎞離れた加越能鉄道・井波駅舎を見足りなく、もう一度見ておきたいと思ったからだ。

 前回はバスだったが、今回は自分の折りたたみ自転車で。駅前で袋から出して展開。加越能鉄道加越線の廃線跡の福野-荘川町間の大部分は自転車道に転用された。街中で自転車道の入口を見つけると、井波駅跡まで駆け始めた。

福野駅に戻り宝探し!??

 「加越線が現役だった時代はこんな車窓風景が広がっていたんだな…」
と追想しながら、美しき山々や散居村として有名な田園風景を駆け、福野駅に戻って来た。時間があったら福野のレトロな街並みも再訪したかったが。その時間は無くなった。また今度来ればいいが、今度まで残っているかどうか…

南砺市福野、夕方前の福野駅、駅前で待つ人々。

 10月も終わりになると、日が傾くのが早くなる。まだ明るいが、日はもう夕方の色を帯び始めていた。

 午後1時過ぎに福野駅に降りた時、駅は閑散としていたが、人々の帰宅時間が近づき、駅には人の姿が増え始めていた。

富山最古の明治の木造駅舎残る福野駅、古い建物財産標

 列車待ちの間、ホームをふらふらしていると、駅舎の壁に古い建物財産標が掛けられているのを発見。かまぼこ板のような木の板に、縦長で「停 第一号」と標され、建物財産標の中では最も古い部類のものだ。もう少し後の時代になると、小さな鉄のプレートに「停車場 本屋 1号」と表記される所。

 意味的には駅にいくつかある建物の中で、メインの建物という事を表している。

福野駅舎に秘かに残るNHKの古い放送受信章

 建物財産標の下には、ペンキで木材ごと塗りつぶされた小さな丸いプレートがあった。よく見ると
「放送受信章 NHK」と標されていた。古い家の玄関には、NHKと契約している事を表す小さなステッカーが貼られている事をよく目にするが、その昔バージョンだ。これはTV放送が始まった後のもので、更に細かく言うと、ラジオのみの契約だとこの受信章だったようだ。福野駅の歴史感じさせる逸品で、願わくばペンキを丁寧に剥がし復元されないものだろうか。

JR西日本城端線、福野駅に入線したキハ40の高岡行き列車

 やってきた高岡行きの列車に乗り込んだ。

 無人化、経営移管など、今度福野駅に来る時は色々と変化しているのだろう。だけど、この明治の駅舎はそのままであってほしい。

[2023年(令和5年)10月訪問](富山県南砺市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

.last-updated on 2024/01/15