記念碑が残された廃れた池庭
山陽本線・柳井駅で、寝台特急はやぶさ・ふじ号から下車し、一駅戻り柳井港駅(やないみなとえき)にやってきた。
愛媛県・松山の三津浜港行きの船に乗る前の僅かな時間、駅を観察していた。すると駅舎横のトイレの前に、枯池があるのを発見した。
レンガで縁取られた台形状の直線的な形状で、真上には藤棚が配されている。洋風っぽいと言え、駅の池では珍しいタイプだろう。洋風と言っても、瀟洒な感じはせず素っ気無く、浴槽っぽいとも言える。だけど藤の花が咲いた時は風流なのだろう。
台形状の池の先端には、レンガの小さな碑が設置されていた。刻まれていた文字を見ると
「柳井港駅 急行停車記念
昭和四十三年十月一日」
と書かれていた。昭和43年10月…このダイヤ改正は、白紙ダイヤ改正と言われるほど大規模なもので、国鉄が「ヨンサントオ」と称し広く広報活動を行ったという。そのヨンサントオ白紙ダイヤ改正により、柳井港駅に急行が停車するようになったのを記念して造られた記念碑で、同時に、記念碑の一部のような形で池が造られたのだろう。
柳井市内にある駅としては、隣の柳井駅の方が市街地にあり中心駅と言える。それなのになぜ優等列車をわざわざ柳井港駅に停めたのだろうと思う。恐らくは、柳井港から出る松山行きなどの船舶への乗換客を見込み、四国への交通手段として、連絡船のような利用を期待して急行を停車させたのではないだろうか…
しかし今現在、柳井港駅に停車するどころか、通過する定期の急行列車さえも無くなってしまった。
モニュメントは噴水のような排水設備でもあったようだ。池の水が抜かれてしまった今でも、壊れてしまったためか、碑の頂上からはチョロチョロと水が流れ出て、モニュメントを伝い濡らし、池の底の排水溝まで続いていた。
「急行停車の喜びも今は昔…」
枯れ上がったがった池を見て、そんな古文のような1節が、ふと心の中を過ぎった。
[2005年(平成17年)6月訪問](山口県柳井市)
6年後…
駅に残る廃れた池庭の跡「枯れ池」に興味を持ち出した頃に偶然発見し、印象深かった柳井港駅の枯池をもう一度見てみたいと思っていた。そして6年振りとなる2011年の夏に再訪を果たした。
相変わらずあの池跡とヨンサントオの急行停車記念碑はあった。しかし、池は土で埋められ砂場のようになっていた。夏の盛りなのに、あの時生い茂ってい植栽はほどんどなく随分とさっぱりとしたものだ。これを見た人は、廃れた花壇があるとしか思わず、よもや池だったとは想像だにしないだろう。夜で足元が暗くなり、落ちて怪我をする危険があるため埋めたのだろうか…。かと言って、費用を掛けてまで壊す程でもないので土で埋めたのだろうか、ヨンサントオ白紙ダイヤ改正の記念碑を壊すに忍びなかったのかもしれない。
記念碑の上に注水設備があった事は前回に気づいていたのだが、改めて周辺を観察してみると、それが思わぬ物であった事に気づいた。
記念碑の裏手を何気に見てみると、人形の首が転がっていてドキッとさせられた。更に回りを見ると、30センチばかり離れた所に、胴体も枯葉の上に寝かされたように置されていた。胴体の方をよく見てみると…、小便小僧だった。
いくら人形とは言え、首と胴体が引き裂かれたままの姿を見てしまうと、まるで殺人事件の第一発見者にでもなったような、一瞬心が凍りついたような心境に陥った。恐らく、私が前回訪問した6年前から…、いや、もっと前から、ずっとこのまま放置され続けているのだろう。壊れてなお微笑みを浮かべる小便小僧が不気味さをより印象付ける。そして、かつて駅利用者が和ませたであろう者の忘れ去られた末路だと思うと、何と哀れなと思わずにはいられなかった。
[2011年(平成23年) 7月訪問]
柳井港駅訪問ノート
駅は1929年(昭和4年)の開業だが、現在の駅舎は1970年(昭和45年)築。高度経済成長期に量産されたといった感じの国鉄型コンクリート駅舎だ。無人駅だが、私の初訪問のちょっと前の2005年の3月31日までは、業務委託とは言え有人駅だった。
前述の通り、すぐそばに柳井港(やないこう)がある。松山・三津浜港行きのフェリーを中心に、周辺離島への航路も運行されている。
三津浜港から先はバスで松山市内に行く事ができる。鉄道だと伊予鉄道の三津駅が最寄駅になるが。ただ、徒歩で約15分掛かるため、やや利用しづらい…
しかし、連絡船的に船を使って瀬戸内海を渡るのも悪くないと思い、あえてこのルートで四国を訪れた事がある。その時の訪問記の一部は以下へどうぞ。
『三津駅(伊予鉄道・高浜線)~古色蒼然、そして瀟洒な木造駅舎へ…』