和田岬線唯一の中間駅
2001年4月、兵庫駅から和田岬線のキハ35に乗り、運転室後ろから前面展望していると、突如として駅でもない所にプラットホームが現れたのに驚いた。和田岬線に中間駅は無く、もう営業されていない駅という事だけは察していた。家に帰って調べると、そのホーム跡はかつての中間駅、鐘紡前駅だった事を知った。
和田岬線はJR西日本・山陽本線の兵庫駅から、南に2.7km伸びる山陽本線の支線だ。元々は、1890年(明治23年)に山陽鉄道の貨物線として開業し、1906年(明治39年)に国有化された。1911年(明治44年)11月1日に旅客営業が開始されたが、約半年後の1912年(明治45年)4月16日、鐘紡前駅が開業した。
鐘紡前駅は、鐘紡=カネボウという名前から察せられるように、鐘淵紡績の兵庫工場の最寄駅として設けられ、工場の従業員で賑わったという。だが第2次大戦中の空襲により、鐘紡兵庫工場は操業不能、廃止という道を辿った。
鐘紡前駅も、1947年(昭和22年)頃、休止となったとの事。そして、1962年(昭和37年)3月1日、正式に廃止された。それにしても廃駅後40年を過ぎた現在でも、その痕跡がよくぞ残っていたものだ…。
ホームの痕跡が残る鐘紡前駅跡
初めて鐘紡前駅を目にしてから1年と数ヶ月、再び和田岬線の兵庫駅に立った。電化され、車両はあの頃とは違い、今は103系となっている。
和田岬駅に着くと、バラストの上に、灰色のような液体が付着しているのが目に入った。これは、この近くの「神戸ウイングスタジアム」が2002年のサッカーワールドカップの試合会場の1つで、フーリガンがバラストを投げ暴れるのを防ぐため、バラストを特殊な液体で塗り固めたものだ。
前回、和田岬線を訪問した後、車内から見た巨大なスタジアムを思い出しながら、ホーム跡がしっかり残る鐘紡前駅跡をワールドカップ会場の最寄駅にできないだろうかと想像していた。もちろん、いち鉄道ファンのそんな想像が実現される筈もない。それどころか、大量の観客をさばけず混乱するという恐れから、試合当日の夕方、和田岬線の列車の多くは運休となってしまた。そして、懸念されたフーリガンの暴動は幸いにも発生しなかったとの事だ。
和田岬駅の滞在を程ほどにし、夕日が容赦なく照りつける中、レール沿いに引き返すように街中を歩き、十数分で鐘紡前駅跡に到着した。
前回、和田岬線を訪れた時は、一目でプラットホームと解かるものがあった。しかし現在、ホームの上部は切り崩され、ホームの痕跡を留めるだけになってしまった。建物の壁際に、土を盛った長細い空間が、レール沿いに伸び、その下に埋もれているように、ホームの痕跡の細長いコンクリートが姿を見せている。
ホーム跡反対側のレール横には、もう一本列車が停車できそうな空間があった。側線跡だったと思われるが、もしかしたら留置線、信号所的に使われていたのかもしれない。
キハ35形気動車から置き換えられた103系電車が帰宅する人々を乗せ、廃駅跡には目もくれず駆け抜けていった。
昔は鐘紡の工場だったという駅前は、今は住宅街となっている。だが、無料診療所を起源とする、鐘紡記念病院が駅跡の道路の向こうにあり、この鐘紡前駅の痕跡と共にと共に、当時の名残のように存在している。
[2002年(平成14年) 7月訪問] (兵庫県神戸市兵庫区)