109年の歴史を誇る明治の洋風駅舎、未来へ…

 南海電鉄本線、堺市にある浜寺公園駅と言えば、明治40年(1907年)築の洋風木造駅舎が有名だったが、南海本線の高架化により2016年に109年の歴史に幕を下ろした。しかし、新駅舎前での保存が決まり、高架化工事の真っ最中だ。

 工事期間中、旧駅舎は「曳家(ひきや)」という工法で、解体せずそのままの姿で仮の場所に移動、保存される。

 新駅舎の供用開始は2028年3月の予定という気の長くなるような先の話。それまでの間、旧駅舎は暫定的にカフェやギャラリー、イベントホームとして活用される事になった。

緊張の?曳家工事

 まずは2017年末に行われた曳家の様子から。曳家は11月28日から3回に掛けて行われ、私は最後となる3回目の12月18日に訪れる事ができた。

 浜寺公園駅でホームに降り立つと、旧駅舎はプラットホームから確かに引き離されていて、2回の曳家で移動させられているのを実感。見慣れた風景が様変わりしているに戸惑った。

保存に向け曳家中の浜寺公園駅駅舎

 そして正面に回った。報道されていたので、仕切りの前には人だかりができていた。仕切りの色が透明で、歴史的な曳家工事の様子が良く見られるように粋な配慮がされていた。

曳家で移動中の浜寺公園駅旧駅舎

 旧駅舎は、2回の曳家で、南西の方に移動させられていた。3回目となる今回は、その地点から西側へ移動。

 用地一帯は溝のように掘削され、7線分のレールが東西の方向に敷かれていた。レールは、キャンプファイアーのように組まれた鉄材やら木材の上に敷かれ、その上に旧駅舎が載せられていた。そのレールに沿って移動させるようだ。

浜寺公園駅、曳家をする作業員さん

 1線のレールにつき大体3ヶ所、台車のような鉄材があり駅舎を載せていた。台車のようなと言っても車輪ではなく、鉄の棒のコロが何本も下敷きになっていて、少しずつレールの上を進むたびに、後ろのコロをいちばん前に持ってきて、また前進させ、また後ろのコロを前に…という作業の繰り返し。地震に襲われたらコロや台がずれて、駅舎が崩れ落ちるのではと心配になってくる。そして時間が経ちよく見ると、確かに駅舎はちょっと動いていた。

 地道だけど大胆、そして繊細な作業が無事に完了する事をただ祈った。

生き証人たち

 曳家が無事に終わった約4ヵ月後の2018年4月15日、暫定位置での浜寺公園駅旧駅舎の活用が始まった。私はその約2ヶ月後、「仮の姿」を見に、再び浜寺公園駅を訪れた。

曳家が終わり暫定位置に置かれた浜寺公園駅駅舎

 曳家中は脆そうなレールの上に載せられていたのが、素人目には危なっかしく映ったもの。今はアスファルトでがっちりと固められていた。これが仮の場所とは信じられない位、しっかりと根を下ろしていた。

 そして2016年の1月の使用停止以来、封鎖され、手の届かない所に行ってしまったのような姿を寂しく思ったものだ。正面に駅名看板を掲げていないのが少し寂しい気もするが、貴重な鉄道遺産たる明治の洋風駅舎が、また私達の前に戻って来てくれたのは、ただ嬉しく思う。

南海・浜寺公園駅前、昔からの食堂跡

 初めて浜寺公園駅を訪れたのが2003年。駅前通は狭い道に飲食店などが並ぶ昔ながらの風情だったが、道路の拡張工事などで訪れるたびに風景は変わっていった。

 しかし、この一軒のレトロな食堂だけそのままの姿で残っていた。写真を撮っていると、男性のご老人に話しかけられました。
老「もう、そこやってないのかねぇ」
私「みたいですね。7、8年位前にここで食事した事があるのですが。」
老「ワシは60年前の学生の頃から使っていたがね。ワハハハ」
突然の生き証人の登場にびっくり!!


 さあ…、長かったような、短かったような空白の時をかみしめつつ…、あの駅舎に足を踏み入れた。

浜寺公園駅、ギャラリーになった旧特等待合室

 現在は「浜寺公園ステーションギャラリー」として活用されている旧駅舎の右側部分は、かつての特等待合室。その存在と瀟洒な造りを残しているのは、浜寺公園駅が昔はリゾート地として賑わった頃を思い起こさせる。ギャラリーとして使われているのは、現役時代と同じ。訪問時は、浜寺公園駅や豪邸が建ち並んでいた頃の街並みなど、昔の浜寺の風景が多く展示され、一枚一枚興味深く見た。

 カフェの店員さんの1人が、ヒマなのかギャラリーの方にやってきた。その初老の女性は
「昔はおじいちゃんが駅の東の方に住んでいてね、夏には水着姿のまま海まで遊びにいったものよ…」
と懐かしそうに話してくれた。現在、海側は埋め立てられ面影は無いが、昔は海岸がすぐそこだったそうだ。駅の東側一帯は、今でも大きなお屋敷が多いが、昔はもっとスケールの大きな豪邸が多かったそう。

 立て続けの浜寺公園駅生き証人の登場に、書物で読むより、この駅が更に印象深いものになった気分だ。

歴史薫る駅舎カフェでひと息…

浜寺公園駅旧駅舎、かつてのホーム側

 駅舎の裏側…かつてのホーム側にまわると、上屋が無い状態だった。駅舎とホームが切り離されたのだからこうはなるだろう。今もプラットホームで使われている木造の上屋は古く味わいがあり、旧駅舎の一部とさえ言える存在。工事完了後、部分的にでも移設されたら嬉しいのだが。

浜寺公園駅旧駅舎、イベントホールになった改札・窓口周辺

 かつて改札口や出札口(切符売場)があった駅舎中央はイベントホールとして活用されている。こじんまりとした空間だが、鉄筋で保護されつつ、天井や床に木材が使われているのが心地よい雰囲気。歴史ある明治の木造駅舎へのオマージュを感じさせた。

浜寺公園駅旧駅舎、出札口跡

 おお!出札口が昔のまま残っていた!かつては掲示物に覆われていたが、鉄骨を並べて形づくられた金銭受けがあるのには気づいていた。でも窓部分まで木枠だったとは驚かされた。そして、こうして日の目を見るとは…。

カフェとして活用される浜寺公園駅旧駅舎

 そして駅舎左側の駅事務室跡にオープンした「カフェ駅舎」に入った。やはりこちらも元の造りを活かしつつ、木材が多用された心地よい空間。地元の図書館から本が提供され、店内はちょっとした図書館のような雰囲気。絵本が多く、小さな子供とも気軽に来られそうだ。

堺市、南海浜寺公園駅旧駅舎のカフェ

 私にはやはり、出札口裏側のこのテーブルが特等席。コーヒーとシフォンケーキを頂いた。

 食べ物はトースト、ピザトースト、ケーキ1種類と豊富ではなく、飲み物も多くは無い。しかし、コーヒーは300円、ケーキセットは500円と良心的な価格設定。自治体である堺市など、色々な非営利団体が関連しているからなのだろうが、駅舎保存のため、もっと取ってくれても全然構わない。気軽に来られる雰囲気と値段設定で、地元の人を羨ましく思う。

もうすぐ失われるだろう周辺の雰囲気を感じつつ…

 カフェを後にし、しばらく駅舎の撮影をすると、浜寺公園駅訪問の締めにと、駅前の老舗和菓子屋・福栄堂で浜寺名物の松露だんごを買った。

浜寺公園駅前、福栄堂の松露だんご
堺市、南海浜寺公園駅前

 そして、駅前マンションのベンチに座り、旧駅舎を眺めながら買ったばかりの団子をいただき、まったりとした時を過ごした。

 それにしてもベンチでのんびりと浜寺公園駅の旧駅舎を眺められたり、先程の食堂と絡めて写真が撮られるのも、曳家後の仮の場所ならではの楽しみだ。

工事中の浜寺公園駅、古い上屋の新しい木の柱

 離れがたく惜しみつつ帰路につこうと3番線で列車を待った。まだ木造の上屋が健在で、旧駅舎が接していた部分には、木の柱が新たにあてがわれていた。柱からはかすかに新しい木の香りが漂ってくる。それにしても、こんな所にもわざわざ木の柱を使うとは…。仮設だから鉄パイプにでもしていけばと思うのだが、並々ならぬこだわり。歴史ある駅への敬意を感じさせた。

 だけどこの新しい木の柱も、工事が進行すれば不用になるはず。もったいないなあと思うが、もしかしたら新駅舎か旧駅舎の上屋を再現するなど、どこかで使いまわされるのかもしれない。


 今度、訪れる時も、また風景が変わっている事だろうなと思い、離れゆく列車から浜寺公園駅を眺めた。

[2018年(平成30年) 6月訪問](大阪府堺市西区)

レトロ駅舎カテゴリー:
私鉄の保存・残存・復元駅舎

大都市・京都の街中の木造駅舎

 ある日の午後、京都駅からJR奈良線の普通列車に乗った。車内は地元民よりも、色々な国の人が目立ち混み合っていた。外国人観光客が急増する日本有数の観光地である京都を象徴するような風景に身を置き列車に揺られた。

 伏見稲荷の最寄りの稲荷駅で大量の観光客が下車すると、二駅で桃山駅だ。

JR奈良線、工事中の桃山駅ホーム、205系と221系電車

 奈良線はほどんどの区間が単線で、桃山駅は列車交換ができる2面3線の構造を有していた。しかしホーム改修工事の真っ最中で、将来は2面2線になるとの事。

 周りはマンションが住宅が立ち並ぶ。列車が発着すれば、多くの人々がぞろぞろとプラットホームと木造駅舎との間を行きかう。南端とは言え、日本有数の都市の京都市内の駅らしい光景だ。

 そんな桃山駅だが、1世紀昔の大正元年(1912年)は、明治天皇の大葬列車の到着駅として選ばれた格式高い駅なのだ。9月13日に大葬の儀が執り行われた後、14日の深夜、青山仮停車場を発った列車は夕刻に桃山駅に到着し、北東約1kmの伏見桃山稜に厳かに埋葬されたという。

 第二次大戦以前は御陵への参拝客で桃山駅は大変にぎわい、御陵に近い北側にも出入り口が設けられ御陵口と呼ばれていた。

JR奈良線・桃山駅ホームの桜の木、散り果て葉桜となった…

 2018年は桜の開花が全国的に早まり、3月下旬だと言うのに、車窓から眺めたいくつもの染井吉野は、葉がもう見え始めていた。桃山駅の桜も既に葉桜と化し、ただ、無機質なアスファルトをピンク色に染め上げていた。

JR奈良線・桃山駅、重厚で歴史感じさせる1番ホームの木造上屋

 駅舎は改修されているが、木造の上屋は木のままの古いものが使われている。街中で昔からそれなりに利用者がいたのか、上屋は高く広々としている。歴史感じさせる建物の下を、大人々が行き交う光景は、閑散とした田舎のローカル線の駅を見慣れた私には斬新で、また違った古き良き味わいを感じさせた。

JR奈良線・桃山駅、古い木造トイレ

 駅舎の影にひっそりとトイレが設置されていた。田舎のローカル線にありそうな木造モルタルの年代モノで、駅舎よりも古さを感じさせる。さすがに中は新しいものに交換されているのだろうが。

JR奈良線・桃山駅、駅名標と1番ホーム沿いの桜並木

 駅南端の1番線ホーム沿いには何本もの桜が植えられている。正確には隣接する老人ホームの敷地内に植えられているのだが。枝はまだ背が低くか細い。もう十年もすると、この下で花見をしたくなるほど、見事に成長しているのだろう。

JR奈良線・桃山駅、自動信号化1万km達成記念標識

 1番ホームには、国鉄が設置した「自動信号化1万km達成記念標識」なる小さな記念碑が置かれていた。日付は1975年11月18日と標されていた。

JR奈良線・桃山駅、木造トイレの窓は古い木枠でダイヤ状パターン

 また何気にあの古いトイレを見てみると、窓がとても個性的で変わった造りをしているのに気づいた。窓枠が木なのだが、ガラスではなく、いくつもの木の棒が斜めに組まれ、ダイヤ状の模様が作りあげられていた。駅のトイレはつぶさに見ていたわけではないが、かなり珍しいデザインなのではないだろうか…。少なくとも現存する古トイレの中では。

 デザイン性とレトロさのある洒落た窓だ。しかしなぜこのような形状なのだろうか…。おそらくこのトイレが出来た当時は、ガラスが高価で、気軽に使えるような時代でもなかったのだろう。また、多少なりとも換気の必要はあったが、窓を全開みたいな形にしておくと、外の乗客にも臭いが漂ってきそうで嫌に思える。また、トイレを使う方も見えそうで、落ち着いて用を足せない。そこで臭気対策をしつつ遮視性や人々の心理も考慮し、このようなデザインになったのだろう。何と機能的でデザイン性も高いのだろうか!

 もっとじっくり見たかったが、カメラ片手にうろうろしていると、本当に変質者扱いされかねない。ここは人目の多い駅だ…。

JR奈良線・桃山駅、駅舎改札口と待合室

 都市圏の駅らしく、イコカ対応の自動改札機が置かれている。利用者は多いが、列車本数も1時間に何本もあり、駅に滞留する人は少ないのだろう。ベンチは数脚しかなかった。

京都市・伏見区、JR奈良線・桃山駅の木造駅舎。1935年(昭和10年)築

 駅舎を撮影したいが、真正面に飲料業者のトラックが止まり、駅の自販機に商品補充中だ。仕方ないので右側の駐車場から前景を撮影した。

 駅舎は明治天皇の大喪列車が到着した大正元年(1912年)当時のものではなく、昭和10年(1935年)に改築された駅舎だ。木造モルタルの駅舎は、大柄で立派だ。車寄せの下に何か小室が設置されている。昔はキオスクでもあったのだろうか?

jR奈良線・桃山駅、枝垂桜とウグイス色の103系電車と枝垂桜。

 跨線橋下の枝垂桜は今が満開だ。ウグイスと桜…、京都で愉しむと、いっそう雅やかな心地がするものだ。

JR奈良線・桃山駅、改修された木造駅舎に古い上屋が風格を添える。

 待ったのだが、飲料業者のトラックがどく気配は無かった。もうまとまりよく正面から撮影する事はあきらめ、別の角度を探した。木の上屋がやはり印象的なので、上屋を絡め左横から前景をおさめた。改修され古さを感じさせない大柄な駅舎だが、使い古された木の上屋が寄り沿い鎮座する様は、現代の街並みの中で古駅舎の風格はいまだ失っていない。そして、まるで駅が長い年月を語り掛けているかのように私の目に映った。

[2018年(平成30年)3月訪問](京都市伏見区)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星駅舎

桃山駅・基本情報+

鉄道会社・路線名
JR西日本・奈良線
駅ナンバー
JR-D05
駅所在地
京都市伏見区桃山町鍋島34番地
主な歴史
1895年(明治28年) 11/3
奈良鉄道が伏見駅から延伸し桃山駅が開業
1905年(明治38年) 2/7
合併により関西鉄道の駅となる
1907年(明治40年) 10/1
関西鉄道の国有化
1912年(大正元年) 9/14
明治天皇の大喪列車が到着.
1935年(昭和10年)
駅舎改築。現駅舎竣工
1987(昭和62) 4/1
国鉄民営化、JR西日本の駅となる。
駅営業形態
業務委託駅
その他
JR奈良線の前身・奈良鉄道の元々のルートは、現在の近鉄京都線の京都‐近鉄丹波橋間で、そこから桃山駅に至っていた。現在の稲荷‐京都間は、元々、東海道本線の一部だった。
1921年(大正11年)、東海道本線に新逢坂山トンネルが完成すると、同線の馬場駅(現在の膳所駅)‐京都駅間は現在のルートに切り替わった。東海道本線旧区間の内、稲荷‐京都間は奈良線に編入の上、稲荷駅‐桃山駅の区間が新規開業し、現在の姿となった。
それにより従来の奈良線区間であった京都‐伏見間は廃止された。伏見‐桃山間は貨物線として残ったが、1928年(昭和3年)に廃線となった。
廃止された奈良線の旧区間を利用し、奈良電気鉄道が1928年(昭和3年)に開業し、現在は近鉄京都線となっている。

常願寺川沿いに建つくすんだ無人駅

 いくつもの富山地方鉄道の木造駅舎を訪れてきたが、まだ未訪で気になっていた立山線の千垣駅で降り立った。平行する県道6号線と、常願寺川の間に立地する駅だ。立山へあと少しとなった鉄路は、ここまで来ると景色は山深くなり、駅前とはいえ人家もまばらだ。遠く先には、まだ雪を被った山々が見えた。

富山地鉄立山線・千垣駅

 今は1線分のレールと、プラットホームの上に駅舎と小さな倉庫があるだけの棒線駅だが、かつては反対側にもホームがあったようだ。枯草や枯木に埋もれながらも、その痕跡を色濃く残している。

富山地鉄・千垣駅、駅舎ホーム側

 木造駅舎は古色蒼然とし、趣きある佇まいだ。かつては明るいクリーム色に塗られていたようだが、年月にそぎ落とされくすんだ色彩と化し、少々、荒れた雰囲気だ。

富山地鉄立山線・千垣駅の木造駅舎

 駅舎の外に出た。斜面の狭い土地を切り開き建てられた縦長の小さな駅舎で、右横の妻面に出入口が設けられている。道路からは階段を数段下りなければいけない。道路と常願寺川に挟まれ、余裕の無い敷地に何とか駅舎を建てたのだろう。

 これと言って際立った造りは無い地味な建物で、ただ古色蒼然とした佇まいが印象的だ。

 こんな小さな駅でも、1923年(大正12年)、富山県営鉄道として横江駅(後の上横江駅、廃駅)から延伸開業した時は終着駅だった。千垣駅から先にレールが伸びるのは14年後の1937年(昭和13年)だ。

富山地鉄・千垣駅、トタン張りの駅舎

 道路側の壁の多くがトタン板で覆われ、窓までも板で塞がれている。県道6号線を飛ばすドライバーからは、ただの廃屋にしかか見えないかもしれない。

 千垣の集落中心部は、駅から西に約数百メートルの所にある。駅周辺には、西側に家屋が少し見える程度で、駅は集落の外れにあるといった感じだ。これと言ったモノは無く、ちょっとした秘境駅の趣きさえ漂う。

富山地鉄立山線・千垣駅、右読みの古い駅名表記

 駅舎をよく見ると、道路川の屋根側面に「千」「垣」「驛」と、一字毎に板に書かれ壁に埋められた駅名の看板があり、ここが駅だという事を主張しているかのようだ。駅が旧字で、右読みなのがレトロさを感じさせる。かなり古い表記で、戦前からのものなのだろう。

 隣の有峰口駅にも、 同じような駅名表記がある。そちらも古いもののようで、「小見駅」と1970年(昭和45年)の改称前の駅名のままだ。

終着駅だった頃の面影??

少し周辺を歩いてみようと、道路を立山方に向かって歩いた。

富山地鉄立山線・千垣駅、埋もれた駅施設跡?

 緩い坂道を上ると、すぐに立山線のレールを見渡せる位の高さになり、レールを剥がされた番線や廃ホーム跡を見下ろせた。

 廃ホーム跡の背後には、枯れ草で覆われた土地が広がっていた。その中にもホーム跡らしき構造物があるのに気付いた。廃ホームは一部が途切れている箇所がある。この辺りにも分岐ポイントがあり、こちら側からも奥の側線ホームに出入りしていたのかもしれない。

 これは…、駅本屋こそ小さいが、かつてはかなり広い構内を有していたようだ。千垣駅を出た列車は、有峰口駅に至る手前、常願寺川を鉄橋で渡る。1923年(大正12年)から1937年(昭和13年)の14年間、立山線は千垣駅から先に進む事ができなかった。それは、当時の技術では橋を掛けるのは難工事で、旅客駅としてはそれ程重要ではなくても、延伸工事の拠点として、需要な駅だったのではないだろうか…?もしかしたら延伸後も、1955年(昭和30年)、千寿ヶ原駅(現:立山駅)へと全通するまで、工事の拠点として機能したのかもしれない。

 厚い雑草でほぼ埋め尽くされたこの地には、かつて詰所や宿舎、車庫、倉庫など色々な関連施設があったのかもしれない。雑草を全部取り除いて痕跡を確認したいものだ。

富山地鉄立山線、常願寺川に掛かる千垣橋梁。

 しばらくすると道路は右にカーブし、常願寺側を渡る芳見橋に至った。右側に立山線の千垣橋梁が見えた。川面から28mの高さの鉄橋は柵も無く、丈夫なれど細い鉄骨で汲まれた鉄橋は、素人目には綱渡りように脆く危なっかしく映る。今までこんな所を渡っていたのかと、身震いする心地だ。もちろん安全なのだが。

 立山線延伸の1937年(昭和12年)に竣工した千垣橋梁は、2013年(平成25年)に土木学会の選奨土木遺産に認定された。

 千垣橋梁の反対側を向くと、常願寺川の流れの向こうに、立山連峰の山々がそびえていた。雄大な眺めにしばし見入った。

芳見橋から有峰口駅を眺める。

 そして、対岸すぐの所に、隣の有峰口駅があるのが見えた。ここから歩いてもたいして掛からないだろう。2回訪れた事がある懐かしい駅の姿だ。

富山地鉄立山線・千垣駅、待合室

 駅に戻り待合室で一休みだ。壁の大部分が木目プリントのベニア板で改修されているが、全体的に昔のままの趣を留めいてる。古さはあるものの、掃除と補修は良くされていて不快さは無い。出札口も板一枚で塞がれているが、元の造りを残していそうだ。

 窓は外から見ると塞がれているが、元の造りを残している。何も塞がなくてもいいのにと思うのだが、積雪で割れるのを防ぐついでに、年中付けっぱなしなっているのだろう。

富山地鉄立山線・千垣駅、待合室の木製ベンチ

造り付けの長椅子は古い木製で、すっかり使い古され幾重もの木目が浮かび上がっている。座ろうとしたが、ガラス窓が、背中に当たりそうで、一瞬躊躇した。そのためか、窓の手前の背中の位置に、柵が設置されている。

千垣駅前に停車した芦峅寺行きの立山町営バス

駅前にマイクロバスが停車した。2kmほど東の、立山博物館や雄山神社、登山者向けの山荘などがある芦峅寺地区へ行く立山町営のバスだ。時刻表を見ると、1時間半~2時間に1本あり、こんな小さな駅に乗り入れるバスとしては本数は多い方だ。但し日曜日は運休のようだが…。

 駅にはいつの間にか、30代位の1組のカップルがいた。バスの乗客で、この駅から列車に乗るのだろう。

富山地鉄・千垣駅。元京阪の10030系電車

やってきた列車に乗り千垣駅を離れた。車両は元京阪3000系電車の10030系電車だった。

千垣駅の1日の平均利用者数は、2015年度だと113人と意外と多く、2004年からほぼ変わっていない。ローカル線の小駅は、少子高齢化の影響で2000年代前半から利用者数が大きく減少している駅も多い。山間の寂れた駅と侮っていたが、意外と健闘している。地元住民の他、季節による増減はあるが、バス利用の登山者や観光客の利用が一定数あるのだろう。

 観光客を立山へと繋ぐ千垣駅。富山地鉄の魅力をアピールする駅として、駅を趣きある雰囲気を尊重し、もう少し奇麗に改修できればと思う…

[2017年(平成29年) 4月訪問](富山県中新川郡立山町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 私鉄の二つ星駅舎

千垣駅・基本情報+

鉄道会社・路線名
富山地方鉄道・立山線
駅所在地
富山県中新川郡立山町千垣156
駅開業日
1923年(大正12年)4月20日、富山県営鉄道の駅として。
駅舎竣工年
??
駅営業形態
無人駅
その他
立山町営バス(千垣駅発着の芦峅寺線の時刻も。)

源平の古戦場に佇む明治の木造駅舎

 富山県の県境がすぐ近くにある石川県東端の駅・倶利伽羅駅で下車した。北陸新幹線開業でJR北陸本線が第三セクター鉄道化された区間、IRいしかわ鉄道とあいのかぜ富山鉄道の境界駅で、前者が管理する駅だ。

IRいしかわ鉄道・あいの風とやま鉄道・倶利伽羅駅ホーム

 特急白鳥、トワイライトエクスプレス、特急しらさぎ、寝台特急日本海、急行きたぐに、419系の普通列車…、北陸本線時代から何度も通り過ぎた道だが、こうして下車したのは初めてだ。

倶利伽羅駅の跨線橋の階段、倶利伽羅峠の戦いにちなむ源平の家紋

 駅舎に行こうと跨線橋の前に立つと、ステップの側面に大きく描かれた二つの家紋が目の前に現れた。駅の近くには源平の合戦の1つ、1183年の倶利伽羅峠の戦いの古戦場に近い。低いところに源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)、少し上った所に平家の家紋である揚羽蝶(あげはちょう)があしらわれている。

倶利伽羅駅、ホームと駅舎の間の北陸本線旧線跡

 ホームと駅舎の間は、不自然に離れている。かつて両者の間に北陸本線の旧線が通っていた名残の空間で、アスファルトで埋められた中から、僅かに旧線ホームの造りが姿を覗かす。

IRいしかわ鉄道・あいの風とやま鉄道・倶利伽羅駅、明治築の木造駅舎

 倶利伽羅駅の木造駅舎は駅開業の明治41年(1908年)12月16日以来のものがいまだ現役だ。しかし大きく改修されていて、まるで近年に建てられた駅舎のようだ。

 駅から坂を下れば集落があるらしいが、周辺は山中のような風景でひっそりし、ちょっとした秘境駅の趣漂う。

倶利伽羅駅の木造駅舎、垣間見える古い木の造り

 おそらく外壁の板張りは新しいものに変えられたり、窓の柵も後付されたものなのだろう。しかし改修された駅舎からは、昔のままの造りの古い木材が垣間見える。茶色くつやつやしたペンキの下にはいくつもの木目が浮かび上がっていた。

倶利伽羅駅の木造駅舎、待合室

 待合室もすっかり改修され、昔を感じさせる面影は無かった。無人駅で小高い山に囲まれた風景もあって、駅に私以外の人の気配が無い駅の待合室はどこか殺風景な空気感さえ漂う。

倶利伽羅駅の木造駅舎、古い質感の軒と柱

 つぶさに見ると、軒や柱、骨組みとなっている木材など、使い込まれた木材のままだ。新築のような駅舎だが、古くから使い継がれている建物らしさはしっかりと隠し持っているもの。明治という長い歴史を垣間見た気分だ。

[2017年(平成29年) 4月訪問](石川県河北郡津幡町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星駅舎

映画・鉄道員(ぽっぽや)ロケ地の駅、廃止!?

 2016年10月下旬、JR北海道が特に利用の少ない3線区の廃止・バス転換を協議する方針と、各種メディアが報じた。札沼線の北海道医療大学‐新十津川間、留萌本線の深川‐留萌間と共に明らかにされたのが、根室本線の富良野‐新得間だ。

 この発表を受け、ドラマ「北の国から」ファンと、映画「鉄道員(ぽっぽや)」ファンから落胆の声が上がった。…と言うのも、「北の国から」第一話で、東京から移住してきた黒板五郎一家が新天地・富良野での第一歩を標したのが布部駅。そして幌舞線の終着駅・幌舞駅として「鉄道員」の舞台となったのが幾寅駅だからだ。この両駅は、まさに廃止の方針が公表された根室本線の富良野‐新得間にある。2大ロケ地、いやファンにとっては伝説的な聖地が失われる報道は大きな衝撃となった。

 「鉄道員(ぽっぽや)」は、鉄道員として愚直に、そして不器用に生きた佐藤乙松の、心の底の悔恨と最期の奇跡が心に沁みる作品だ。私も映画館で見て、終盤では、いつの間にか涙を流していたものだ。演じたのは大俳優・高倉健だ。

 ロケ地となった幾寅駅は、ほとんどのシーンがこの駅で撮影さたと言っても過言ではない。まさに高倉健や広末涼子に次ぐ主役級の存在感を放っていた。鉄道員ロケのために、木造駅舎は先祖がえりのようにレトロ調に改修され、周囲には昭和レトロに満ちたオープンセットも建てられた。これらセットは今も残され、幾寅駅は南富良野町の観光資源になっている。


 根室本線の休止区間は、思えばこの前行ったのはいつだったか直ぐに思い出せない程、前の事だった。かなり改修されているものの、木造駅舎もいくつか残っているので、久しぶりに行きたいと思っていた。

 2016年8月末台風の被害で運休になっていたので、復旧してから久しぶりに列車でと思っていた。しかしその矢先、廃止の方針が発表された。廃止するつもりの路線を、満身創痍と言える経営状態のJR北海道がお金をかけて、あえて復旧させるものなのだろうか?もう「復旧してから」というのは無いのかもしれない…。ならば、例え列車が来なくても、まだ駅が駅である内に、訪れたいと強く思うようになっていた。

ロケのためレトロに改装された木造駅舎

 根室本線の列車代行バスで終点となっている落合駅まで行った。できれば新得まで行ってほしいものだが、ここから先の新得へ行く手段は絶たれている。運休にもかかわらず、代行バスが運行されないとは、普段から落合‐新得間の需要が著しく少なく、廃止が浮かび上がる現実をまざまざと見せ付けられる気分だ。

 すぐに落合駅を折り返し1駅、代行バスは幾寅駅に停車した。待合所となっている駅舎からは、数人の中高年の人が出て来て、私と入れ替わりバスに乗った。

根室本線、映画「鉄道員」ロケのためレトロに改修された幾寅駅舎

 恐らく十五年振りに、根室本線の幾寅駅に降り立った。いや、幌舞線の終着駅・幌舞と言った方がしっく来るような気にさせられる…。駅舎正面に大きく掲げられた駅名看板は、映画・鉄道員(ぽっぽや)のシーンのままに「幌舞駅」で、大仰な駅舎の片隅に「JR幾寅駅」と控えめに掲げられいる。

 現在の駅舎は1933年(昭和8年)、先代駅舎が焼失してしまった後に建てられたものだという。後年、外壁が新建材で覆われるなど、新築風の建物に味気なく改修された。だが鉄道員撮影のため、まるで開駅当時からの駅舎かと思う程、徹底的にレトロ調に改修された。

 木の造りは味わい感じるが、セットという事を知っていると、他の木造駅舎とはなんか違うよなと思えてしまう。それでも、屋根が真っ直ぐでなく、途中で軽く内側に折れている「腰折れ屋根」はセットとして改修される前からの元々の造りだ。腰折れ屋根は由仁駅旧駅舎や銭函駅など、北海道の古い駅舎でよく見られる形で、さり気なく古い造りを残しているのに魅かれる。

幌舞線の終着駅・幌舞駅こと幾寅駅、ロケ地となった木造駅舎、

 幌舞駅のロケセットとは言え、そのまま幾寅駅の駅舎として使われ続け15年以上過ぎている。その年月が刻み込まれたような木造駅舎は古び、味わいを宿すようになった。できる事なら、鉄路とともにこの風景の中にあり続け、歳をとって欲しい。今となっては悲痛な願いなのだろうか…。

南富良野町、根室本線・幾寅駅前。映画・鉄道員のオープンセット

 駅前に目を転じると、駅を取り囲むように、商店、食堂、理髪店など鉄道員のために作られたオープンセットが建ち並んでいる。レトロな建物が並ぶ風景は、まるで何十年前の昭和の駅前に迷い込んだかのような心地に陥る…。

鉄道員(ぽっぽや)ロケ地、根室本線・幾寅駅。セットの一つ、だるま食堂。

 オープンセットの一つ、木造建築のだるま食堂も、まるで半世紀以上昔から、この地に佇んでいるかのように古び、駅前の風景の中に溶け込んでいる。

 中がとうなっているか、窓越しに覗いてみた。すると、荒れ果てたがらんどう状態で、まるで打ち棄てられた倉庫のような雰囲気だった。外観だけ再現したといった感じだ。折角、雰囲気ある建物なので、食堂としてでなくても、何かで活用できれば、より面白いと思うのだが…。

根室本線・幾寅駅、鉄道員(ぽっぽや)ロケのためレトロ調に改装されたキハ40

 駅舎から少し離れて、作中に登場したキハ40形気動車が静態保存されていた。鉄道ファンの私としては、半分にカットされているのが、グロく残酷のような気もするが、色艶ある塗装で大切にされている様子が覗える。

 この車両、より旧型の国鉄気動車・キハ12形に似せるため、客室の窓をバス型の窓にしたり、正面部分などが改造された。駅舎同様にこだわりを見せたものだ。

 撮影終了後は臨時列車「ぽっぽや号」や、定期の普通列車として運転されていた。かつて幾寅駅を訪れた時は、擦れ違った列車がこのぽっぽや号で、乗車できなく残念な思いをしたものだ。しかし「ぽっぽや号」の任を解かれた後は、他の線区にも顔を出すようになった。2004年、石北本線の西女満別駅から2両編成の普通列車に乗車した時、後ろに連結されていたのがこの車両で、短区間だが運良く乗車できた。車内には鉄道員主要キャストのサイン色紙が飾られていたのを覚えている。

根室本線・幾寅駅の木造駅舎、軒は古い木のまま…

 待合室を通らず、外からまわり込み、駅舎のホーム側に出た。ホーム側も昔の木造駅舎の雰囲気が見事に再現されていた。でも、屋根裏面の木材の古び具合は、ロケのために作られたであろう壁とは明らかに質感が違う。長年、使い込まれ、深く渋い茶色に変化した木は、たかがセットと軽んじていた私に、この駅の歴史を印象付けた。

 プラットホームは駅舎より高い位置にある。運休が続き、誰も行こうとする人が居ないためだろうか…。目の前の階段は雪ですっぽり覆われ、僅かに階段の形を残すばかりだ。思い切って、雪の階段に足を一段一段と振り下ろしながらホームへ上がった。

根室本線・幾寅駅の木造駅舎、ホームからの風景

 ホームから眺めた駅舎はより大柄で、ずんぐりとした印象だった。倉庫のようなものが棟続きとなっているのが、他の木造駅舎では見られない造りだ。確か駅長宿舎という設定だったような…。

 こちら側の方が塗装の剥げが大きく、木の質感が露わになり、より木造駅舎らしい雰囲気だ。

JR北海道。運休中の根室本線・幾寅駅プラットホーム

 運休中のホームは誰の足跡も無く、一面真っ白の雪原のようになっている。そこに私の足跡をつけるのが、何か申し訳ないような気分にさせられる。

 配線は1面1線の棒線駅の構造だが、昔はもう1本ホームがあったという。それにしても、ホームだけでなく、レールまでも雪で完全に埋もれた様が、そして列車が来ないのがこんなにも寂しいものなのか。近づく廃止の足音…。冬の晴れ間、空は青く澄み渡り太陽の光が眩しいほどに降り注ぐ。しかし、気分はどこか晴れない…。

 よく見ると、子供より小さな足跡が、積もった雪に消されそうになりながらも点々と残っていた。駅に遊びに来た犬かキタキツネだろうか。足跡は構内を横切りどこかに消えていた。

幌舞線の終着駅…今も鉄道員の息吹き感じる駅

JR北海道・根室本線・幾寅駅の木造駅舎、待合室

 一旦、改修されたであろう室内も、木材をふんだんに使い、レトロ調に改修されている。しかし、セットとして改修されたとは言え、待合室は現役で立派に駅としての役割を果たしている。ベンチには座布団が一枚一枚びししりと並べられ、列車が来ない今も人の温もりを感じさせた。

根室本線・幾寅駅、映画・鉄道員(ぽっぽや)で窓口も昔風に改装

 昔の駅の必須設備、切符売場と手小荷物窓口も木材で見事に再現されていた。

 一段低い手小荷物窓口に置かれたテレビでは、鉄道員の予告編映像が繰り返し流されている。哀愁漂う主題歌の調べ、乙松や妻、そしてあまりにも幼くして天に旅立った娘のセリフが、誰もいない駅に静かに響いている。ああ、ここには乙松の喜びも悲しみも詰まっているいるのだ…。そう思うと、自宅のテレビで見るよりも、より深く心にしみ込むものがある。ただ一人、いつの間にか鉄道員の場面に引き込まれていた。

幾寅駅、旧駅事務室「幌舞駅の駅長」高倉健の肖像

 窓口より奥の駅事務室に入れるようになっている事が嬉しい。中に入り右側の出札口裏側を見ると、デスクの上に高倉健の遺影が飾られていた。遺影はきれいな花が添えられ華やかな雰囲気だ。そう言えば、高倉健が世を去ってから、もうすぐ2年か…。

根室本線・幾寅駅、内部は映画・鉄道員(ぽっぽや)の展示室に

 奥の部屋には、当地で鉄道員の撮影を記念した展示室になっている。撮影で使われたという古ぼけた鉄パイプの改札口を通り、中に進んだ。

根室本線・幾寅駅、鉄道員で高倉健が着た駅員の衣装

 鉄道員のワンシーンをとらえた写真、高倉健から地元の人に送られたお礼状、運賃標などの小道具など、色々なものが展示されていた。しかし、やはり撮影で実際に高倉健が着た駅員の衣装がより心に迫るものがある。ガラスで隔てられたすぐそこに、まるで健さんがいるような不思議な緊張に包まれた。

北海道・南富良野町の中心地、根室本線・幾寅駅付近の街並み

 駅前の街に出た見た。畑が広がる中に家屋が点在する田舎風景と勝手に想像していたが、家屋や商店、飲食店などが建ち並ぶ、まとまった街並みが形成されていた。幾寅駅周辺は町役場もある南富良野町の中心地だ。幾寅駅が南富良野町にある事は知ってはいたが、中心地は一体、どこなのだろうと思っていた。10分ほど歩くと、道の駅もあるらしい。

幾寅駅隣接、南ふらの情報プラザ内の鉄道員(ぽっぽや)映画看板

 駅に隣接した南ふらの情報プラザという施設が建っている。古くくすんだ外観の木造駅舎に比べ、はるがに大柄で新しい建物だ。トイレを借りようと中に入ったら、吹き抜けのエントランスに、鉄道員の大きな映画看板が掲げられていた。

 思えば、私が堪能したのは根室本線の幾寅駅なのか…、それとも幌舞線の幌舞駅なのか…?いずれにせよ虚実入り乱れたような、この地での滞在は印象深いものになった。

隣の東鹿越駅にて…

 代行バスの時間まで、あと1時間弱あるので、隣の東鹿越駅まではタクシーで先回りした。

 東鹿越駅であれこ見ていると、ホーム上の駅名標風の観光案内看板が目に入った。すぐ目の前に広がる金山湖の観光地図らしいが、ほとんど色が剥げ、明確なのは道路らしき太い線だけだ。

東鹿越駅、幾寅駅の国鉄型駅名標を使いまわした観光地図

 看板の塗料が剥げた部分からは、何か文字が現われていた。よく見ると駅名標のようだ…。不要になった駅構内の看板を、このように塗りつぶし転用する事自体は特に珍しくは無い。

 駅名標は、下部の両隣の駅を標した部分の多くが剥げ、ローマ字で書かれた駅名が何とか判読できそうだ。もう一度よく見てみると、「OCHIAI」「HIGASHI-SHIKAGOE」と書かれているのが判り、併記されたひらがなも、そう書いてあるのがなんとか判った。この両駅に挟まれた駅は… 幾寅駅だ!何と幾寅駅のかつての駅名標が、こんな所でひっそりと眠っていたのだ。半分より上に大きく「幾寅」と書かれた部分は、まだ多くが隠れたままだが、ローマ字の「RA」の部分は、なんとなく判る。飾り気のないシンプルさから察するに、恐らくは国鉄時代の駅名標なのだろう。

 地図の塗装を丁寧に全部剥がすと、隠された文字が姿を現し、かつての姿を取り戻すのだろう。国鉄型の駅名標は今やお宝とさえ言える貴重なものなので、復原して幾寅駅に戻して欲しいものだ。

[2016年(平成28年) 11月訪問] (北海道空知郡南富良野町)

追記1: 根室本線不通区間復旧断念、廃線か?

 この幾寅駅訪問から約2週間後の11月21日、JR北海道が南富良野町に、東鹿越‐新得間の復旧工事は見送る方針と通達した。東鹿越駅は、2017年(平成29年)3月のダイヤ改正での廃止が表明されている。そうなると、分断された根室本線の北部区間は滝川‐金山間となっていまい、金山駅‐新得間は次のダイヤ改正で実質的な廃線状態となる恐れもでてきた。

 根室本線の廃止が表明された富良野‐新得間のうちの、残りの区間である富良野‐金山間も、廃止の協議が滞りなく進めば進めば、数年の内に廃止かもしれない。

 2016年12月、JR北海道から平成29年3月ダイヤ改正が発表された。廃止が予定されていた東鹿越駅は、代行バスの接続駅となっている事から、とりあえずは存続される事になった。ただ、東鹿越‐新得間に関しては、何の発表も無かった。

 台風の被害で、同じく不通となっていた石勝線・根室本線のトマム‐芽室間は12月22日に復旧している。


 そして2022年1月28日、根室本線の廃線が俎上に上がっている区間・富良野‐新得間の沿線4市町村、富良野市、南富良野町、新得町、占冠村とJR北海道の協議があり、自治体側が鉄道による富良野-新得間の鉄道による復旧を断念、バス転換への協議に入る事が決まったという。

追記2: 幾寅駅廃止、しかし保存へ…

 長期運休が続いた根室本線・富良野-新得間の沿線の4市町村が、同区間の廃止とバス転換を容認し、2024年3月31日に最終運行、翌日4月1日付で廃線、幾寅駅も廃駅となった。

 南富良野町は鉄道員のロケ地として有名な幾寅駅跡を今後も観光資源として活用するため、2024年度に保全のための予算を計上した。幾寅駅舎は今後も残るようで一安心。

レトロ駅舎カテゴリー:
JR・旧国鉄の保存・残存・復元駅舎

幾寅駅基本情報+

鉄道会社・路線名
JR北海道・根室本線
駅所在地
北海道空知郡南富良野町字幾寅
駅開業日
1902年(明治35年)12月6日
現駅舎竣工年
1933年(昭和8年)
駅営業形態
無人駅
根室本線不通区間へのアクセス
2017年3月28日より、代行バスの運転区間が東鹿越‐新得間に変更された。運行期間は「当分の間」との事。最新情報はJR北海道のウェブサイトから関連コーナーで確認を。
その他、不通区間の補完手段として、占冠町営バスで、根室本線・富良野‐落合間の駅から石勝線方面に抜ける事ができる。富良野線が、富良野駅・布部駅近く、金山駅などを通り占冠駅へ。トマム線が、幾寅駅、落合駅などを通りトマム駅や占冠駅へ。本数は非常に少ないので、占冠村・アクセスマップから村営バスの項目で確認を。
また、旭川駅‐帯広駅間の都市間バス・ノースライナーが、富良野駅、山部駅、幾寅市街、新得市街などを通る。詳しくは運行会社の一つ、北海道拓殖バスノースライナーのページへ。

偉大なるローカル線、深名線の思い出

 深名線の廃線から20年が過ぎた。多くの国鉄赤字ローカル線が廃止となった後、深名線は北海道に残ったローカル線の中のローカル線と言える存在だった。

 深名線は、深川と名寄の121.8kmを結んでいた路線だ。国鉄時代の1960年代から1970年代、赤字路線として廃止候補にあげられた。しかし、沿線の代替道路が未整備という事で、その対象から免れ生き長らえてきた。しかし、1995年(平成7年)9月4日、深名線は遂に廃止となった。

在りし日の深名線、冬の朱鞠内駅

 初めて北海道への上陸を果たした1988年3月、寝台特急・北斗星で札幌に到着すると、最初の訪問路線として何故か深名線を選び、乗りに行ったものだ。札幌からその日の内に行きやすいというのもあったのだろうが、深川と名寄の121kmの間、これと言った規模の街や有名な観光地がある訳でなく、時刻表の地図の上に路線が伸びる様が、どこか細々とし頼りなさげに見えたのに、どことなく魅かれたからなのだろう。

「おかえり沼牛駅」

 深名線が廃止から20年になろうとしている頃、意外にもいくつかの木造駅舎が残っている事を知った。鷹泊駅、沼牛駅、政和駅、添牛内駅と4駅の木造駅舎が、傷みが進みながらも残っているらしい。

 その中で沼牛駅の駅舎は地元の人が買い取り、雪下ろしや補修などをし地道に守ってきたという。廃線から20年の2015年7月18日、「おかえり沼牛駅」として1日限定の駅舎公開イベントが開催され、大勢の人で賑わった。

 しかし、開業の1929年(昭和4年)より87年より佇み続け、そして廃線から20年。本格的な修繕が施されなかった木造駅舎は、傷みが酷くなる一方で、放っておけば崩れ落ちるのも時間の問題だった。そこで歴史ある駅舎を次世代に渡すため、大掛かりな改修を施す事になった。

 改修にあたり、資金は「クラウドファンディング」でネット上から広く寄付を募る事になった。しかし期限の8月1日の23時00分までに、目標金額の200万円に1円でも達していなければ募金は不成立となってしまう厳しいルールがあった。

 2016年5月31日からクラウドファンディングが開始となり、私もささやかながら早速、寄付した。しかし、なかなか金額の半分にも達せずやきもきしたが、最後の1ヶ月で追い上げを見せ、最終的には239万の金額を集め無事に成立した。

 クラウドファンディングの目標達成で本格的な改修作業に入り、一方で、有志による改修・清掃などのイベントが何度も開催され、遂に改修が完了した。改修完了記念の「おかえり沼牛駅改修お披露目会」は11月6日に開催される事になった。その日が多くの人が集まりやすい日曜日というのもあるが、沼牛駅開業日の11月8日に近い事も意識したという。

見事に甦った木造駅舎

 前日、運悪く休みを取れなかったため、当日、朝一の羽田発新千歳行きのJAL便に乗り、深川まで列車で駆けつけようと思った。降雪のため、フライトが条件付の運行になったり、各所の接続時間がギリギリになるなど危ない場面もあったが、10時5分、特急スーパーカムイで何とか深川駅に着いた。

 走って跨線橋を渡り駅舎を抜け、駅前のJRバス深名線の乗り場に向かった。きっと沼牛駅に行く人で賑わっているびだろうなと思っていたが、バスを待つ人はたったの数人で、「それらしい人」は私を除けば僅か2人…。ガラガラの車内のまま、バスは深川駅を出発した。本州だとこれから秋が深まる11月の上旬だというのに、窓の外は一面の雪景色。しかも、なお容赦なく雪が降り続いていた。

 バスは一旦、国道を外れ、沼牛駅最寄の下幌加内停留所に向かった。するとひたすら過疎地の雪原を走っていたが、家屋が散在する集落に入った。そして車の列が目の前に飛び込んできた!車の訪問者の駅前の道に列を成して駐車している。そして道には何人もの人が歩いている。普段は静かな集落の道が車や人で賑わい、バスの運転手さんも、すぐそこのバス停に行くのに一瞬、難儀したようだ。

「おかえり沼牛駅」で賑わうかつての駅前

 バスを降りると、賑わいの奥に木造駅舎が建っているのが見えた。もう廃虚同然ではなく、味わい深く、そしてしっかり地に佇む姿を取り戻していた。心躍る気持ちで、雪を踏みしめ急いだ。

深名線、駅舎が霞むほどの雪が降る沼牛駅

 11月上旬、北海道にはもう冬が訪れ、周囲は雪で真っ白だった。渋く活き活きとした茶色の駅舎は、絶え間なく降りしきる雪で白く霞んでいた。

 バスに乗った時は折角の記念すべき日なのに寂しいものだと思ったが、多くの人で賑わっていた。TVや新聞の取材陣も何組も来ている。そして記念品や幌加内名産の蕎麦を販売するテントも出店するなど、寒空の下、お祭りムードだ。

 できれば人が入らないすっきとした状態で撮影したいものだが、今日はお祭りだ。そう思う方が野暮だ。第一、駅舎は大雪で白いヴェールが掛かっているようにしか見えない。

深名線廃線跡に残る沼牛駅舎

 駅舎の脇を回りホーム側に出て、かつてはレールが敷かれていた場所降りてみた。そこは一面雪景色が広がっていた。まだ、葉さえ色付かず深まらない秋を飛び越え、いきなり真冬に襲われた私は、寒さに震え上がった。

 そして、駅舎への一歩を踏みしめた。開業当時の姿を取り戻した狭い待合室は大にぎわいだ。普段、ひっとしとした木造駅舎を訪れる事が多い私には、どこに居ようか戸惑った。とりあえず残り僅かとなっていた沼牛駅駅弁を購入すると、休憩所として解放されていた駅前の農業倉庫で一休みした。

沼牛駅、ちほく高原鉄道・上利別駅の部材が使われた窓口跡。

 そして再び駅舎に戻ってきた。

 復活した木造駅舎は待合室だけでなく、駅員事務室や宿直スペースと言った、普通なら乗降客が入る事ができないスペースも公開されていた。

 出札口は沼牛駅グッズなどの記念品、手小荷物窓口は沼牛駅駅弁が売り切れた後は飲食物の販売で利用されていた。本来の目的ではないものの、昔のままの姿に再現された窓口が活発に利用されている様子を見ると、やはり嬉しいものだ。

 今回の修復では、窓口裏側の駅事務室側も再現されるこだわり振りだ。出札口の駅事務室側は無人化された後、カウンターなど部材が撤去された状態だったという。そこで2006年に廃線となった、ちほく高原鉄道の上利別駅の木造駅舎の同じ部分の部材を譲り受け、沼牛駅の切符売場に取り付けられた。

 上利別駅の木造駅舎は廃線以来、長らえて来たが、数ヶ月前に残念ながら取り壊されたばかりだった。もし、もう少し取壊しが早かったら、使い継うという発想も思い浮かばなかっただろう。縁あって、こんな形で沼牛駅で生きる上利別駅に、数奇な運命を感じずにはいられない。

 窓口裏側の木のカウンターと引出し…、係員さんの邪魔になるので、少し離れた所から見るしかできなかったが、年月がしみ込んだような深く渋い茶色のカウンターと引出しは、沼牛駅の87年という空間に何の違和感も無く馴染んでいた。

沼牛駅、深名線廃線後、荒れた駅舎内部。

駅事務室の奥の駅長住居スペースに、靴を脱いで上がってみた。玄関的な数畳のスペースの奥は、板敷きの居間となっていて、テレビでは深名線在りし日のビデオが流れ、ちゃぶ台の上には飴玉や幌加内に関した本が置かれている。来訪者が自由にくつろぐ姿は、まるで顔なじみの駅長の家に上がりこんでる風情…。

 壁には沼牛駅修繕の様子や上利別駅など、関連する多くの写真が展示されていた。その中に修繕前の居間の写真も展示されていた。室内はボロボロで床板も無く荒れ放題で、とても人が居られる状態ではなかった。

沼牛駅の木造駅舎、修復された駅員休憩室

 だが、よくここまで修理したような思う程、室内は奇麗になっていた。隅から隅までの完全な改修ではなく、古さはあちこちにあるが、それでも同じ駅だとは思えない。

 クラウドファンディングでは50万円のプランもあり、沼牛駅駅舎を一晩貸し切れるという内容だった。趣き深い木造駅舎に宿泊できる、ファンにはたまらない非常に魅力的なプランだが、高額過ぎで、このプランを選んだ人は居なかったようだ。

 50万というのは高過ぎるが、一泊数万程度ならば絶対に行きたい。それに昭和年築の木造駅舎に宿泊できるとなれば、大きな話題になると思うのだが…。

深名線・沼牛駅駅舎の宿直室、押入れに貼られた古い新聞紙

 押入れの壁紙には古い新聞が使われていた。ある一枚には昭和28年3月17日の日付が記されている。また、国鉄の労働組合の機関紙らしき一枚には「バカヤロー内閣を倒せ」という見出しが掲げられていた。当時の首相・吉田茂の失言による衆議院解散「バカヤロー解散」で、吉田内閣を糾弾するスローガンだ。記事だけでなく、隅の広告もレトロで時代を感じさせ、狭苦しい空間がまるでセピア色のタイムマシーンのようだ。自宅の押入れを秘密基地にして遊んだ子供の頃と、不思議と重なるような心境になった。

 昭和28年当時の駅長さんが、古くなった押入れの壁を新聞で修繕でもしたのだろう。

JR北海道・深名線・沼牛駅の木造駅舎、増築部分の浴室跡

板敷きの居間の奥には、トイレがあり、更にその奥には水場や、何とお風呂も残っていた。浴槽は木製の桶でかなりのシブさだ!スノコがプラスチック製で、それほど劣化していない所を見ると、簡易委託化される1982年(昭和57年)3月30日までは、使われていたのではないだろうか。

 室内の掲示によると、この風呂場は開業当時からのものでなく、後年に増築されたとの事だ。

 本州など北海道の他の地域ににも、駅員用の浴場が駅構内に残っている場合もあるが、別棟の小屋になっている事が多い。冬はマイナスの気温が当たり前の北海道では、やはり風呂場を別棟にすると、僅か数メートルの距離でも、入浴直後の体を極寒に晒すのは体に悪いので、駅本屋内に設置されたのだろう。

深名線・沼牛駅、美作滝尾駅を参考に再現された窓口

 12時を過ぎると、少し人が引いたようで、見事なまでに再現された窓口跡をより堪能する事ができた。

 出札口のカウンターは、無人駅となり窓口が塞がれた後も残っていたという。窓枠は無くなっていたが、今回の改修で復元された。木の窓枠はやはり味わい深く、古びたカウンターにも似合っている。そしてまだ表面がすべすべとしたきれいな平で、角が取れていない真新しい木材で作られた窓口は、使い古された窓口ばかり見てきた私には、とても新鮮に映る。

 出札口の窓枠の再建にあたり類似例を探したところ、1928年(昭和3年)築の美作滝尾駅の木造駅舎と似ている事がわかり参考にしたという。ここでも失われつつある古き良き駅舎の造りが受け継がれているのだ。

深名線・沼牛駅の改札口跡、ちほく高原鉄道・上利別駅から移設したラッチ

 駅舎内部を堪能した後、後ろ髪を引かれつつ外に出た。やはり寒い!

 改札口ラッチ(柵)のうち両脇のものは、上利別駅から譲り受けたという。中央の柵と同じく木製だが、よく見ると風化して木目が浮かび上がり質感がまるで違う。

深名線廃線から21年…見事に蘇った沼牛駅の木造駅舎

 人が少し引いて、そして雪が幾分か弱まった隙に、改めて駅舎を正面から撮影してみた。よくここまで木の質感を全く損ねないで昔ながらの雰囲気のまま、きれいに仕上げてくれたものだと思う。寄付をして本当に良かったとしみじみとかみ締めた。

深名線・沼牛駅、クラウドファンディングできれいに修復された木造駅舎

 更に近づくと、木の質感がより迫り来るかのようで味わい深い。窓枠も木製だ。

 渋く濃い茶色は「松煙」「ベンガラ」「柿渋」と言った古来よりの塗料を調合し、元々の雰囲気を大切にした色になるようにしたという。茶色いペンキも悪くないが、木により良くなじみ木目さえもくっきり浮いているこちらの方がより木造駅舎らしいものだ。

修復された沼牛駅駅舎、今にも列車が来そうな深名線らしい冬景色

 深い雪に包まれた木造駅舎というのは、やはり冬の北海道らしく風情溢れる風景だ。

 駅舎が甦り、JR時代の駅名標が設置された駅は、まるでいまだに現役であるかのようだ。そして木々や山に囲まれた自然豊かな風景はきっと、何十年も前から…、いや、この駅が開業した当時からたいして変わっていないのかもしれない。違うのはレールがあるかないか位…。

 むしろ列車間隔が空く深名線だから、そのうち道床に積もった雪を踏みしめながら、単行の列車がやって来る…。そんな幻想さえ、一瞬目の前に見えたような気がした。

[2016年(平成28年) 11月訪問]

~◆レトロ駅舎カテゴリー: JR・旧国鉄の保存・残存・復元駅舎

沼牛駅基本情報+

鉄道会社・路線名
JR北海道・深名線
駅所在地
北海道雨竜郡幌加内町字下幌加内
駅開業日
1929年(昭和4年)11月8日
駅廃止日
1995年(平成7年)9月4日
駅舎竣工年
1929年(昭和4年) ※開業以来の駅舎
駅営業形態
無人駅(廃止前)
代替バス
ジェイ・アール北海道バス・深名線。時刻は同社路線バス・時刻表のページから深川方面(深名線)の項目から時刻表をリンクで。
駅舎公開・イベントなど
駅舎の内部は、通常は非公開だが「おかえり沼牛駅実行委会」により、食べものの提供や雪かきなど、いろいろなイベントが開催され、その時に、内部も公開されているようだ。詳しくは
おかえり沼牛駅実行委員会ウェブサイト、もしくは公式Facebookページまでどうぞ。

古駅舎の淘汰が進んだ飯山線

 2016年夏、山形と新潟を訪れ、飯山線を経て長野から特急しなので帰路に就くつもりでいた。そこで、飯山線にいい木造駅舎がある駅が無いかとウェブ上で情報を漁った。

 しかし、31駅中、古い姿を留めた駅舎は僅か1駅…、越後岩沢駅だけだった。殆どが建て替えられ、その多くが小さな簡易駅舎になってしまった。100km程度の営業距離のある旧国鉄・JRのローカル線なら、改修されながらも木造駅舎はいくつか残っているものだ。しかし96.7kmに、31もの駅がありながらたったの1駅とは…。ウェブ上で写真を見ただけなので、断言はできないものの、大いに驚かされた。

 このようになったのは、2015年に金沢まで延伸した北陸新幹線の影響も大きい。木造駅舎だった飯山駅は移転し、高架の新幹線ホームを持つ最新の駅舎に建て替えられた。その他の長野支社管内の飯山線6駅は、観光客を意識し「駅舎美化」の名の下に、建て替えやリニューアルが実施された。信濃浅野駅、替佐駅は元々の木造駅舎をリニューアルしたものだが、原形に大きく手を加えていて、まったくの別の駅舎のように変貌してしまった。

帰路、寄り道で越後岩沢駅へ…

 旅の2日目、越後岩沢駅には必ず訪問しようとと思っていたが、途中、列車に乗り遅れてしまい、飯山線経由ではその日の内に帰れなくなってしまった。上越新幹線で東京を経由するしか無くなり、飯山線を乗り通すのは次の機会にと思った。

 しかし“この次”あの木造駅舎はもう無いかもしれない…。飯山線に限らず、新潟県内のJRの駅舎は建て替えが進んでいて、古駅舎の残存率は意外に少ないように思う。なので越後岩沢駅にも建て替えの魔手が伸びてきてもおかしくない。

 越後岩沢駅は幸いにも、上越線との分岐駅の越後川口駅から僅か2駅目だ。時刻表を見て行程を練り直すと、帰路の途上、ちょっと道をそらせば、無理なく訪問できる事に気付いた。

 それでもやや時間があったので、一つ行き過ぎた下条駅(げじょうえき)を見て、折り返し越後岩沢駅にやってきた。

飯山線・越後岩沢駅、廃止されたプラットホームが残る

 1面1線に側線がある典型的なローカル線の配線だが、昔はもう一面、反対ホームがあり、その遺構が今でもはっきりと残っている。

飯山線・越後岩沢駅、廃ホーム跡

 廃ホームはまるで遺跡のように映った。構内通路の階段跡も残っている。

 使われていないとは言え、たまに手入れされているのだろうか・・・?ホーム上の雑草は刈り取られ、咲きそろった花々がきれいで、まるで廃ホームを活かした庭園か花壇のようで悪くは無い。しかし、びっしり生えた苔と錆びきったレールは、駅の衰退を物語っているようでどこか物悲しい。

冬は雪深い飯山線・越後岩沢駅、駅舎の雪囲い

 駅舎ホーム側の窓には、雪囲いの板が丁寧に掛けられ、冬の雪深さを物語っている。ただ、今は夏。立ってるだけで汗が吹き出る程暑い。雪囲いを纏った駅はやや暑苦しく映る。無人駅となり、冬に取り付け春に外すという作業が面倒なので、年中付けっぱなしなのだろう。

飯山線・越後岩沢駅、「計量管理事業場」のホーロー看板

 駅舎には「通商産業大臣指定 計量管理事業場」という小さなホーロー看板が取り付けられたままだった。昔は貨物も扱っていた証だ。

飯山線・越後岩沢駅、待合室の古い駅名標

待合室の扉を開けると、出入口上のこの駅の古い駅名標一点に強く目が引きつけられた。完全に改修された待合室にあって、唯一、古さを感じさせるものだ。

JR飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、待合室

 待合室は徹底低に改修され、古さをほとんど残していない。窓口跡があったと思われる部分は跡形なく埋められただの壁となった。作り付けの長椅子も新しめだった。

JR東日本飯山線・越後岩沢駅、昭和2年築の木造駅舎

 駅舎の正面にまわってみた。木造駅舎だが、外壁は新建材に張り替えられ、右端には倉庫が設置されたのか、シャッターが取り付けられるなど、大きく改修されている。それでも、国鉄やJRの前身の鉄道省が1927年(昭和2年)に十日町線として、越後川口駅からこの駅まで開通させた時以来の古い駅舎だ。

飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、車寄せ

 大きく改修されているが、車寄せは木のままの造りを残す。新建材で覆われ、ちょっと前に建てられた家屋のような雰囲気になった駅舎にあって、この駅の歴史を感じさせる。柱の下部がコンクリートで四角柱のように厚く覆われ、どっしりとした柱に仕上げられているのが独特で印象的だ。これなら雪に押し潰される事も無いだろう。

JR東日本飯山線・越後岩沢駅、駅前に野花が咲く

 駅舎の左前には、荒れた花壇が残っている。放置されて久しいのだろうが、雑草が生い茂る中に、色とりどりの野花が咲き誇る。誰かが植えた花々が、なおも季節を忘れずこうして咲くのだろうか。小さな草原の中の花畑を見ている心地で、不思議と心引き付けられた。

飯山線・越後岩沢駅、側線跡の車庫

 越後川口方にある側線ホームには、プレハブの倉庫が設置されていた。中から除雪車モーターカーのロータリーが僅かに姿を覗かせていた。貨物と言った当初の用途とは違うが、立派に現役の側線だ。

飯山線・越後岩沢駅、駅前の国道117号線

 駅から300メートル弱程歩くと、国道117号線に出る。小高い山々に囲まれた中、家屋が点在するこじんまりとした街並みだ。駅前に越後交通の岩沢駅前バス停があった。

飯山線・越後岩沢駅の木造駅舎、車寄せの柱

 駅に戻ってきて改めて駅を眺めると、昔ながらの形をした木造駅舎と、どっしりとした柱を持つ木のままの車寄せはやはり印象深い。新建材で外壁こそ改修されているが、飯山線最後の古駅舎の風格を十二分に漂わしている。

 よく眺めると、向かって左側の柱が真っ直ぐでなく、角が削られようになっていて、直線でないのに気付いた。あれ?何でと不思議に思った。こういう柱の場合、きっちりと四角柱に加工された木が使われている場合がほどんどだ。模様が彫り込まれている場合もあるが、この柱の場合はそんな感じでもなく、四つの内の三つの角が削り取られた様になている。もう一方の柱はちゃんと四角柱に加工されている。

 腐食した部分を削り取ったのだろうか…。

 いや、それとも木を切り出す時に、失敗してしまったか、端の半端な部分がきれいな四角柱にならなかっただろうか…。それでも、一応、柱として使うには問題無いし、廃棄するにはもったいないから、「えい、使ってしまえ!」という事になったのかもしれない。大工さん達のそんな息遣い、それとも「まあいいよ」と許容した大らかな国有鉄道の担当者の空気感が伝わってくるかのようだ。

[2016年(平成28年) 8月訪問]

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 一つ星 JR・旧国鉄の一つ星駅舎

越後岩沢駅・基本情報+

鉄道会社・路線名
JR東日本・飯山線
駅所在地
新潟県小千谷市大字岩沢
駅開業日
1927年(昭和2年) 6月15日
駅舎竣工年
1927年 ※駅開業以来の駅舎
駅営業形態
無人駅
その他の訪問手段-路線バス
越後交通の長岡駅前-小千谷‐十日町線が、岩沢駅前から十日町まで飯山線にほぼ沿うルートで運行されている。
(参考URL: 越後交通路線バス・小千谷地区の時刻表)
飲食店
駅前に農家レストラン・喫茶「より処 山紫」がある。詳しくは公式サイトFacebookページまで。

萩市中心部3つの駅

 山口市から流れて来た阿武川は日本海に注ぐ直前、松本川と橋本川に分岐する。2本の川を濠にしたかのように、その内側に三角州が形成され、毛利氏が治める長州藩の城下町として発展し、幕末には吉田松陰や高杉晋作など幕末の志士を輩出した。萩市となった現在、市の中心地となり、歴史を留めた古い街並みは、山口県下でも有数の観光地になっている。

 1925年(大正14年)、この区間は美禰線(今の美祢線)として西側から延伸し開業した。路線は城下町の中には乗り入れず、濠のような2本の川の外側に沿って、南側に迂回するようにレールが敷かれた。この区間、城下町を貫けば3kmちょっとだが、迂回しているため倍の約6kmの距離を要している。

 萩中心地を迂回しているこの区間内に、3つの駅が設置されている。東側にあるのが東萩駅で、市街地にいちばん近い駅だ。業務委託とはいえ有人駅で、萩市の中心駅の位置付けだ。

 南側にあるのが萩駅だ。駅名だけを見れば萩市の代表駅という感じがするが、東萩駅に比べれば市街地からはやや遠く、現在では無人駅となり、その座は東萩駅に譲っている。萩駅には開業の大正時代以来の洋風木造駅舎が残っている事が知られ、内部は「萩市自然と歴史の展示館」として、萩市に関する写真や鉄道用品などを展示している。

 そして西にあるのが玉江駅だ。

さりげなく凝った装飾が目を引く駅舎

 東萩駅から萩市街地を萩駅まで歩き、洋風木造駅舎と桜を堪能した跡、山陰本線の下り列車に乗り1駅の玉江駅で下車した。

JR西日本・山陰本線・玉江駅、1面1線のプラットホーム

 国鉄時代からの駅舎が残る割に、1面1線の簡素過ぎる駅構造に意外な感じがした。単線の交換可能駅で、片側のプラットホームが廃止され1線になった駅では、残ったレールがホームに進入する直前に分岐している線形をそのまま残している場合はほとんどだ。しかし玉江駅にはその痕跡が無く、レールは真っ直ぐ伸びたままホームに進入している。玉江駅の構内配線は、元々、このような構造だったのだろう。

 駅舎が設けられるような国鉄の駅は、旅客用のホーム以外にも何線もの側線や貨物ホームなど、それなりの規模と敷地を有していた場合が多いが、とっくの昔に取り払われたのか、それらの痕跡も見当たらない。

 恐らくは、数キロの圏内により規模の大きな萩駅と東萩駅が同年の1925年(大正14年)に相次いで開業したため、玉江駅の駅としての機能やポジションは当初より小さく見積もられ、比較して小規模な構造になったのではないかと思う。玉江駅の貨物取り扱いの廃止年は1963年(昭和38年)と、萩駅より14年、東萩駅より20年も早いのがその事を物語っているような気がする。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、ホーム側

 ホームから改札口に向かって正面に階段があるが、側面から緩やかなスロープも設置されている。ホームと駅舎の間は木々が豊かに植えられている。この空間は、1線分位の幅がありそうなので、昔はこちら側にもレールが敷かれていたのかもしれない。

 駅舎の壁面はモルタルで固められている。軒を支える柱や駅務室側の窓枠は木のままで、駅の年月をほのかに感じさせる。

山陰本線・玉江駅、改札口跡、タイルの装飾

 改札口出入口の両縁は、四角い茶色のタイルがでこぼこに積み上げられているかのように埋められている。ちょっとした装飾で駅舎が随分とお洒落な雰囲気になるものだ。

山陰本線、萩市内の駅・玉江駅のモダンな木造駅舎

 待合室を通り抜け、まず駅舎の正面にまわってみた。マンサード屋根を掲げ重厚感のある洋風駅舎だった東萩駅の旧駅舎、そして今も残る洋風木造の萩駅駅舎に比べれば、モルタル木造の玉江駅駅舎はいかにも標準的と言うか地味にさえ映る。2つの駅があれだけ力が入っているのだから、もうちょっとインパクトのある駅舎でもよかったのではと思える。

JR西日本・山陰本線・玉江駅の木造駅舎、出入口の装飾が素晴らしい

 とは言え、三角屋根の切妻のファサードは目を引く。

 一見するとシンプルに思える駅舎だが、よく見ると装飾はさり気なく凝っていて、唸らせるものがある。出入口両縁には、改札口側と同様に、タイルの装飾が施されている。そして上部の小さな軒には、オレンジ色の洋風瓦が敷かれている。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、車寄せの軒の装飾

 車寄せの軒は木造の造りをそのまま残している。よく見ると軒を支える木の棒には、線のような切り込みが1本1本入れられ、模様のようになっている。こんな線無くてもいい筈なのに、何と!手間隙かけているのだろう!

山陰本線・玉江駅、長州出身の井上勝を紹介した看板

 出入口横には、長州藩士で鉄道の開通と発展に尽力し、日本鉄道の父と言われる井上勝の功績を紹介した看板が設置されていた。少し文字が消えているのが残念だが。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、木枠の窓と洒落た柵

 駅舎正面の待合室部分の窓は、何故かとても小さく細長い。そんな窓が僅かに2つあるだけだ。出入口扉のサッシ窓はガラス部分は大き目に取られているが、何でこんなにちっぽけなのかと不思議だ。東からは光があまり入らなさそうで、朝は薄暗そうだ。

 しかし窓枠は木製だ。何よりもアール・デコ調の鉄柵が何ともユニークだ。格子状の柵で窓全体を覆うのではなく、横長でちょこんと控えめに掛けられているのが、またお洒落な雰囲気を醸し出す。

そして驚愕の窓口跡

JR山陰本線・玉江駅、がらんとした待合室

 やや広めの待合室は、今では全部で4脚のベンチがポツンと置かれるだけでもの寂しい雰囲気が漂う。2000年代の半ば頃まではキヨスクがあり、乗車券の販売も行っていたという。

 玉江駅の東側は橋本川を隔て、萩の市街地が広がる。そして萩城跡まで約2km位で、その途上には城下町の風情を残した堀内地区など観光名所も点在し、観光に便利そうな駅に思える。しかし観光客はおろか、地元の利用者もぱらぱらといる程度と、駅はひっそりとしていた。

山陰本線・玉江駅、窓口跡(出札口、手小荷物窓口)

 窓口は完全に塞がれ、各種の掲示物が貼られている。そして前を覆い塞ぐように、ベンチが置かれている。

 しかし窓口の残されたカウンターをよく見ると、二つと無い非常に個性的で凝った造りなのに気付き、我が目を疑う程に驚かされた。

山陰本線・玉江駅の木造駅舎、窓口跡カウンターの造りが

 それは普通なら切符販売用の窓口(出札口)と、手小荷物用窓口のカウンターが別々に独立した造りになっている所が、この駅では、何とひと続きになってるのだ。左側のお腹位の高さに出札口のカウンターがあり、中間部分でストンと一段落ちるかのように低くなり、手小荷物用窓口のカウンターになって続いているのだ。さすがに一枚板ではなく、段差が出来ている部分は、縦に板があてがわれ両者が繋がれる形になっているが、なぜそうまでして一体にしたのかと不思議に思う。

山陰本線・玉江駅、出札口跡の凝ったカウンター

 そして出札口の方は、木のカウンターがでこぼこにカットされ、3つの出っ張った部分と、その間の2つのへこんだ部分という複雑な造りになっていた。へこんだ方に金銭受けの跡があるので、そちらに窓口があったようだ。。出っ張った角が、カーブを付けられ2段にカットされているのは、角に人が当たるのを防ぐためなのだろうが、デザイン性を感じ、何故これほどまでに凝っているのだろうか…

 複数の窓口が残る駅舎の場合、一枚の長いカウンターが設置されている場合や、窓口毎に小さな独立したカウンターが設置されている例もあるが、このカウンターは両者の中間型と言えるだろう。

 今まで木造駅舎など、いくつもの古駅舎の窓口跡を見てきたが、こんな形のものを見るのは初めてだ。他にもあったのかも知れないが、かなり珍しいものである事は確かだと思う。

 無人駅になり人影少なくても、木のカウンターの上には花や木がいくつも並べられ、人の手がささやかながらこの駅に潤いをもたらしている。もう無用の長物のように残っていても、存在している意味はあるものだなと思いながら、二つと無い個性的なカウンターを見つめた。

[2016年(平成28年) 4月訪問](山口県萩市)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄の二つ星駅舎

玉江駅駅・基本情報まとめ+

鉄道会社・路線名
JR西日本・山陰本線
駅所在地
山口県萩市大字山田字西沖田4757
駅開業日
1925年(大正14年)4月3日 ※開業時は美禰線(今の美祢線)の長門三隅‐萩の延伸開業として。1933年(昭和8年)の山陰本線全通時に、玉江駅など美禰線の一部が山陰本線に編入された。
駅舎竣工年
萩博物館ブログの記事の内に、開業間もない昭和初期の玉江駅の写真があるが、ありふれた感じの木造駅舎だ。どうやら昭和15年(1940年)に改築された二代目駅舎のようだ。
駅営業形態
無人駅
その他
萩循環まぁーるバスの西回りコースに、玉江駅前停留所が設置されている。30分に1本の運行で、萩駅など市中心部各地をまわる。詳しくは萩市の萩循環まぁーるバスのご案内まで。

北口には昭和築のレトロな洋風木造駅舎が残る

小田急・向ヶ丘遊園駅、プラットホームと周囲の都会的な風景
新宿から20分、タワーマンションがそびえ、建物が密集する都会の街並みの中、レトロな駅舎がポツンと佇む。
小田急電鉄・小田原線、マンサード屋根が特徴的な向ヶ丘遊園駅北口駅舎
そんな雑踏の中、向ヶ丘遊園駅北口には、昭和2年(1927年)築のマンサード屋根が特徴の洋風木造駅舎が残る。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園北口の木造駅舎、屋根を支える太い柱
ごっつい柱が大きなマンサード屋根を支えている。
小田急・小田原線、向ヶ丘遊園駅北口駅舎の改札口・窓口
屋根の下は窓口があり、自動改札機を人々が行き交うありふれた街の駅の風景。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅北口駅舎、再現された社章入りの窓
新建材で改修されたが、小田急電鉄の古い社紋があしらわれた窓周りの装飾は再現された。

モノレールが懐かしい南口駅舎

小田急・小田原線、向ヶ丘遊園駅南口駅舎
南口の方は平屋のごく普通の現代の駅舎だ。
小田急電鉄・向ヶ丘遊園駅南口、かつてのモノレール駅跡地
南口の駅前にはビルが立ち並ぶ。道路の間の駐輪には向ヶ丘遊園モノレールの駅跡地だ…。

向ヶ丘遊園駅訪問ノート

 2回目の訪問となる小田急電鉄の向ヶ丘遊園駅。2000年代の前半で、ほぼ残存していた向ヶ丘遊園モノレール線の廃線跡を辿り、正門前駅まで雨の中歩いたものだ…。

 北口駅舎は駅開業の1927年(昭和2年)築の木造駅舎だ。マンサード屋根の妻面が正面に向いた大きな屋根と、屋根のドーマー窓が特徴的な洋風木造駅舎だ。小田急電鉄では、新松田駅などいくつかの駅が、同じデザインだったが、現役なのはこの向ヶ丘遊園駅の北口駅舎だけとなってしまった。

 マンサード屋根の駅舎は、かつては北海道の駅舎でよく見られた。

 大きなマンサード屋根はもちろん、2階の窓周りの装飾など古く趣きある造りを残すが、外観が新建材で改修されているのが、なんとも味気無く残念…。しかし、開業当時とがらりと風景が変わり、今では1日6万5千人の利用者がある状況で、小田急が北口駅舎を維持している事は、大いに評価に値するので、こちらも贅沢ばかりは言っていたら罰が当たる。


 向ヶ丘遊園駅は「ナチュラル・レトロモダン」をテーマにリニューアルが進行していて、2019年(平成31年)4月1日、コンクリート平屋の南口駅舎は、北口駅舎のマンサード屋根を載せた装飾が加えられ、跨線橋はレトロなイメージに改装された。

 そして2020年(令和2年)4月1日、北口駅舎の改修が完了し、リニューアルオープンとなった。屋根や柱はは焦げ茶色に変更され、外壁は新建材ではなく、モルタルかもしくはそれっぽい素材になり、全体的にシックな雰囲気に。まるで、開業時の姿を取り戻したかのようだ。

[2016年(平成28年) 2月訪問] (神奈川県川崎市多摩区)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 私鉄の二つ星駅舎

関東大震災後に建てられたコンクリート駅舎

JR相模線・倉見駅、信楽焼のたぬきがいる池庭
跨線橋を渡り改札口前に至ると、手前に金魚の泳ぐ小さな池と狸の置物が…
JR東日本・相模線・倉見駅、大正築のモダニズムコンクリート駅舎
駅舎は関東大震災後の大正15年築に建てられたコンクリート造り。箱型の単純過ぎる形状だがアーチ型の出入口が特徴的。
JR相模線・倉見駅、半円形の出入口が印象的な駅舎
半円の門を通して見る世界は不思議な感じ。無人駅化されたばかりで、券売機の取替え工事中。
JR相模線・倉見駅、駅前の商店街
将来、東海道新幹線の駅ができるかもしれない駅前。こじんまりとしながらも店が建ち並び、人通りもある。
JR相模線・倉見駅、ぼころびはじめた早咲きの桜
2月だが、早咲きの桜はもうほころび始めていた。そういえば12年前の3月に来た時は満開だった…

倉見駅訪問ノート

2004年の3月に訪問して以来、約12年振り2度目の訪問だ。

 駅舎は箱型のコンクリート駅舎というシンプル過ぎる形状にアーチ型の出入口が印象的。半円の窓を通して見る外の世界は不思議な感じで、大げさながら芸術性とはこんなちょとなもので紡がれるものかと思わされた。

 駅舎は1926年(大正15年)相模線の前身・相模鉄道が倉見駅まで延伸開業した時以来のもの。木造駅舎が多数派の日本にあってコンクリー造りなのは、前年の関東大震災で建築物が甚大な被害を被った事から、丈夫な駅舎が建てられたという。二つ北の社家駅も同じ形状だ。

 現在の相模鉄道は、大正当時の相模鉄道の流れを汲んでいるが、相模線もかつては相模鉄道の路線だった。1944年(昭和19年)、相模鉄道線の茅ヶ崎‐橋本間が戦時買収私鉄に指定され国有化され相模線となった。横浜‐海老名間の旧神中鉄道の区間はそのまま相模鉄道に残り、現在の本線となっている。

 ローカル色を帯びる相模線とは言え、首都圏西端を走り、JR東海道本線、小田急線、相鉄線、京王線、JR横浜線と言った主要な路線とも繋がっているためだろう。倉見駅の駅前はローカル線のような雰囲気につつまれながらも、シャッター通り化していないこじんまりとした街並みがあり、列車が発着する度に盛んに乗降客が出入していたのは、やはり首都圏の駅の風情を感じる。

 プラットホーム南側からすぐ見える場所に、東海道新幹線の高架が相模線を跨いでいる。この辺りに新幹線新駅を誘致する活動が町ぐるみで行われてれていた。12年前、この静かな地に新幹線の駅ができるのかと不思議な気持ちで眺め、歴史有る倉見駅駅舎の行く末を心配したものだ…。

 2016年現在、誘致は実現はしていない。しかし、JR東海からリニア中央新幹線開通後に駅の設置を検討してもいいという回答を得たようである。

[2016年(平成28年) 2月訪問](神奈川県高座郡寒川町)

~◆レトロ駅舎カテゴリー: 二つ星 JR・旧国鉄の二つ星駅舎


.last-updated on 2020/05/24