大正時代の木造駅舎が現役

JR九州・日豊本線、東中津駅で下車した人々

 JR日豊本線・中津駅から一駅、中津市街の外れにある東中津駅。私が乗って来た下り列車からは、何人かの下車客があった。

日豊本線・東中津駅プラットホームと駅舎横の空地

 ホームは1面3線だが、真ん中の番線はレールが剥がされ廃止されている。

 駅舎正面の右側、南隣には空地のような空間が広がっていた。かつては駅舎から続きで建物が建っていたようだが、不要になり取り壊されたのだろう。

JR日豊本線・東中津駅、木造駅舎に残る古い駅名標

 駅舎ホーム側には縦型の古い駅名標が取り付けられたまま。毛筆体のホーロー看板はレトロさに溢れる。作製されて半世紀以上過ぎていそうだが、耐久性のあるホーローのため、多少の錆びはあるが色艶は十分。

 駅名標の上には、木製の手書き建物財産標が残っていた。この駅本屋のもので、標された年月は「T4(大正4年). 5. 30」。

JR九州・日豊本線、大正築の古い木造駅舎が残る東中津駅

 東中津駅の開業は1901年(明治34年)5月25日。起源となる豊州鉄時代で、当初の駅名は大貞。

 今も残る木造駅舎は、大貞駅時代の1915年(大正4年築)築。今年2022年で、何と築107年だ!築サッシ窓に換装されるなど改修されているが、それでも古い木造駅舎らしい、いい佇まい。東中津駅と改称されたのは、戦後の1952年(昭和27年)11月15日だ。

日豊本線・東中津駅の木造駅舎、軒を支える木の柱

 軒を支える柱は長年、風雨に晒され続けすっかり風化している。それでも土台のコンクリートは新しいものに作り変えられている。

日豊本線・東中津駅、木の軒と柱・レトロな駅名標

 軒の骨組みは新しいものに取り替えられている。風化し皴が入りでこぼこの柱と違い、真っ平でつるつるしている。古い駅舎を維持するだけでも大変なのに、よくイメージに合わせたいい改修をしてくれるものだ。大切に使い継いでくれているのを感じる。

日豊本線・東中津駅の待合室

趣ある待合室

 待合室と出札口。荷物扱いはだいぶ昔に廃止され、窓口は大きく改修されている。

 近年、JR九州では駅の無人化が進んでいるが、東中津駅は中津市により簡易委託駅の駅員さんが配置されている。一日の乗客数は300弱位で、ICカードの普及で仕事は減っていそうだが。

日豊本線・東中津駅、木造駅舎らしい古い木の扉

 木の扉というのが重厚で味わいある。吊り具こそは換えられてるが、いかにも木造駅舎らしい風情に溢れる。

日豊本線・東中津駅待合室、木造駅舎らしさ溢れる天井

 天井を見上げると見事な板張り。改修された待合室を木の味わいで包み込むかのよう。

折りたたみ自転車で巡る日豊本線の駅舎、東中津駅から次の駅へ…

 東中津駅を堪能した後は、折りたたみ自転車で隣の今津駅へ。袋から出し展開する作業を、少し離れた所から委託の駅員さんが興味深そうに眺めていた。

[2022年(令和4年)11月訪問](大分県中津市)

レトロ駅舎カテゴリー:
二つ星 JR・旧国鉄の二つ星レトロ駅舎

念願の貴賓室公開日

 奈良県のJR畝傍駅の木造駅舎を訪れてから6日後、再び畝傍駅を訪れていた。畝傍駅をメイン会場にした音楽イベント「畝傍駅音楽マルシェ」の一環で、畝傍駅舎内に残るあの貴賓室が公開されるからだ。長い間、貴賓室を見たいと思い続けていたが、なかなか機会に恵まれなかった。大阪で他の用事もあり6日前に畝傍駅を訪れたばかりだが、これは訪れずにはいられない。駅舎は取り壊しの危機に瀕していて、この機会を逃すと、もう次は無いかもしれない…

JR桜井線・畝傍駅で開催される畝傍駅音楽マルシェ

 近鉄の大和八木駅から歩き突き当りにある畝傍駅は、いつもひっそりとしていた。しかし畝傍駅音楽マルシェの今日は賑やかだ。駅舎の屋外改札口跡では生バンドの演奏が行われている。あの大きな軒下は、こんなちょっとしたイベントにぴったり。

 駅前の露店では、地元のレストランや食べ物やさんが出店している。後でランチに何か頂こう。

奈良県橿原市、JR畝傍駅舎、貴賓室の公開日

 駅舎正面右側、固く閉ざされたままだった貴賓室前の扉は確かに開かれていた…

そして一歩

普段は非公開の畝傍駅貴賓室、ホームへ続く通路

 中に入ると、駅舎を南北に抜ける通路があった。貴賓室の写真は見た事があり、扉の向こうにいきなりあれがあるかと思っていたが、想像力が貧困過ぎた…。普段は非公開の貴賓室。イベントもあり賑わい、撮影も一苦労だ。

 通路の両側には、畝傍駅の歴史や各地にあった駅の貴賓室などを紹介したパネルが展示されていた。そしてパネルの間を通り抜けた反対側にも木の扉…、宮廷のような荘厳な駅舎ホーム側、そして木の手摺りがあるあの階段に続いているのだろう。

 こうしてちょっと見る限りは、老朽化はさほど感じない。質素だが、木造駅舎という響きがしっくり来る味わいある空間。でも昔はもうちょっと装飾があったのかもしれない。

 初代天皇の神武天皇の即位から2600年、1940年(昭和15年)に国家の威信を発揚する紀元2600年祭が大々的に挙行された。神武天皇を祀る橿原神宮でも行事が執り行われ、橿原神宮に近い畝傍駅も、その一環として現駅舎に改築された。しかし時代は戦争の色は濃くなっていく一方なので、控えめに仕上げられたのかもしれない。

畝傍駅貴賓室、貴賓室前の控えの間・次室

 貴賓室は通路の右側に配置されている。

 しかし手前にもう一つ部屋があった。門司港駅の貴賓室にもあったが、次室などと呼ばれるお付きの人々が控えた部屋だったのだろう。

例え朽ちようとも…

JR桜井線・畝傍駅の木造駅舎、天皇陛下が利用された貴賓室が残る

 次室の南隣に、貴賓室の主室があった。貴賓室として最後に使われたのは、現上皇ご夫妻が、ご成婚を橿原神宮に報告に来られた1959年(昭和34年)。それ以来、ほぼ当時の姿のまま、時だけが流れた空間はすっかり色褪せセピア色だ。屏風の後ろに幾重に波状の折り目が付けられたカーテンは手が込み上等そうだが、完全に朽ち色あせてしまった。十数畳ばかりの古びた室内は、閉塞感というか廃墟のような重苦しささえ漂わす。それでも玉座が、いつでも貴人を迎えられるかの如く配されている光景は重厚で威厳溢れる。打ち棄てられたように時を経てどれだけ古くなっても気高さは失っていない。

畝傍駅貴賓室、天井と壁の紋様

 よく見ると、壁紙には紋様が標されていた。だいぶ色あせてはいるが。天井の隅も丸みが付けられ丁寧に仕上げられている。その辺は廊下や次室と違い、高級な造りとなっている。

 照明はシンプルだが、以前はシャンデリアが吊るされていたという。そのシャンデリアは撤去こそされたが、現在でもJR西日本が保管しているという。

 貴賓室は主室を除けば意外と簡素で、主室も今でこそ色を失っているかのよう。しかし、半世紀以上も昔、この部屋は和洋の豪奢さが詰まった荘厳さ溢れる空間だったのだ。

畝傍駅貴賓室、お手洗い

 貴賓室と次室に隣接しお手洗いが設置されている。タイル張りでこちらも意外と簡素だが、昭和10年台で洋式便器というのは、珍しいのかもしれない。

畝傍駅貴賓室、お手洗い便器横の文字

 洋式便器の横には「ご使用後はこの紐を御引き下さい」という注意書きが残ったままだ。紐はもう無いけれど…

畝傍駅貴賓室のお手洗い、石鹸の蛇口

 洗面台は二つあって、一つの方は石鹸用の蛇口があった。もう一つの洗面台はお湯が出たという。簡素でも、このあたりが、やんごとなき人への気遣いというものなのだろう。

 このお手洗い、貴賓室と次室の両方から出入りできる。お付きの人にしてみれば、共用とは恐れ多い気もするが、陛下や殿下がご在室の時は利用を控え外のお手洗いを使ったのかもしれない。

畝傍駅貴賓室の玉座。元々は新大阪駅のもの。

 お手洗いから玉座をより間近に見た。元々は新大阪駅のものだという。花の紋様が織り込まれた白い布地はいまだ艶々としている。

JR桜井線・畝傍駅、ホームから駅舎貴賓室への階段

 貴賓室を見た後、ホームと貴賓室を繋ぐ階段の前に立った。駅舎という空間は、より一層重厚に私の目に映った。

[2022年(令和4年10月訪問)](奈良県橿原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

ちょっと昔の油須原駅

 国鉄田川線から第三セクターの平成筑豊鉄道に転換された油須原駅。かつて2回訪れた事がある。

平成筑豊鉄道、2006年木造駅舎改修前の油須原駅

 豊州鉄道として開業した明治28年(1895年)以来の駅舎が残ると聞き、初めて訪れたのは2006年6月。古い木造駅舎にはレトロな丸ポストが良く似合っていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅、趣ある木造駅舎だが傷みが進む…(2015年)

 2回目に訪れたのは2015年6月。9年の歳月は古い木造駅舎を、いっそう古色蒼然とさせた。いや…古くなり過ぎで心配になるほどだ。この前に訪れた同じ田川線の崎山駅ほどではないが、つるが絡み外壁や柱もボロボロだった。もしかしたら、今度来る時にこの駅舎は無いかもとさえ思った。

改修され蘇った木造駅舎

 しかし油須原駅の木造駅舎は改修される事になり、2022年2月、工事が完了した。昔の資料は残っていないものの、明治時代の姿をイメージし復元改修に取り組んだという。

平成筑豊鉄道、秋晴れの油須原駅

 11月、東海道山陽新幹線、日豊本線と乗り継ぎ、行橋駅から平成筑豊鉄道に乗換え、油須原駅に到着した。空は気持ちいいほどの秋晴れ。3回目の訪問だが、3度とも快晴。どうやら油須原駅との相性はいいようだ。

平成筑豊鉄道田川線・油須原駅、改修された木造駅舎と国鉄型駅名標

 先行きを心配した木造駅舎は、古き味わいを残しつつすっかりきれいに改修されたもの。復刻された国鉄型駅名標もよく似合う。

油須原駅、千鳥式ホームなど石炭輸送で賑わった国鉄田川線時代を留める構内

 ホームを互い違いに配置した千鳥式のプラットホームと、その真ん中には中線を剥がした痕跡、片隅には側線跡。いち無人駅にしてはかなり広い構内だが、国有鉄道時代は石炭で活況を呈した筑豊の名残をを留めていた。きっと石炭を満載した長大編成の貨物列車が、一日に何度もすれ違ったのだろう亥。

 側線ホームには、腕木式信号機が一本あった。以前は無かったように思うのだが、どこかから移設し保存しているのだろう。

3度目の油須原駅、駅舎の造りとムードを堪能

 駅舎正面に回ってみた。屋根瓦は取り替えられピカピカ。以前はサッシだった窓枠は木のものに取り替えられた。だけど木の外壁は古びたまま。新しくなりながらも、昔からの古さが調和した味わい感じさせる姿に仕上げられた。

 丸ポストは以前と同じ場所に、コンクリートの高い台座にのっかっているのは相変わらずだ。

平成筑豊鉄道油須原駅、レトロなムード溢れる木造駅舎

 軒下に立つと、まさに昔のままの木造駅舎の風情感じる。軒は古いままで、こちらも昔からのものを続けて使っているのだろう。裏側を見ると、碍子や壁を伝うように古い電線が繋がれたままだった。電線はすっかり錆び付きもう使わていない事を物語っていたが…

油須原駅の木造駅舎、軒の古い柱は石炭色に…

 ちょっとした装飾がワンポイントの木の柱は塗装越しにすっかり古びているのがわかる。石炭をイメージしたのか…柱の色は真っ黒だ。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎土台コンクリート縁のレンガ

 駅舎の床はコンクリートで塗り固められ、まわりはレンガで縁取られていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎側面のレトロな「預所」の看板

 改修前には駅舎正面の出入口左側に「預所 自転車 手荷物」の古い看板が掲げられ、油須原駅を象徴的な風景だったもの。改修後の写真では無くなっていて、あんなレトロで味わいあるもの撤去したのかと残念に思っていたが、右側側面に移設されていた。軒下のこの部分は自転車置場として利用されちょうどいい。

待合室

平成筑豊鉄道・油須原駅舎、待合室もレトロな造りを残す

 待合室に入ると
 「うわぁ…」
思わず感嘆のため息を漏らした。古い木が敷かれたままの天井、木枠の窓、昔ながらの形が復元された出札口跡…、古き良き時代の光景が目の前に広がったかの心地。

平成筑豊鉄道・油須原駅、古いままの駅舎窓枠

 駅舎の窓枠台座は古い木のまま。すり減った木の無数の傷が年月を物語る。

平成筑豊鉄道・油須原駅、駅舎待合室の伝言板・拾得物案内板

 待合室には伝言板、拾得物のお知らせ掲示板まで残っていた。私が学生服を着ていた頃までは、こんなモノが地元の駅に残っていたもの。懐かしく何か書きたくなってくる…

平成筑豊鉄道田川線・油須原駅待合室、呉服店のレトロな広告

 片隅には手書きのレトロな駅広告が掲示されていた。

 後に帰宅し、過去の油須原駅の画像を見た限り、この広告は無かったよう。どこか他の駅から持ってきたのだろうか…?

 呉服店は、地方の街を歩いていると今でもよく見る。伊田本局前とは、郵便局か電話局か…?伊田とは昭和57年に田川伊田駅と改称された国鉄の伊田駅あたりの事だろうか?この店は今も健在なのかとGoogleマップで検索してみたら見つけられなかった。やはり時の流れ、無常を感じずにはいられなかった。

油須原駅待合室、レトロな広告下部の古いプレート

 この駅広告で気になったのは、額の下に金属の小さなプレートが取り付けられていた事だ。プレート後半の「…司支部」読めたが、他はほとんど消えとても判読し辛い。

 旧字交じりで
「鐵……司」ん?「…弘…」「…廣告部」かな…?
さらに目を凝らし判読できた文字を繋ぎ合わせ、頭の中で文脈を考えると、恐らく 「鐵道弘済会門司支部廣告部」と書いてあるのだろうと推察できた。

 鉄道弘済会…私の中では、かつてJR・国鉄駅の駅構内で売店のキヨスクを運営していたというイメージだが、1931年(昭和6年)に、鉄道業務で殉職や負傷をした鉄道公傷職員に対する福利厚生を目的に設立された。鉄道弘済会は今でも存続しているが、昔は駅広告の事業も取り扱っていたのだろう。

 左読みというのを考えると、戦後に作られた広告なのだろうが、それにしても支部が門司にあるというのが、かつて九州の入口が門司港駅がある門司だった頃の名残よとしみじみと感じさせた。

レトロな看板たち

 再びホームに出てみた

平成筑豊鉄道・油須原駅、古い国鉄仕様の縦型駅名標

 軒の柱には古い縦型の駅名標が取り付けられたままだった。色あせた毛筆体の看板…、かなり古そうだ。

油須原駅、国鉄のキャンペーン・ディスカバージャパンのポスター

 壁には1970年台の国鉄のキャンペーン「ディスカバージャパン」のポスターが貼られていた。

平成筑豊鉄道・油須原駅の木造駅舎、閉塞器室

 閉塞器室とも呼ばれる駅舎ホーム側の出っ張りも、綺麗に改修されていた。

 周囲には「気象告知板」「通票仮置場」など古い表示があり、中には鉄道資料館なんかで見る赤い道具・通票閉塞器が置かれていた。「通票」とは単線区間の通行証と言えるもので、自動化以前はタブレットなど通票を持つ列車だけが、その区間を通行する事ができた。

 ガラス窓には「次の鉄道作業体験室公開は…」という貼紙がしてあった。月に一回程度、旧事務室が公開され、タブレット取扱いなどかつての駅員さんの作業が体験できるという。昔の駅の仕事を現代の人に伝える…、言うなれば鉄道無形文化遺産だろうか。

輪行の旅、平成筑豊鉄道・油須原駅からDahonK3で…

 思わず長居してしまったが、そろそろ出発しなければいけない。折りたたみ自転車のDahonK3を展開し、惜しみつつ振り返り油須原駅を発った。途中まで田川線を辿りつつ、今日は同じ福岡県内の築上市を目指して走る。

[2022年(令和4年)11月訪問](福岡県田川郡赤村)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

建て替えか…?今後に揺れる歴史ある駅舎

 JR桜井線(愛称: 万葉まほろば線)には、貴賓室を備えた木造駅舎が残っている事で知られている。

 畝傍駅の開業は1893年(明治26年)。桜井線の起源となる大阪鉄道・高田‐桜井間の開業時に開業した。初代天皇の神武天皇陵や、神武天皇と皇后を祀る橿原神宮に近く、参拝客で駅は賑わったという。皇族の利用も想定され、駅は開業時から貴賓室を備えていたという。

 神武天皇即位から2600年にあたる昭和15年(1940年)、皇紀2600年祭が大々的に執り行われた。記念事業の一環として、畝傍駅は現在も残る木造駅舎に改築された。

 そんな貴重な木造駅舎が取り壊しの危機に瀕している。JR西日本は畝傍駅舎の橿原市への無償譲渡を提案し、橿原市は活用する民間業者を募る方向だったが、維持費の高さから断念。耐震化工事など初期費用だけで2億円と莫大が額が試算され、財政状況が厳しい中、橿原市がそこまで負担するのは困難だろう。

 しかし駅舎の保存を望む人々が「JR畝傍駅舎の保全活用を進める会」を立ち上げた。会の設立は最後の希望。しかし無償譲渡の期限は2023年3月。それまでに保全活用の道筋が立てられなければ取り壊され、悲しい位の小さな駅舎に変わり果ててしまうだろう…

シンプルだが宮廷を思わす風格ある木造駅舎

 名古屋から近鉄特急に乗り大和八木駅で下車した。JR西日本・畝傍駅から歩いて10分もしない大和八木駅は、橿原線、大阪線の4方向からのレールが交わり、京都、奈良、大阪にも繋がる。特急列車もほとんどが停車する主要駅で、もっと近くには、橿原線の八木西口駅がある。近鉄は畝傍駅よりはるかに利便性は高く、畝傍駅はいつも閑散としているものだ…

 大和八木駅から南に歩くと、JR畝傍駅に突き当たった。

 何回か訪れているが、相変わらず壮大な木造駅舎だ。左側の屋外改札口跡を覆う上屋はまるで大きな翼を広げているかのよう。そんじょそこらの駅をはるかにしのぐ威光。駅舎右側の約3分の1程が、あの貴賓室となっている。

桜井線・大柄で威容感じる木造駅舎のある畝傍駅、右側に貴賓室。

 貴賓室という稀有な個性こそがあるが、駅舎の造りは特に手は込んでいなく素朴な雰囲気で、よくある木造駅舎がそのまま大きくなったような感じだ。

桜井線・畝傍駅舎、左側降車用改札口跡の広大な木造上屋

 駅舎左手に広がる屋外の降車用改札口跡に来てみた。一つ一つ古びた木で組まれた空間は郷愁溢れ深い渋味感じさせる。かつては出雲大社の参拝駅として賑わった旧大社駅のように、いくつも改札ラッチが連なっていたのだろう。橿原神宮、神武天皇陵への参拝客でで賑わった過去を思い起こさせる。

桜井線・畝傍駅舎、軒を支える木の柱と打ち込まれた釘

 広大な上屋を支えるのは一本一本の木の柱。長い年月で風化し木目浮かぶ。その昔、職人さんが打ち込んだのだろう…、根元に打ち込まれた釘はすっかり錆び付いていた。

畝傍駅、大柄な木造駅舎の軒は宮廷の回廊を思わす

 普通の木造駅舎よりも大きな駅舎は人を小さく見せ、不思議な感覚にさせられる。

 大柄な駅舎に回廊のように巡らされた軒の下を歩いていると、まるで宮廷にいるかのような心地になる。昭和天皇や皇太子時代の上皇と上皇后も利用された駅という歴史がそう思わせるのか…?でも、ヨーロッパの宮殿や邸宅のきらびやかさを思えば、寺社など和風の歴史的建造物は木造でシンプルではあるが、荘厳さを感じるもの。畝傍駅舎もそんな風に思う。

 古い畝傍駅舎の写真を見ると、かつては降車用改札口の上屋が南に90度曲がり、更にもう一つの建物と繋がっていた。それが何の建物かは知らないが、益々、宮廷のような風情に満ち溢れていた。

閉ざされた貴賓室

 駅舎右手の貴賓室の方に行ってみた。駅舎前全体はコインパーキングとなっていて、貴賓室前にも車が止められていた。少し撮影しずらいが、幸い隣二区画は開いていた。シャッフル状態で、全部埋まっていたら不運だったが…

桜井線畝傍駅、駅舎右側の貴賓室の木の扉

 貴賓室の辺りは屋根は入母屋風の造りになっている。出入口は木の扉で固く閉ざされている。貴賓室として最後に利用されたのが1959年(昭和34年)、皇太子殿下と美智子様が、ご成婚を橿原神宮に報告参拝に来られた時。

 重厚で味わいある扉だが私には恨めしい…。貴賓室の中を是非とも見てみたいものだが、非公開。しかし1年に1回程度、不定期に公開されている。時折、畝傍駅の事を思い出しては公開日は無いかと調べるのだが、なかなかない。気が付いても1ヶ月を切っていてて、休みの調整がつかなく泣く泣く行けなかった事が何度あった事か…

JR畝傍駅の木造駅舎、貴賓室前の造り

 そう言えば貴賓室に出入りする階段が無いなと思った。気持ち高い段差はあるものの、脚が悪くなければ簡単に昇り降りできる。しかし、天皇陛下に対し、この程度の段差を上れというのも失礼だろう。

 よく見ると両端からブロックの縁のようなのもが、緩く弧を描きながら扉の前に続いていた。そして扉の前だけコンクリートの色が微妙に違う。多分、かつては階段があったが、貴賓室として使われなくなってだいぶ過ぎ、埋められたのかもしれない…

桜井線・畝傍駅貴賓室、出入口脇の照明の台座跡

 木の扉の両脇には、照明を抜き取った痕跡が残っていた。簡素だがどんな品格ある照明が取り付けられていたのかと思うと、わくわくする。

 切望し続けたが、この扉、6日後には遂に私にも開かれる事になる。

昔日の賑わい感じさせる駅…

 駅舎内部の待合室の中に入ってみた。

桜井線・畝傍駅舎の待合室、広いが無人駅で窓口は塞がれた

 天井は高く面積もかなり広い。しかしちょうど38年目位の1984年(昭和54年)10月20日より無人駅となった。列車が発着するひと時は賑わうが、過ぎ去ってしまえばひっそり寂し気な空気に戻る。

 窓口は塞がれ、改札・出札口と手小荷物用の窓口がひっそりと残る。だだっ広い割に、ベンチは壁際に数脚あるだけだった。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、窓口跡の大きな掲示板

 窓口跡の上には、大きな掲示板が残されたままだ。4~5m位あるだろうか?駅舎の大きさに合わせ、かなり長い。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、待合室片隅の窓口のような一角

 待合室内、窓口跡の反対側の一角には、箱のような小さな部屋が残されていた。小さな木のカウンターを備え、下部にはドアノブが付いた扉もあった。ここからこの小部屋に出入りしたのだろう。

 ここは何だったのだろうか…。売店?参拝客のための案内所?それとも遠方からの参拝客もいた事だろうから、旅館の案内所でもあったのだろうか?

桜井線・畝傍駅プラットホーム、柵や上屋を支える柱は木製でレトロ

 プラットホームは長く幅の広い相対式ホームが2面の配線。今では一時間に1本か数本、基本2両編成の列車がやってくるだけ。駅舎に面した1番線が桜井・奈良方面、離れた2番線が高田・王子方面のホームだ。

JR畝傍駅1番線、ホーム端の古い木の柵

 1番ホーム端の方だけ、古い木の柵が残っていた。木の柵にはちょっとした装飾が施され、レトロな趣き。

畝傍駅の木造駅舎、ホームと貴賓室を結ぶ階段の木の手摺り

 駅舎ホーム側も長く広い木の軒で覆われ、まるで宮廷か寺社の回廊のよう。

 長いホームと回廊を備えた駅舎は3つの階段で繋がれていた。そんな風景を見ると、なんて壮大な駅舎だとしみじみと思った。

 西側の階段は貴賓室に、真ん中の階段は改札口跡に続いている。二つとも手摺りは木製で古び、こんな所にも駅の歴史が宿る。もう一つは、あの降車用改札口跡に続いていたが、手摺りは既に撤去され、ホームとは金網で仕切られていた。コンクリートの階段だけが残り、かつての名残を感じさせた。

桜井線・畝傍駅の木造駅舎、貴賓室目線から見た階段

 貴賓室ホーム側の塞がれた扉の前に立った。畝傍駅が華やかだった頃、天皇陛下、皇太子殿下がどんな風景をご覧になられたか追想したかったからだ。いや、何と恐れ多い!私なんかは良くてもお付きの人だと思い直し、味わいある階段をしばし見つめた後、ホームに上った。

[2022年(令和4年10月訪問)](奈良県橿原市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

6日後、貴賓室内部へ…

 この訪問から6日後、イベント「畝傍駅音楽マルシェ」の一環で、畝傍駅貴賓室が公開された。貴賓室内部について詳しくは以下の記事
JR畝傍駅貴賓室~往時のまま時だけが流れた気高き空間~
までどうぞ。

JR桜井線・畝傍駅の木造駅舎、天皇陛下が利用された貴賓室が残る
公開された畝傍駅貴賓室(2022年10月)

畝傍駅FAQまとめ

  • 畝傍駅の貴賓室は公開されている?

    通常は非公開だが、不定期、1年に1回程度、公開される。公開日は大きなニュースにならないので、常にネット等で情報のチェックを。最近では畝傍駅を主会場にした音楽イベント「畝傍駅音楽マルシェ」が時々開催され、その時に貴賓室も公開されているようだ。公開時の様子はこちらの記事へ。

  • 畝傍駅舎は取り壊されるの?

    きわめて危険な状況。橿原市へ無償譲渡・活用の話があったが、改修など初期費用に莫大な額が見込まれる事から暗礁に乗り上げた形。保全活用を模索し市民らが「JR畝傍駅舎の保全活用を進める会」を立ち上げたが、JR西日本への回答期限の2023年3月は迫る…。近年の概要は記事へ。

  • 畝傍駅の現駅舎はいつ建てられた?

    昭和15年(1940年)、皇紀2600年祭事業の一環として改築された三代目駅舎。

  • 貴賓室が最後に使われたのはいつ?

    1959年(昭和34年)、今の上皇ご夫妻で当時の皇太子殿下と皇太子妃の美智子様が、橿原神宮にご成婚の報告にいらした時。

昭和のような空気感に迎えられ…

 山陰本線・湖山駅から折りたたみ自転車を漕ぎ、宝木駅(ほうぎえき)を目指した。

宝木駅のある鳥取市気高町の眺め

 日本海側に出て坂を超えると、行く先に街並を見下ろした。目的の宝木駅はあの中だ。

鳥取県鳥取市気高町、宝木駅近くの街並み

 無人駅となった駅で、寂れどれだけひっそりした所にあるのかと想像していたが、坂を下ると、家屋などが密集する懐かしい雰囲気の街並があった。古くからの街なのだろう。これなら、かつて駅に銀行が入居していたのも納得だ。

 そして宝木駅に到着。駅前の駐輪場に自転車を停めた。

 近くのスピーカーからは流れる曲は何故かド演歌。そして駅舎の軒下には、飲料を持ちながら気だるそうに座るた一人のおじいさんがいた。酔っ払い…!? 昔の地方の駅には酔っ払いがよくいたものだが、令和になってまでいるのか…。しかも静かな駅前に流れる演歌が不思議な時代感を掻き立てる。

 駅舎前景を撮影したいが、とりあえず他の部分から見る事にしよう。

山陰本線・宝木駅、旧駅事務室にはかつて銀行が入居していた

 旧駅事務室には2018年7月までは銀行が入居していた。銀行の撤退は4年前だが、その痕跡はよく残る。窓は格子で覆われ、ガラスの扉は内側が更にシャッターで覆われるなど、多額のお金を取り扱っていたためガードは他の駅より固めだ。

山陰本線・宝木駅、廃れた側線跡

 駅構内の鳥取方面には側線ホーム跡が残っていた。2線分と広さがあり、1線はいまだにレールが残る。宝木駅での貨物の取り扱いが廃止されたのが半世紀も前の1970年。敷かれたままのレールは錆び付き、ホームの石積みは風化し遺跡のよう。長い年月を感じさせる。

山陰本線・宝木駅、キハ121系気動車の普通列車

 1番ホームはゆったりとした幅がある。この辺りは2004年、鳥取市に合併される前は気高町で、更に前の1955年までは宝木村という自治体だった。本線の駅で村の玄関口の駅の風情をいまだ残しているかのようなゆとりだ。

 ちょうど鳥取行きの普通列車が入線してきた。山陰でよく見る古参の国鉄型キハ40ではなく、新しいキハ121だった。

取り壊される方向の木造駅舎

 あの男性がいつの間にか立ち去っていたので、駅舎をじっくり堪能しよう。

JR西日本山陰本線・宝木駅、かつて銀行が入居していた木造駅舎

 駅舎は新建材の外観で、旧駅事務室に銀行が入居していたため新築のようで、古き良き味わいは今一つ。しかし軒が取り囲む造りが、古い木造駅舎らしい端正さを残している。

 宝木駅の開業は1907年(明治40年)4月28日。この駅舎はいつ建てられたのかはっきりしないが、かなり古いのだろう。

 木造駅舎など山陰地方の古駅舎は、近年、簡易駅舎への建て替えがが進んでいる。鳥取県内では、山陰本線5駅、因美線4駅で「駅舎のシンプル化」の方針が公表された。乗降客数一日3000人未満で、築60年が過ぎた駅舎が対象だ。一日の乗客数130人程度、銀行が撤退した宝木駅舎もその一つ。地元も乗降客の利便性を損なわない程度のシンプル化は止む無しとの考えだ。

 取り壊し時期は今の所未定で、シンプル化対象の駅が順番に15年以内に建て替えられていくという。

山陰本線・宝木駅の木造駅舎、木の古い柱

 外観のほとんどは改修されたとは言え、軒を支える木の柱は古いまま。古び色あせた木の柱が並ぶ様は、歴史ある寺社の一部を見ているかのよう。「宝木」という有難そうな駅名がそう思わすのか…

宝木駅の木造駅舎、新し木材を継ぎ足され改修された柱

 何本もの古い柱の一本は、真新しい木を継ぎ足され改修されていた。風化し木目浮かぶ部分と、まっさらでつるつるの部分との差は歴然。

 古駅舎のほとんどは、いつか取り壊されるものだ。しかし、こうして懸命に維持されてきた木造駅舎。取り壊しの運命を突きつけられたのは虚しさを感じずにはいられない…

山陰本線・宝木駅の待合室、無人駅となり閉じられた窓口跡

 待合室も大きく改修されている。簡易委託駅として数年前までは使われていた切符売場も残っていた。

山陰本線・宝木駅、出入口の枠やベンチなど木造駅舎らしい造り…

 しかし木の古い造り付けのベンチ、改札口付近の木材など、僅かながらも木造駅舎らしい趣ある造りを残していた。

[2022年(令和4年)8月訪問](鳥取県鳥取市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

美作加茂駅から折りたたみ自転車で知和駅へ…

 知和駅を訪れるため、早朝5時1分津山発の因美線始発列車に、輪行袋に入れた折りたたみ自転車を抱え乗り込んだ。と言っても、この列車は快速で知和駅は通過してしまう。智頭始発の上りに、車両を送り込むためのダイヤで、需要があっての快速ではない。なので、さっさと車両を送り届けるため、利用者が特に少ない駅は通過しているのだろう。

 私の他1人の乗客を乗せ、列車は夜が明け始めた空駆けだした。

因美線、美作加茂駅を発つ早朝の下り始発列車

 定刻の5時28分、美作加茂駅に到着した。

 少し駅を撮影すると、駅の外で自転車を展開した。ここからは自転車で知和駅へ走る。道はほぼ因美線に沿っているので、大体4㎞位だろうか?

因美線・美作加茂駅-知和間の沿線風景

 レールができるだけ見える道を選びながら走った。この時間の列車は無いが…。道は緩やかな上りが続いた。だけど苦にならない程度で、すいすいと知和駅に進んだ。

自転車で因美線沿線を走り、知和駅が見えてきた…

 もうそろそろかと思った頃、見慣れた感じの待合室やワンマン運転用のミラーが少し遠くに見えた。知和駅のプラットホームだ。

折りたたみ自転車・ダホンK3で因美線の知和駅へ…

 道中、写真を撮りつつ走り、30分程度で知和駅に到着した。まずは旅を共にしている愛車・Dahon(ダホン)K3を入れ記念撮影…。

 2009年以来、約13年振りの訪問だ。そして初めて訪れたのが2004年。それから18年経っているが、素朴な木造駅舎は、ほとんど変わらぬ姿のまま私を迎え入れてくれた。

変わらぬ佇まいの純木造駅舎

 毎年、いくつもの古駅舎が失われているが、これぞ純木造と言える駅舎は相変わらずで、何と喜ばしい事か。新しさ感じる現代的なものは無く、古びた木の質感が更なる風格をを添える。

 知和駅の開業は1931年(昭和6年)9月12日、美作加茂駅‐美作河井間の延伸開業時。その時以来の木造駅舎が現役。何と築91年だ。

因美線・知和駅、一面一線のホーム

 ホームは一面だ。駅舎との間に植栽が植えらているのが田舎の駅らしいゆったりとしたムード。桜の木も何本も植えられている。今度は絶対、桜咲き誇る春に来たい。

JR西日本因美線・知和駅、側線ホーム跡

 旅客ホームは1線だが、智頭方には側線ホームの跡があった。ただ廃されて何十年と過ぎたのだろう。すっかり雑草だらけになり地面に溶け込み、木々は小さな側線ホームを覆う程に成長している。

因美線・知和駅の木造駅舎、側面も古い造りを残す

 駅舎側面には倉庫の引戸があって、駅員さん用の出入口があって…。こんな所の昔のままの造りもまた味わい深い。

因美線・知和駅、窓枠は全て木製の純木造駅舎

 駅舎の窓はすべて木枠。外観が木の質感豊かな純木造と言える駅舎でも、窓はサッシ窓に取り替えられている駅が多い。しかし知和駅の窓枠は全て木製。何と郷愁溢れる佇まい!正面、駅事務室跡の窓はかつてサッシだった。しかしいつしか木枠に取り替えられた。「ほとんど変わらぬ姿のまま…」と言ったのは、この部分が変わってていたから。だけど、いい風に変わったものだ。

因美線・知和駅の木造駅舎、築90年を超え風化が進む…

 駅舎の木の板張りは古びている。いや…、長き年月に削らたようにすっかり風化しているといった趣。薄くなった板には皴のような木目がいくつも浮かび上がっていた。

因美線・知和駅、古びて苔生す木造駅舎

 板張りがすっかり古くなり、地面に近い部分には苔さえ生していた。長き年月をしみじみと感じる。しかし少し心配ではあるが…

因美線、早朝の知和駅に入線した津山行き一番列車

 列車接近の気配がしたのでホームに出てみると、津山行きの列車が入線してきた。知和駅に停車する今日最初の列車だ。先ほど美作加茂駅までり、智頭から折り返して来た車両だ。

素晴らしき待合室、そして窓口跡…

因美線・知和駅の木造駅舎、昔のままの待合室

 外観だけでも素晴らしいのだが、知和駅の凄みはこの待合室にこそあると思う。改札口、造り付けのベンチ、窓枠、窓口跡、天井…、すべて古びた木のまま。まさに何十年も前で、時が止まったままの空間。ここまでの木造駅舎はもうほとんど無い。知和駅に来るのは3回目だが、その度に同じ写真を撮っている。それでも飽きる事は無い。

因美線・知和駅、ほぼ原形を留めた木造駅舎らしい窓口跡

 出札口(切符売場)と手小荷物窓口も昔の造りをほぼ留めている。木のカウンターもそのままだ。

 細かい事を言えば、JR西日本シールが張られた出札口の窓部分が改修され、一枚の大きな窓になったと思われる。昔は木次線の八川駅のように、木枠で細かく仕切られていたのだろう。しかしそんな改修をものともしない程い、木で組み上げられた空間は、しみじみと味わい深さを感じさせる。

因美線・知和駅の木造駅舎、昔の造りを残す駅事務室跡

 知和駅が無人駅となったのは、1970年と半世紀も前だ。しかし駅事務室内部は、昨日まで駅員さんがいたのではと思わせるほど昔の造りを留めている。そして古いながらもきれいで、荒んだ感じは皆無だ。

 室内の黒板を見ると、地元の老人会の方々が出入りしているよう。きっとこの駅舎に、色々と気を配り大切にしてくれているのだろう。いつか私もこの中に入ってみたいもの…

因美線・知和駅、ダホンK3を輪行袋に収納し列車を待つ…

 美作加茂駅で自転車を展開したばかりだが、再び輪行袋に収納しホームまで担いだ。そして、智頭行きの下り列車を待った。今日の駅巡りは始まったばかりだ。

[2022年(令和4年8月訪問)](岡山県津山市加茂町)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

近鉄とJRが切れ目なく繋がる駅

近鉄吉野線・JR和歌山線の乗換駅で共同使用駅・吉野口駅

 近鉄吉野線の列車に乗り吉野口駅にやってきた。吉野口駅はJR西日本の和歌山線との乗換駅。3面5線のホーム配置だが、駅舎に面した1番線を近鉄吉野線の吉野方面行が使う。隣は島式ホームだが、2番線が吉野線の大阪阿部野橋方面行き、反対側の3番線をJR和歌山方面行。その隣の島式ホームの4.5番線は和歌山線の王寺方面が発着する。

 中間改札は無く、まるで同じ鉄道会社のように、この駅は使われている。管理は両社共同で行っているが、JR西日本側の駅員が常駐している。

JR・近鉄吉野口駅、石積みホームと木造上屋がレトロな佇まい

 列車本数はそれほど多くなく、駅は静かだ。3面5線のホームは持て余し気味…。しかし、石積みに古い木の上屋が掛けられたプラットホームが並ぶ様はどこか懐かしく、古き良き時代の鉄道風景を見ているかのよう。

築124年、明治の駅舎がひっそりと残る駅

 改札口を通り抜け外に出て駅舎を眺めた。開業は1896年(明治29年)5月10日、JR和歌山線の起源となった南和鉄道時代。当時の駅名は葛駅だ。近鉄吉野線の起源となる吉野軽便鉄道の乗り入れは、16年後の1912年(大正元年)10月25日だ。

 レトロな木造駅舎は明治の開業以来のもの。何と築124年!!シンプルだが風格感じさせる佇まいだ。

吉野口駅、駅舎の壁と雨樋の排水口

 木の質感豊かな板張りは、実は後年の改修によるものと思われる。人工木材とでも言うのだろうか…?合成か何かの板の上に、人工の木目を入れたもので、経年劣化でその木目が剥がれている部分もある。今どきの住宅のような新建材で改修すると味わいはだいぶ落ち、正直残念に思うものだが、よく考えたものだ。

 それよりも雨樋の排水口が石造りなのが古めかしく目を引いた。

JR・近鉄吉野口駅の木造駅舎、装飾が施された車寄せ

 とは言え、所々で元々の木材の部分も残っていた。車寄せも木の造り。防鳥用のネットで覆われているのが惜しいが、持ち送りのちょっとした装飾もいい。

吉野口駅の木造駅舎、古い木の造りを残す出入口

 出入口の木枠も古い木のままで、木目が深く刻まれている。改修部分との質感の差は歴然。

駅前に…待合室に…残る時代の香り

奈良県御所市、吉野口駅前の街並み

 駅前にはこじんまりとした街並が広がっている。ローカル線駅前の常で、商店の多くが既に閉店しているよう。しかし一軒の鮮魚店は営業中。

 ここから歩いてすぐの所に、柿の葉寿司で知られる柳屋がある。明治創業で古くから吉野口駅で駅弁を販売していたが、2018年で駅からは撤退したという。しかし吉野口駅に降り立ち、気軽に寄れる距離なのが嬉しい。

吉野口駅前、おたふく窓のレトロな食堂

 駅に面して一際目を引く家屋がある。2階部分のおたふく窓や瓢箪のような小窓が何とも言えないレトロさを醸し出し、鬼瓦が恵比須様というのもいい。以前、吉野口駅に来た時も気になったこの家屋、食堂で店先にはレトロなたばこのショーケースまであったもの。でも普通の家屋にしてはやや大振りで、かつては旅館か何かだった風情。

 しかし十数年振りに来ると、空家となっていた。色を失ってしまったかのように佇む風情がどこか寂しい。

吉野口駅の木造駅舎、古い造り付けベンチがる待合室

 待合室に戻ってきた。広い待合室の壁の両側に、長い造り付けの木製ベンチが真っすぐ伸びている様は壮観。それだけでなく、かつては真ん中にもベンチが並べられていたのだろう。乗換駅として、吉野観光で…、あるいは地元住民の利用客で賑わった様子が思い浮かぶ。

 造り付けベンチが奥の壁に届かず、手前で途切れているのは、かつての売店があった名残りだろうか…

吉野口駅待合室と出札口、JRと近鉄の自動券売機が並ぶ

 窓口は改修され昔の面影は無い。かつての手小荷物窓口の前には、近鉄とJR西日本の自動券売機が仲良く並んでいた。

吉野口駅の木造駅舎、待合室の古い造り付けベンチ

 外壁は改修されているが、木製の造り付けベンチの木の質感はどこまでも味わい深かった…

[2020年(令和2年)11月訪問](奈良県御所市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

新野駅、駅舎と風景

徳島県阿南市、牟岐線の新野駅に入線したローカル列車
牟岐線の駅を巡りつつ室戸岬を目指した。阿波福井駅から一駅折り返し、木造駅舎が残る新野(あらたの)駅へ…
牟岐線・新野駅構内に残る枯れた池のあるミニ庭園跡
ホームからスロープを下ると、正面には池が枯れてしまったミニ庭園跡があった。
牟岐線・新野駅、現在は一線にプラットホーム一面の構内配線
昔は島式の2線だったらしいが、現在では1面1線の構内配線に改修され、いわゆる棒線駅に。
JR四国牟岐線・新野駅舎、ホーム側の木造上屋
昭和12年と標された建物財産標が付く木造上屋の柱には、木目刻まれた古い造りを残す部分も。
JR四国牟岐線・新野駅構内に残る安全塔
スロープ横には駅構内でもよく見る安全塔が残っていた。外観が石張りで「安全」の文字がかたどられていた。
JR四国牟岐線・新野駅、改修され生き残る昭和の木造駅舎
新野駅では改修されながらも素朴な姿を留めた木造駅舎が現役だ。妻側に出入口があるのが特徴的。
JR四国牟岐線・新野駅の木造駅舎、改修された壁面
ただ他のJR四国の木造駅舎のようにやや味気なく改修され、両妻側が新建材。平側は木だが張り替えられたように見える。
JR四国牟岐線・新野駅待合室と無人駅となり塞がれた窓口跡
待合室。四半世紀以上前に無人駅となり窓口は塞がれ、かわりに液晶のディスプレイが取り付けられた。
牟岐線新野駅、駅施設跡に植えられた桜の木々
かつて貨物ホームがあったと思われる場所には桜の木が植えられている。

新野駅訪問ノート

 新野駅の開業は1937年(昭和12年)6月27日。牟岐線が桑野駅から阿波福井駅まで延伸開業したと同時に開業した。

 その時以来と思われる木造駅舎が健在だが、他のJR四国の木造駅舎のように、きれいに…というか味気なく改修されてしまった感…

 ただ、そんな改修駅舎のほとんどが、店舗入居や古い駅舎のリニューアルのため、洒落た明るい雰囲気になった。しかし新野駅の駅舎は、木造駅舎らしい素朴さが保たれた外観になったのは注目に値すると思う。

 もう一つ気になるのはホームの狭さだ。国有鉄道のちょとした駅なら、長いプラットホーム、側線に貨物ホームなど、それなりの規模を有する場合が多い。かつては島式の2面2線だったようだが、それにしても狭く短いように思う。田舎のローカル線で開業時から大きな需要は見込まれず、小規模な駅となったのだろう。

 新野駅の昔の写真を見ると、駅舎の南側、阿波海南方に貨物ホームがあったよう。そのレールは島式ホームの駅舎寄り番線にも面し、両ホームで共有していたよう。

 JR四国の木造駅舎と言えば、近年では多くの無人駅のトイレの閉鎖されたり、古い木造駅舎が小さな簡易駅舎にじわじわと改築されているのが話題だ。この四国の旅でも、同じ牟岐線の阿波中島駅が建て替えられる直前だった。新野駅にも建替えの手が迫って来るのだろうか…

[2021年(令和3年)7月訪問](徳島県阿南市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

東海道本線の終点、山陽本線の起点の駅

東海道本線終着駅、山陽本線始発駅の神戸駅のプラットホーム

 大阪難波駅から阪神電車に乗り三ノ宮駅に。そして神戸駅にやって来た。ゆとりもって配されたプラットホームと、重厚な上屋が私鉄と違う国鉄駅らしさを漂わせていた。

JR神戸駅、東海道本線・山陽本線のキロポスト

 神戸駅は東京駅から続く東海道本線の終点、そして門司駅へ伸びる山陽本線の起点の駅だ。5番ホームから見える所に、その事を示すキロポストが設置されている。もっとも両線で途切れなく列車は運行されていて、地元の人々にしてみればJR神戸線と言った方が耳に馴染んでいるかもしれないが…

JR神戸駅、ほとんど使われない1番ホーム

 神戸駅は高架駅で、2面3線に加え5番線の外側に引き上げ線がある構内配線だ。上り線の1番線はかつては優等列車が使っていたという。現在では朝ラッシュ時に僅かの列車しか入線せず、それ以外の時間帯は閉鎖されている。

 神戸駅は市の名を冠する事から察せられるように、神戸市の国有鉄道側の中心駅だった。今でもJR西日本の駅の中では上位に位置するほど乗客数は多いが、阪神や阪急と言った大手私鉄もターミナルを構える三ノ宮駅に、中心駅の地位は移った感だ。

堂々たる洋風駅舎

JR神戸駅舎、高架下コンコースの重厚な柱

 改札を通り高架下を東西に貫くコンコースに出ると、ずっしりとした円柱が並ぶ。現代の駅らしく店舗が並ぶが、昔ながらの主要駅らしいムードが漂う。

 乗降客が多く、駅舎は改修されながら使われているのだろう。柱はきれいだが、天井近くの部分には古い装飾が残されたままだ。

 神戸駅には1930年(昭和5年)、駅の高架化に先駆けて建てられた洋風駅舎がいまだに健在。よく阪神淡路大震災を耐え抜き生き残ってくれたものだ。形状はシンプルで質実な感じだが、渋い茶色のスクラッチタイルが敷き詰められた洋館は威風堂々。いまだに神戸第一の駅だった頃の風情を漂わせている。

 このJR神戸駅舎は2008年(平成20年)、近代化産業遺産に認定された。

JR神戸駅、レトロな駅舎に掲げられる大時計

 大きな採光窓が並ぶ様も味わい感じさせる。

 建物の中心部には大時計が埋め込まれ、現在でも時を刻む。最近、スマホなどで誰もが時間を知る術を持っているから、駅から時計を撤去する動きがあるというニュースがあった。だけどレトロなターミナル駅では、こんなふうに大時計を堂々構える姿がやはり似合っている。

JR神戸駅、東・海側の「浜手側」

 神戸では六甲山のある側を「山手」といい、海側を「浜手」という。駅舎がある山手側とは反対の浜手に出ると、目の前には街並ではなく都市高速の高架が立ち塞がり、タクシー乗り場や一時駐車スペースなどが雑然と映る。奥には高層ビルが立ち並ぶ。裏口に出てしまった感あり戸惑うが、商業施設の神戸ハーバーランドと地下街で繋がっている。

 神戸駅の浜手側は駅舎のような構造物は無く、すぐ高架下の駅施設となる。しかし壁面はタイル張りで、デザインは山手側の駅舎に準じている。

貴賓室は今…

 神戸駅と言えば、天皇皇后陛下も利用された貴賓室があった事で知られている。私も2005年に訪れた時、飲食店の奥に残された貴賓室内をガラスの仕切り越しに見たものだ。長い間、貴賓室として利用実績こそはなかったものの、玉座まで残っていた。

 その貴賓室も無くなったのはおぼろげに覚えていた。

 ふとその事を思い出した。貴賓室の跡はどうなっているのだろう…?スマホで検索してみた。すると貴賓室という位置付けではなくなったが、部屋自体は潰される事無く残り、飲食店として使われているとの事。

 駅舎コンコース内から山手の方を見て右端の「がんこJR神戸駅」がその店舗らしい。がんこは和食チェーン店で、JR神戸駅では寿司も売りらしい。ホテルの朝食ビュッフェを食べ過ぎ、昼になってもお腹は空いていなかったが、ここまで来たらやはり見てみたい。貴賓室のテーブルに座りたい事を伝えたが、夜の団体の準備があると断られた。しかし見学は快く許可してくれた。

 そして注文を終えると貴賓室に案内された。

JR神戸駅旧貴賓室、今は飲食店だが昔の内装が良く残る

 一般席の奥の扉の向こうが貴賓室だった。貴賓室の象徴たる2脚の玉座こそ無く、代わりにテーブルが4脚並んでいる。しかし、シャンデリアやカーテンなど瀟洒で気品ある内装はそのまま。「おぉ…!」と思わず感嘆の声が漏れ出てきた。まるでクラシックホテルのダイニングか…、いや北野にある異人館の中いるかのような心地だ。

 駅の施設としては貴賓室はもう存在しない位置付けになっている。しかしもっとも貴賓室らしい姿を留めた空間はなおも存在していたのだ。

JR神戸駅貴賓室、大理石の暖炉や木の扉

 壁には大理石でできた暖炉も残っている。刻まれた細かな彫刻もそのまま。高級そうな暖炉だ

JR神戸駅貴賓室、昔からのシャンデリアが残る室内

 古くから残るシャンデリアが輝き、一際印象深い。

 室内には着物姿の女性や紅葉の渓谷など、和風の趣の絵画がいくつか飾られていた。和と西洋が調和した空間は何と麗しい事か。

JR神戸駅貴賓室、昔のままの木の板張りの床

 床の木の板張りも昔からのものがそのまま残っているという。真っすぐ敷かれているのではなく、短い板でカクカクと模様を描いているように組まれている凝りようだ。

JR神戸駅貴賓室、出入口扉の装飾と古い時計

 出入口上の透かし窓の造りはおたふく窓風だ。その上には真鍮製だろうか…?レトロな壁時計が掛けられていた。この時計は古すぎて修理しようが無いのだろうか?12時を指して止まったままだった。


 庶民的な和食チェーン店でどう使われているのかと思ったが、鉄道の古き良き時代の香りが漂う貴賓室は期待以上だった。新たに置かれたテーブル、椅子や仕切りは内装に合い、よくこの状態を尊重しながら営業してくれてるものだ。「和食」というのもミスマッチで面白い。

 見学と撮影に夢中になっていたが、注文の品が出されてから少し経ってしまい席に戻った。大いに満足した心地で料理もいっそう美味しく頂いた。また来たい。


 現駅舎が築100年を迎える2030年を目処に、神戸駅を全面的にリニューアルする計画が進行している。雑然とした駅周辺を整備し景観を改善し、また回遊性を高め地域の活性化に繋げる事がメインになりそうだ。素案ではバスターミナルや駐輪場を移転し、歴史ある駅舎を背景に、周辺をゆとりある広場や公園風の空間にしたり、駅前から湊川神社を見えるようにする事などが構想されている。

[2022年(令和4年6月訪問)]

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

追記: 貴賓室を使っていた飲食店が撤退

 「がんこ」が2023年1月末日をもって神戸駅から撤退した。貴賓室は閉ざされた状態に…。運営会社は後継テナントを募集しているというが、旧貴賓室の取り扱いはテナントの意向を踏まえるとの事。利用が多い駅内という好立地なので、次が決まるまで時間は掛からないかもしれない。しかし、貴賓室のあり方はテナントの考えに掛かっていて、存亡の危機にあると言えるだろう。

神戸駅FAQ+基本情報

  • 神戸駅の現駅舎が建てられたのはいつ?

    1930年(昭和5年)。駅の高架化に伴い建てられたコンクリート駅舎で、三代目駅舎になる。

  • 旧貴賓室は利用できる?

    入居していた飲食店「がんこ」が、2023年1月末日を最後に閉店したため、非公開の状態に。後継テナントを募集しているが、貴賓室が維持されるかは、テナントの意向を踏まえるという。

  • 他にどんな鉄道路線と接続している?

    神戸市営地下鉄・ハーバーランド駅、神戸高速鉄道・高速神戸駅(※運行は阪神電鉄、または阪急電鉄の神戸高速線として行われる)。

  • 神戸駅の所在地は?

    兵庫県神戸市中央区相生町3丁目1-1

  • 神戸駅はいつ開業した?

    1874年(明治7年)5月11日、官設鉄道の駅として大阪-神戸間の開通時。これは日本初の鉄道である新橋‐横浜間に次ぐ、2番目に古い鉄道路線。

東北本線、廃線となった「山線」の駅

 宮城県松島町にある東北本線の松島駅は2代目で、1代目は2.5㎞程北の内陸側に位置していた。

 松島駅は日本鉄道時代の1890年(明治23年)4月6日開業という古い歴史を持つ。当時、岩切駅-品井沼駅間は現在の海側でなく、内陸側にレールが敷かれていた。一方、東北本線の建設資材の搬入に使われた塩竈(しおがま)までの塩竈線の方は支線だった。

 1944年(昭和19年)11月15日、輸送力増強のため、また塩竈市の熱心な働き掛けにより、現在の「海線」が開業し、従来の区間は「山線」と呼ばれるようになった。

 海線は当初、貨物専用線だったが、山線に比べ勾配が緩く線形も良いため旅客列車が次第に移っていった。またトンネルは複線対応で掘削されていて、複線化に際しては海線の方が選ばれた。

 1962年(昭和37年)4月20日に海線が複線化されると同時に、山線は品井沼-松島間が、約2か月後の7月1日には松島‐利府間が廃線となった。今残る利府‐岩切間の利府支線は山線の名残だ。

 7月1日に初代の松島駅が廃止されると、海線上の新松島駅が新たに松島駅と改称され現在に至っている。

 山線が廃止されて半世紀以上過ぎているが、初代松島駅の旧駅舎は松島町健康館という施設に転用され、まだ残存しているという。

東北本線山線跡を歩き松島駅跡へ

 品井沼駅を訪れた後、一つ隣の愛宕駅で下車した。愛宕駅は初代松島駅が廃止された時、近隣住民にとって二代目松島駅が遠くなるため、便宜を図り設置された駅だ。

 旧線を北に辿り、元禄潜穴跡を見て再び愛宕駅に戻ると、今度は旧線跡を西に歩き初代松島駅を目指した。

東北本線旧線の廃線跡を歩き愛宕駅から旧松島駅へ

 東北本線旧線跡は60年前に廃線になっていて、今や鉄路の痕跡は無い。ただ、そこそこ車通りのある県道8号線とほぼ平行する奥まった所の、車がぎりぎりですれ違えそうな程度の細い道は不思議な感じがする。細い道は単線の線路を幅を感じさせる。それが旧線跡の名残と言えそうだ。

松島健康館として残る洋風駅舎

東北本線・初代松島駅、旧駅舎ホーム側

 15分程歩くと、狭い道にひょっこりとレトロな三角屋根の建物が現れた。

 今では道近くまで建物が突き出た感じだが、これこそがプラットホームの跡だ。この突き出た部分はかつての上屋だ。木造の上屋は最も木造駅舎らしい設備の一つだが、この下を壁で囲って増築したのだろう。

東北本線「山線」初代松島駅跡、構内通路へ降りるホームの階段跡?

 ホームらしい痕跡は無いと思っていたが、このコンクリートの階段は一体??反対ホームに渡るため、または業務用のためにレールを横切っていた構内通路への階段跡のように見えるが…。

 建物の正面にまわってみた。
「おお…!!」
初代の松島駅舎が残っている事は知っていたが、廃線から半世紀以上も過ぎているので、正直、あまり期待はしていなかった。だけど、これぞまさに駅舎だった建物の風格に溢れている。

 初代松島駅の開業は1890年(明治23年)だが、この駅舎がいつ建てられたかははっきりしない。大正説があったり明治説もあったりで…

 1962年に初代の松島駅が廃止されてから、旧駅舎は診療所に転用され、現在では松島町健康館デイサービスセンターとして使われている。

東北本線・初代松島駅、洋風駅舎らしい造り残す中央車寄せ。

 廃駅から半世紀以上も過ぎているが、三角屋根がハイカラなムードは昔のままの洋風木造駅舎の風情。自動ドアの部分は廃止後の後付けなのだろうが、所々の装飾は良く残っている。腰壁は石造りだ。

 この辺りの洋風駅舎と言えば、仙山線の北仙台駅も思い起こさせる。ただ北仙台駅舎は、形こそ保たれているが、新築同然で趣に欠けてはいるが…。あと函館本線の大沼公園駅によく似た建物だ。

初代松島駅旧駅舎、デイケア施設の松島健康観に転用

 写真をあれこれ撮っていると、正面に車が1台、また1台と停められていった。デイケア施設で午後3時過ぎ、お年寄りの方々が帰宅する時間帯で、送迎準備のようだ。ちょっと遅ければ駅舎に被ってしまったが、古い駅舎が活用されている光景も肌で感じられ嬉しいもの。面白い時間に来たものだ。

 「あ、どうも~」
と職員さんが、突然の闖入者にも快く挨拶をしてくれる。

 中をチラリと見ると、だいぶ改修されていて病院の待合室みたいだった。でも職員さんが
「あのへんが前に改札があった場所らしいですよ」
と少し奥まった所を指し教えてくれた。そのあたりにはサッシの扉があった。さっきの裏手のコンクリートの階段がある場所だった。

いまだに残るレトロ駅舎の粋

 幸いにも前景は撮影できていたので、細かい所を見ていく事にしよう。

東北本線・初代松島駅旧駅舎、屋根のドーマー窓

 赤い屋根には、左右にドーマー窓が載っている。

東北本線・初代松島駅旧駅舎、壁の卵型の装飾

 壁には縦にレリーフのような装飾が入れられている。特に卵型のレリーフがいくつも並んでいるのが印象的。

東北本線・初代松島駅旧駅舎、車寄せの洋風の装飾

 健康館の出入口に埋もれるようなコンクリートの古い柱にも、ちょっとした装飾が施されている。

東北本線・初代松島駅旧駅舎、車寄せ軒の支え

 自動ドアが埋め込まれた車寄せだが、軒の部分は昔の造りを流用しているのだろう。持ち送りっぽい木の造りが少しだけ姿を覗かせている。

東北本線旧線・初代松島駅舎、角の台座

 正面の両方の角には、人口石材の土台のようなものがあった。ちょっとガタが来て建物からやや外れ気味だったので、単なる装飾なのかもしれないが…

東北本線旧線・初代松島駅、プラットホームの跡?

 またホーム側に出てみようと、駅舎右手側にまわった。道路に降りるコンクリートの階段があったが、いちばん上の段を見ると、縁に敷かれた板だけが妙に使い込まれているのに気付いた。これは…!もしかしたらプラットホームの跡なのではないだろうか?古いプラットホームでは、縁に石材かコンクリートの板が敷き詰められている事もある。初代松島駅のプラットホームは、この部分だけ奇跡的に残っていたのだろうか!?ちょっと低い気もするが…

東北本線旧線の跡、初代松島駅旧駅舎と周辺の風景

 健康館は道沿いより奥まった所に建ち、その前には車が何台も止められるほどのゆったりとしたスペースがある。かつての駅だった名残を感じさせた。タクシーが客待ちをしているのが似合う風情だ。

 離れがたくいつまでも見ていたいが、後ろ髪引かれる思いで松島駅舎から離れた。愛宕駅に向けて歩いている私を、さっきまで松島駅舎前に止められていた車が追い抜いていった。お年寄りを自宅まで送りに出発したのだろう。

[2022年(令和4年)5月](宮城県松島郡松島町)

レトロ駅舎カテゴリー:
旧国鉄の保存・残存・復元駅舎

初代松島駅FAQ

  • 初代の松島駅はどこにある?

    宮城県宮城郡松島町初原字岩清水1-1。現在のJR東北本線・松島駅より北に約2.5㎞に位置。

  • 初代松島駅へのアクセスは。

    JR東北本線・愛宕駅より、県道8号線を道なりに西に歩き1㎞弱、約15分。しかし愛宕駅ホーム真下をくぐる細道が、ほとんど面影が無いとは言え東北本線旧線跡なので、そちらを歩く方が興味深い。西に約15分。

  • 初代松島駅はいつ廃止された?

    1962年(昭和37年)7月1日。東北本線、通称「海線」の岩切-品井沼間の複線化を機に廃止。

  • 「山線」廃線後、旧松島駅舎はどうなった?

    松島町に払い下げられ国民健康保険診療所などに使われた。現在では、松島町健康館デイサービスセンターとなっている。


.last-updated on 2022/06/18