別子銅山の繁栄に寄与した、通称「下部鉄道」

 愛媛県新居浜市の別子銅山は住友が開発・経営した日本有数の銅山だった。採掘された銅を運び出すため、「住友別子鉱山鉄道」「別子鉄道」などと通称される鉱山鉄道が1893年(明治26年)に開業、住友により運行された。

 標高1000mのより山深い場所に分け入る角石原駅‐石ケ山丈駅間を「上部鉄道」、それ以外の区間は「下部(かぶ)鉄道」とも呼ばれた。しかし上部鉄道は、より標高が低い第三通洞の開通で1911年(明治44年)に廃線された。

 下部鉄道は1929年(昭和4年)に地方鉄道に転換し、旅客輸送も開始となった。しかし1955年(昭和30年)に旅客輸送廃止。そして、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山により、1977年(昭和52年)に下部鉄道も廃線となった。

 廃線されたのは半世紀近く昔だが、トンネル跡や橋梁跡も残り、市街地の廃線跡の多くは自転車道となるなど、意外と往時の面影を残してる。

 そして星越(ほしごえ)駅跡には当時の木造駅舎が保存されている。「星を越える…」何ともロマンティックに響く駅名だ。

JR新居浜駅近く、別子鉱山鉄道の廃線跡はサイクリングロードに

 JR新居浜駅に降り立った。星越駅へは2㎞ちょっとで、往復で歩くには長いが、雨も止んだし、片道は廃線跡の自転車道を歩くのもいいだろう。

 新居浜駅舎西側の線路沿いに伸びる道…、これもまさに別子鉱山鉄道の廃線跡で、新居浜駅から星越駅までの国鉄連絡線を転用したもの。少し歩くと予讃線から分岐するように別れた。やっと一車線程度という細い道が、いかにも鉄道跡の趣を漂わす。

 しばらくは市街地が続いたが、やがて林や小高い山がすぐ近くの、ひっそりとした街外れのムードになっていった。

別子鉱山鉄道廃線跡、星越駅近くの自転車道終点

 自転車道は終わった。目の前のフェンスで仕切られた敷地内には、長い空地のよう空間が続いていた。やがて星越駅に至り、その先は惣開支線として惣開駅まで続いていた線路の跡だ。単線の線路がすっぽり収まる廃線跡は、鉄道の面影を存分に残す。

 星越駅の直前で、別子銅山内の端出場(はでば)駅と新居浜港駅間の端出場本線が分岐していた。しかし星越駅に一旦入りスイッチバックする線形となっていた。選鉱場があった星越駅に入り、各種の作業をしてから運ばれたのだろう。

洋風の造りが洒落た木造駅舎

別子鉱山鉄道(下部鉄道)、星越駅跡。石積みのホーム跡。

 少し歩くと、駅舎の側面のようなものが見えて、やっとと思い「おっ!」っと小さな声を上げた。

 いよいよ間近に迫ると、駅舎横の駐車スペースに、アスファルトに埋もれながらも石積みのプラットホームの跡が垣間見えた。

 そして星越駅の正面に立つと、見事なまでの木造駅舎が佇んでいた。廃線から40年以上過ぎているが、駅舎は奇跡的に残っていた。2014年頃に改修工事が施され、新築のような姿を取り戻した。

 駅の開業はこの地に選鉱場が造られた1925年(大正14年)。やがて駅前に従業員用の社宅が多く建てられ、1929年(昭和4年)には旅客営業も開始されるようになった。この駅舎はその時以来のものと思われる。

 1955年(昭和30年)には、旅客営業は廃止となった。そして1973年(昭和48年)の別子銅山閉山の約4年後の1977年(昭和52年)に、鉱山鉄道も完全に廃線となった。閉山後、数年生き残ったのは不思議だが、閉山後の作業で鉄道が活用されたのだろうか?

別子鉱山鉄道・星越駅舎、洋風の造りが特徴的

 駅舎は出入口辺りの洋風の造りが印象的だ。車寄せの軒かざり風の板張りや軒支え、柱下部の彫り込みとか…。正面の三角の切妻はシンプルな造りに洒落た装飾を加えたかのよう。

別子鉱山鉄道、星越駅舎、住友の社章を象った採光窓

 切妻の中の、正方形のガラス窓部分には、住友の社章をかたどったマークが入れられているのが面白い。

別子鉱山鉄道(下部鉄道)星越駅舎、軒下

 軒下から眺めると、洋風のテイストを感じさせるまさに木造駅舎の眺め。駅舎周囲はチェーンで囲まれ接近できないが、それでも味わい深さは十二分に伝わってくる。

別子鉱山鉄道・星越駅舎、ホーム上屋も残る

 側面から駅舎を眺めてみた。通風孔の上部にも住友の社章を象ったマークが入れられていた。こちらは横長に圧縮されたようなデザインになっているが。

 ホーム跡には上屋も残っている。現役時を思わせるいい状態で、じっくり見てみたいものだが、駅舎背後より奥は立ち入り禁止となっている。敷地外しか見るしかない。

 選鉱場は2009年に廃止となっているが、廃れて廃墟のようになって訳でもなく、プラントなど何か設備が稼働している気配がある。廃止後、十数年だが、廃止作業が面倒なのかもしれない。

別子鉱山鉄道・星越駅舎、ホーム上屋の柱となった古レール

 ホーム上屋は古レールで支えられている。新居浜を駆け抜けた鉱山鉄道を支えたレールだろうか…

別子鉱山鉄道・保存された星越駅舎、立派な出入口の木の扉

 車寄せ下の引戸は2枚で、出入口は大きく堂々としている。

 離れた所から内部を覗くと、何か物が雑然と置かれているよう。今は倉庫として使われているのだろうか…?歴史的建造物がきれいに整備されたのだから、イベントや限定公開など、何か活用されればと思う。それに「別子鉱山鉄道 星越駅舎」と、紹介する看板一つ位は欲しいなぁ…

 でもこの駅舎が旅客輸送や鉱山鉄道が廃止になっても生き残ったのは、場内の一施設として使うにちょうどいい位置にあり、取り壊したくなるほど邪魔にもならなく、大切に保存されてきたというより、たまたま運が良かったのだろう。幾多の歴史ある古駅舎が取り壊されてきた中、そう想像すると、星越駅舎は幸運の駅舎と言えるのかもしれない。

星越駅周辺

 駅舎を少し離れて周囲から眺めるしかなかったが、それでも一時間近く堪能した。去り難いが、そろそろ離れるとしよう。この先にはトンネルの跡があるという。

別子鉱山鉄道・星越駅近くの風景と廃線跡

 更に北に歩くと上り坂になり、廃線跡の上に掛けられた橋から周囲を眺めた。星越駅から雑草が生した細い空地が眼下を通り、港のある北の方に続いてる風景は、鉄路の存在を今でも感じさせる。

 駅前にかつて碁盤目のよう規則正しく整備されていた街には、多くの社宅が並んでいた。今では再開発され、鉱山が活況を呈した頃の面影はほどんど無い。新興分譲地のように広がる土地には、新しめのマンションが忽然と建ち並ぶ。

 駅舎の背後には、かつて広大な貨物ヤードが広がっていた。山から運ばれてきた銅が選別や仕分などの作業を経て、惣開支線で惣開駅へ、スイッチバックして端出場本線の新居浜港駅に運ばれたのだろう。そして銅山に戻る空の貨車、貨車ばかりでなく旅客もいて、星越駅はさぞ忙しい駅だったに違いない。

別子鉱山鉄道(下部鉄道)廃線跡、星越駅近くのレンガのトンネル

 橋から更に歩くと、程なくしてトンネル跡があった。レンガのポータルが古めかしいが、生い茂った木々で、全容は見えなかった。

 下り坂になり平地になると、細長い雑草の空間は途切れた。そして県道が横切る現代のありふれた街の風景が広がっていた。

[2023年(令和5年)6月訪問](愛媛県新居浜市)

レトロ駅舎カテゴリー:
私鉄の保存・残存・復元駅舎

通り過ぎた駅の佇まいが気になり…

 予讃線の松山行きの列車は、もうすぐ伊予桜井駅に到着しようとしていた。
「嵐のファンが喜びそうな駅名だなぁ~」
と他愛もない事を考えながら車窓の外を見ていると、そんな考えを吹き飛ばすような佇まいに目を奪われた。

 駅舎巡りの旅をする時、どの駅に木造駅舎が残っているかを軽く調べ、訪れる駅をある程度は決めている。今回、伊予桜井駅はその中には無かった。しかし思いがけず魅かれ、列車が伊予桜井を離れる程に、行きたいという思いが強くなった。何とかならないかと時刻表を見ると、幸運にも、次の伊予富田駅で上下列車のすれ違いがある事がわかった。

 伊予富田駅では、下りの松山行きの方が到着が先で、写真を数枚撮ると、やって来た観音寺行きの上り列車に飛び乗った。

 同じ風景を逆走し、伊予桜井駅に到着した。

JR四国・予讃線・伊予桜井駅、2面2線のプラットホームと木造駅舎

 伊予桜井駅は2面2線の相対ホームがある駅で、1番線側に駅舎が建っている。2番線側の背後は、山か雑木林が広がっていた。

木造駅舎らしい木造駅舎

JR四国・予讃線・伊予桜井駅、木造駅舎らしい佇まい溢れる…

 1番線側に残る駅舎は、木目走る木の板張りが印象深く、本当に木造駅舎らしさに溢れていた。軒を支える木の柱が並ぶ様も壮観。屋根のコンクリート瓦も、いかにも古い駅舎といった趣。日本各地の錚々たる名駅舎に連なるような佇まいだ。

「木造駅舎らしい木造駅舎」はあたりまえ過ぎるようだが、JR四国ではそうではない。JR四国では、今でも木造駅舎が残るが、JR発足時あたりにほとんどが新建材などで新築のように改修され、味気なくなってしまった。

 伊予桜井駅も、恐らくは改修の手が多く入っているのだろう。しかし、よくこんな昔ながらの雰囲気に仕上げたもの。

JR四国予讃線・伊予桜井駅、木造の古い柱が残る駅舎

 改修の手が多く入っていると言っても、ホーム側に並ぶ柱は古いまま。一本一本、風化して木目浮かぶ様は駅の歴史を語っているかのよう。

 ある柱には、築年を知る手掛かりになる建物財産標らしきプレートのようなものが残っていた。しかもアクリルやプラスチック製ではなく、それらよりさらに古い木製。しかし柱ごと塗装されていて、何て書いていあるかもう解らない。伊予桜井駅舎の築年は不明だが、このプレートの塗装を慎重に剥がせば、元の記述が現れないだろうか…

JR予讃線・伊予桜井駅の木造駅舎、ホーム側の閉塞器室跡

 駅舎ホーム側の出っ張り「閉塞器室」は、窓が塞がれながらも残っている。下側が引戸になっているが、古い駅舎の閉塞器室の跡は、こんな造りになっている事もある。こんな所も昔ながらの造りを残しているとは…。

 その隣はトイレとなっている。元は休憩室とか他の設備だったが、改修されたのだろう。

 3年前、高徳線や牟岐線と言った徳島県のJR線を巡った時、多くの無人駅でトイレが閉鎖され、世知辛いものよと思った。しかし愛媛県の駅では、まだトイレが残っている駅が多かった。

予讃線・伊予桜井駅、レトロな乗り場案内の看板

 閉塞器室側面には「1のりば」という、レトロな感じの番線案内の看板が残っていた。

JR予讃線、愛媛県今治市にある伊予桜井駅

 そして駅舎正面に出てみた。こちら側も昔ながらの木造駅舎らしい雰囲気に仕上げられている。出入口上部の三角の切妻屋根は、恐らく改修で後付けされたものだろう。

 こんな風に、ちょっとした飾りやオブジェををつけ、現代風に見せるのは、JR四国発足時辺りの駅舎リニューアルでよく見られる。中には空々しというか無理を感じる姿になった駅舎もある。しかしこの伊予桜井駅は、白壁に木組みが露出する造りは、古民家を思わせ違和感無く悪くない。

JR予讃線・伊予桜井駅の木造駅舎、古い車寄せが残る

 正面側も全体的にリニューアルされているのだろうが、車寄せの柱は古い木のままの造りを垣間見せるのは面白い。

JR予讃線・伊予桜井駅の木造駅舎、改修された窓口跡

 待合室がある内部は、さすがに跡形も無く改修されて、レトロさは残念ながら無い。

 窓口跡も昔の造りは全く残していないが、片隅にガラス窓がある窓口の跡がある。伊予桜井駅は、半世紀以上も前の1971年(昭和46年)に駅員無配置になっているが、国鉄が直接、社員を置かなくなっただけで、それからの簡易委託の期間は長かったのだろう。今は無人駅だが。

今治市が設置した伊予桜井駅を紹介する看板

 駅敷地内には、今治市が伊予桜井駅の歴史を紹介した看板を設置している。その看板にはこう書かていた。


「桜井駅の開通は大正12年12月21日で、今治駅開通(大正13年2月)までは予讃線の終着駅であった。下り列車が周桑郡三芳駅を発し郡境の医王山トンネルを抜けて桜井駅に着くと、今治へ来たという感じがし、上り列車はここを発車して医王山の長いトンネルを出て、旅に出る思いにかられたものである。
 国鉄の電化につれ、黒煙を吐く威勢のよい機関車からディーゼル車となり、国道196号線や有料道路の開通によって、バスやマイカーの時代となり、桜井駅は通勤通学などの限られた乗客ばかりとなって、遂に無人駅になってしまった。
附近には綱敷天満宮・国分尼寺跡・法華寺などの施設がある。
史跡・名所の小路 今治市」


 短い中にも、駅の栄光盛衰を感じさせる。大正12年(1923年)12月21日に隣の伊予三芳駅から伊予桜井駅まで延伸し、その50日後には、今治駅まで延伸した。その僅かの間、伊予桜井駅は終着駅だったのだ。

 今年2023年は伊予桜井駅が開業して、ちょうど百年の記念すべき年。百年前の今頃は、伊予桜井延伸に向け、駅舎に路盤にまさに工事たけなわだったのだろうなぁ…

夕暮れの駅を歩く

 ちょっと周辺をうろうろしてみよう。

愛媛県今治市、伊予桜井駅前の街並み

 県道から奥まった所にある駅は、住宅が多く落ち着いた雰囲気。近くに学校があるようで、下校姿の学生が駅に向かう姿が見られた。

予讃線・伊予桜井駅、裏手の国分尼寺跡から見た風景

 街の反対側には、奈良時代の後期に建てられたと思われる国分尼寺の跡がある。今は畑の中の木の下に、土から姿を覗かす礎石が6個残るのみ。そこから眺める伊予桜井駅はのどかなもの。それなりの規模の伽藍があったのだろうが、もう1300年以上も昔の話…。

JR予讃線・伊予桜井駅の桜の木々

 駅の敷地には、何本もの桜の木が植えられていた。むさ苦しいほどに葉桜が茂る様を見ると、春はきっと駅名の通り、さぞきれいなのだろうと思い浮かんだ。

JR予讃線・伊予桜井駅、1番ホーム駅舎横の水場跡

 駅舎の横には壊れた水場の跡が放置されていた。駅員さんがいた頃を想うと、時の流れと言う哀愁を禁じ得ない。

JR予讃線・伊予桜井駅の木造駅舎と帰宅する学生

 レトロな味わいのある木の軒の下で、帰路に就いている学生が列車を待っているのは変わらない風景だ。

 中にはホームに直に座り時間を潰す学生の姿も。ちょっと前は、そんな若者の行動を年上の人々は「ジベタリアン」と呼び、驚きを露にしたもの。けれど最近は言わない。「死語」ってやつなのだろうが、ヤレヤレと思いつつ、そういうものだと思うようになったのかもしれない。
…と、相変わらず他愛のない事を考えながら次の列車を待った。

[2023年(令和5年)6月訪問](愛媛県今治市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

上毛電鉄・桐生側のターミナル駅

 わたらせ渓谷鐡道に乗車し運動公園駅で下車した。このあたりは上毛電気鉄道や東武桐生線が近接し、少し離れJR両毛線も走る。わたらせ→上毛電鉄に乗り換えたかったが接続する駅は無い。

 しかしわたらせ渓谷鐡道の運動公園駅と上毛電鉄の桐生球場前駅は約300m離れているだけ。桐生球場前駅まで数分歩き、そのまま上毛電鉄の列車に乗った。

中小私鉄らしいのんびりとした改札口、上毛電鉄・西桐生駅

 終着駅でもあり始発駅でもある西桐生駅は、上毛電鉄桐生側のターミナル駅。行き止まりレールの先に改札口があった。近年はローカル駅でもICカードの導入が進んでいるが、西桐生駅は有人改札。のどかで古風な感じすらした。

上毛電鉄・西桐生駅待合室、ターミナル駅らしい広さ

 主要駅だけあって待合室は広く、十二脚の長椅子が整然と並べられている。しかし利用が減る昼は閑散とし持て余し気味。

上毛電鉄・西桐生駅舎、レトロなアールデコ調装飾の出札口跡

 左手に目をやると、昔ながらの切符売場の造りが残っていた。柵のようなもので描かれたアールデコ調の装飾がレトロさ醸し出しとても洒落ている。自動券売機が埋め込まれ一部が改修されているが、それでも印象深い。現代のモノと過去のモノの不思議な融合…

 この窓口を見て一畑電車の出雲大社前駅の切符売場跡を思い出させた。形状は全く違うが、あちらもアールデコ調の装飾が印象深い。どちらも新進気鋭の気質に溢れていた地方私鉄の時代を感じさせるものだ。

絹織で隆盛した桐生の歴史伝える洋館駅舎

 駅舎の外に出て全体を眺めてみた。西桐生駅には2000年代の前半に訪れて以来、2度目の訪問。その時、洋館など街中に残るいくつもの歴史的建築物を訪ね歩き、絹織で隆盛した桐生を実感したもの。この西桐生駅舎も、そんな桐生の歴史を感じさせる洋風の駅舎が現役だ。

 長い駅舎に対し90度の角度に配されたギャンブレル屋根のファサードを持つ。その中に丸窓やレリーフを刻み込んだ洋風の洒落た装飾や紋様が印象的だ。

 開業は1928年(昭和3年)11月10日。このレトロな駅舎はその時以来のもの。2005年(平成17年)には登録有形文化財に登録された。そして、あと5年ちょっとの2028年には御年100歳だ。

上毛電鉄・西桐生駅舎、木の窓枠やモルタルの壁が味わい深い

 すっかり古びた木枠の窓や、モルタル壁の質感が味わい深い。

上毛電鉄・西桐生駅、洋風建築のレトロな駅舎

 これほどまでに素晴らしい駅舎、きれいに全景をカメラに収めたいものだが、右手手前に2台の駐車スペースがあり、なかなか空かない。やっと1台分空きチャンス思ったら、すぐに他の車が入ってきてしまった。しかし間一髪で撮影に成功…

上毛電鉄・西桐生駅、改修され広場のようになった駅舎前の敷地

 駅舎前の敷地は、近年整備されたのか、タイル貼りの広場のようになっていた。端の方にはベンチも置かれ、名駅舎を眺めのんびりするのにちょうどいい。

 普通、こういうスペースはタクシーや送迎の車のための駐車場のようになっている事が多い。本で以前の写真を見ると、かつては駐輪場があったよう。

 元々、狭いスペースで中途半端に車用のスペースにするより、広場風にして鉄道の利用者が安全に利用できる事を図ったのかもしれない。でもこのスペースや駅舎内の広い待合室も合わせると、ちょっとしたイベント会場にはちょううどいい。

上毛電鉄・西桐生駅、洋風の駅舎を模した公衆トイレ

 敷地の片隅には駅舎の特徴的なギャンブレル屋根を模した公衆トイレが!しかも丸窓を模した紋章まであった。

上州電鉄・西桐生駅、屋外の降車用改札口は重厚な造り

 駅舎真ん中あたりには大きな木製上屋の車寄せがあるが、その左隣にも車寄せがある。モルタルでがっちり固めた直線的で四角い感じで、こっちの造りを真ん中に持ってきてもよかったのではと思わせるのが楽しい。

 こちら側は屋外の降車用改札口で、木のラッチも残っている。今は閉じられているが、早朝夜間の無人時間帯のみ使われているようだ。

上毛電鉄のターミナル駅、西桐生駅前の街並み

 西桐生駅の駅前は意外とひっそりとしていた。市街外れのちょうど住宅街との境目付近に位置していると言った感じ。ここから約300m南のJR両毛線・桐生駅とその一帯が商店街やホテルなどがある市の中心地だ。

カラフルステーション

上毛電鉄・西桐生駅舎、出札口とレトロな造りの旧出札口跡

 やはりアールデコ調の出札口が素晴らしい。有人駅で、窓口機能は改札口近くに集約されている。セピア色の時刻表や運賃表がレトロさを演出する。一段低い小さなカンターは荷物用だったのだろうか?

上毛電鉄・西桐生駅、待合室片隅の古い造り付けの木造ベンチ

 改札口の待合室片隅には、古いままの木の造り付けベンチが残っていた。

上毛電鉄・西桐生駅ホームと木造の古い上屋

 プラットホームに戻った。木の古い上屋は緑色に塗られている。駅舎は窓枠など所々がピンク色で、駅舎のイメージカラーと言った感じ。レトロながらもカラフルさを感じる。

上毛電鉄・西桐生駅プラットホームのカラフルなベンチ

 カラフルついで…と言うか、プラットホーム上のベンチはまるで虹のようなカラフルだった。古くくすんだ駅に強い色彩を刻んでいた。

[2023年(令和5年)3月訪問](群馬県桐生市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 私鉄の三つ星レトロ駅舎

大谷石が息づく東武鉄道の駅

 東武鉄道の駅を巡り、夕刻、南宇都宮駅にやって来た。

東武宇都宮線・終着のひとつ手前の南宇都宮駅

 ローカル線らしい車窓風景が続いたが、県都宇都宮の東武側の代表駅・東武宇都宮駅の一つ手前ともなると、都市型鉄道の色彩を帯び、街の風景へとなっていた。

東武・南宇都宮駅のトイレ。宇都宮らしく大谷石の外壁

 南宇都宮駅の駅舎は、宇都宮市大谷町で採掘される事で知られる大谷石を使った洋風駅舎だと知っていた。しかし、まさかトイレまで大谷石が使われていたとは!しかも青い洋瓦で駅舎に似せたレトロなデザインだ。建てられたそれ程経っていないようで、きれいで簡易型オストメイトを備えた最新設備のトイレだ。

宇都宮線・南宇都宮駅ホーム、東武鉄道の駅でよくる大谷石積み

 古い駅ではプラットホーム側面が石積みになっている駅をよく見るが、東武鉄道の駅では大谷石のホームをよく見る。ここ南宇都宮駅も年季が入った大谷石だ。

東武宇都宮線・南宇都宮駅、改札口もレトロな造りに

 改札口もレトロな造り。上部のおたふく窓風のすりガラス昭和レトロな趣きが混じる。

ときわ台駅とよく似た洒落た洋風駅舎

 南宇都宮駅の開業は1932年(昭和7年)で、約200mほど南に宇都宮常設球場があった事から、当初は「野球場前駅」と名付けられた。

 大谷石の外壁が特徴的な洋風駅舎は開業以来のもの。年月を経て古びた大谷石の外観はもちろん、細部の装飾も洒落ている。2020年にリニューアルされたが、駅舎右手前の増築部分まで大谷石というこだわりようは素晴らしい。歴史ある駅舎に違和感なく溶け込んでいる。

東武鉄道・大谷石が特徴的な南宇都宮駅舎は東上線のときわ台駅と類似

 縦長の窓、その軒の持ち送りなど、細部の装飾も目を引く。正面に大きく駅名を掲げた看板は、たいてい駅舎本体の目立つ所か車寄せの屋根辺りに大きく掲げられている場合が多いが、この南宇都宮駅では駅舎左側手前に、大谷石の縦書きの看板が置かれている。名建築を堪能できるよう、あえて控えめにしたのだろうか?

東武鉄道宇都宮線・南宇都宮駅、洋風駅舎の洒落た装飾

 瓦屋根端の側面…「破風」の部分には、波線が描かれ、その窪みの部分には円形の装飾が施されている。球場の最寄駅ゆえ、バットとボールがデザインされた模様という。

 採光窓まわりのギザギザの装飾も面白い。


 不思議な事にこの駅舎、3年後の1935年(昭和10年)に開業した東武東上線のときわ台駅舎ととてもよく似ている…、というかほぼ同じだ。大谷石の外壁、装飾はもちろん、大きさも同じ位だ。同じ鉄道会社で共通デザインの駅舎があるのは珍しはくない。

 宇都宮市中西部には採掘された大谷石を搬出するため宇都宮石材軌道の路線が巡らされていたが、1931年(昭和6年)に東武鉄道に買収され、後に宇都宮線と接続し東京方面へと大谷石が搬出された。なのでプラットホームなど、駅の設備で大谷石が使われやすい要素はあったのかもしれない。

 しかしときわ台駅最寄りの常盤台は、東武鉄道が海外の住宅地を参考に開発した先進的な住宅地。3年前に竣工した洋風のハイカラ駅舎の南宇都宮駅は、そんなモダンな住宅地のイメージに合い、同じデザインが取り入れたのかもしれない…

大谷石の壁が特徴的な南宇都宮駅の洋風駅舎、改修部分

 腰壁とそれより上の壁の間には、ギザギザの線のような装飾が施されている。ある部分を境に、平らで鋭さがある部分、風雨に晒され風化しすっかり丸みを帯びた部分があった。改修部分と昔からの部分は一目瞭然。長年の時を感じさせ、そしてこれからも時を刻んでゆく駅舎なのだ。

大谷石の街・宇都宮市、南宇都宮駅前の大谷石の倉庫

 駅前を歩くと、大谷石の大きな倉庫が残る区画があった。さすが大谷石の街、宇都宮。

 若者が好きそうなお洒落なスポットとして再開発されたようだが、コロナ禍の不況のためか、撤退したテナントもあるようで、やや寂れた印象に映った。

夕刻の駅

東武宇都宮線、洋風の南宇都宮駅舎、出札口・待合室

 夕刻が近づき、温かな照明で照らされた駅舎内部はよりレトロなムード溢れる。

 帰宅してから気が付いたが、南宇都宮駅舎の待合室や出札口があるこの空間は1階の高さで天井があるが、ときわ台駅舎のこの部分は吹き抜けになっている。南宇都宮駅の方は2階があるのだろうか…?

東武宇都宮線・南宇都宮駅、駅舎と反対の南口

 駅舎反対の南側には出入口があり、踏切のある構内通路で結ばれている。だけど南側にはICカードリーダーや券売機は無く、乗車券は北口で買ってくださいという注意書きがあった。

東武鉄道・南宇都宮駅、駅名標と松坂屋の古いホーロー看板

 ホームで列車を待っていると、電柱に紺色の古い縦型駅名標が掲げられていた。その下には、銀座、上野の松坂屋のホーロー看板があった。どちらともレアでレトロな逸品だ。

東武鉄道、レトロな洋風駅舎のある南宇都宮駅と松の木

 駅舎の隣には松の木が一本植えられていた。日本の古い駅には松が植えられている場合が多く、素朴な木造駅舎にはよく似合うもの。しかしこうして眺めると、南宇都宮駅の瀟洒な洋風駅舎にも何て似合う事か。

[2023年(令和5年)3月訪問](栃木県宇都宮市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 私鉄の三つ星レトロ駅舎

20年振りに大間々駅舎へ…

 久しぶりのわたらせ渓谷鐡道。しかし今回は訪れたい駅にすべて行けるほどの時間は無い。どの駅に行こうか迷ったが、今回は20年振りの大間々駅にした。2003年1月以来だ。その時は駅舎を撮影し、近くのコンビニで昼食を買い、待合室で食べたという思い出がある。あれからどうなっているのだろうか…

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅3番ホームに咲く桜

 2番ホームに降り立つと桜が見事に咲き誇っていた。桜を遮るような上屋がちょっと恨めしいような…。けれど雨水がしたたる花びらの風情もなかなかいいもの。

わたらせ渓谷鐡道・1番線の木造上屋が見事な大間々駅

 駅舎に面した1番ホームは見事な木造上屋で覆われていた。まるで何十年も昔の駅にいるかのような心地になる。

 駅舎はセメント瓦にオフホワイトのモルタル壁が特徴的な木造駅舎。国鉄足尾線時代から主要駅の一つで、やや大きめの駅舎。

 派手さは無いが、新建材等で味気なく改修される事もなく昔ながらの姿を良く残し、しっとりとした味わい深さを感じる。昔の国鉄ローカル線の主要駅はこんな風だったのかと思わせるものがある。

 大間々駅の開業は足尾鉄道時代の1911年(明治44年)4月15日。現在の駅舎は貨物と旅客需要の増加に対するため1941年(昭和16年)に建て替えられたものだ。

 この駅舎は明治竣工の1番2番プラットホームと共に、2009年に登録有形文化財に指定された。

わたらせ渓谷鐡道、昭和16年築のレトロな木造駅舎が現役の大間々駅

 横長の建物に対し、直角に切妻屋根の出入口が設けられている。紺色の地味でレトロな駅名標、そして時計を掲げる姿が、まさに昔の駅のいでたち。近年では時計が撤去される駅もあると言うが、やっぱり時計を掲げているのが主要駅らしい。

 風除けなのか、車寄せにガラス窓のある仕切りが設けられているのが特徴的だ。

大間々駅の木造駅舎、味わい深い造りの車寄せ

 仕切りのある車寄せは古い木の造りを残し歴史を感じさせた。裏側の一部の木材は丸太、支える四角い柱は切込みの模様が入るなど、ちょっとした意匠感じさせ洒落ている。

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅、出入口横にある窓口跡

 車寄せ左側には、カウンターのある小さな窓口跡があった。荷物扱い窓口だったのだろうか…?かつての賑わいを偲ばせた。

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅、駅前敷地内に咲く桜

 主要駅だけあって、駅舎正面にはゆとりあるスペースがあった。片隅の桜はあと少しで満開だ。

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅、開業以来の気動車が静態保存されている。

 駅舎左側にある駐車場には、わたらせ渓谷鐡道発足時に導入した車両、わ89-300形とわ89-100形が静態保存されていた。きれいに維持されレールに載せられた様を見ていると、プラットホームや構内の車両基地に溶け込んでいるかのよう。今にも動き出しそうだ。

待合室、そして古い看板…

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅待合室

 パンフレット、沿線写真、ガチャ…、同社有数の主要駅だけあって色々なものが置かれている。そんな中、待合室を取り囲むように巡らされた木の造り付けベンチや、天井に張り付いたような木の棒など、古い造りを垣間見せる。天井の木は、車寄せ同様に切込みの模様が刻まれている。

大間々駅窓口、わたらせ渓谷鐡道本社が入る有数の主要駅らしさある

 手小荷物窓口跡と出札口は掲示物で賑やか。本社のある有人駅で、駅員さんの気配もする。主要駅らしい雰囲気だ。

わたらせ渓谷鐡道、大間々駅始終着のトロッコ列車は人気

 大間々駅はわ鉄名物のトロッコ列車の始終着駅でもある。この日は気動車のトロッコわっしー号の出番で、客車でディーゼル機関が引くトロッコわたらせ渓谷号は構内でお休み中。

 あいにくの雨だが、春の観光シーズンで本日満席。

わたらせ渓谷鐡道・大間々駅に残るホーローの古い看板

 やっぱりいいなあと1番線の木造上屋を見ていると、柱に「足尾方面」と標されたレトロな看板があるのを発見した。耐久性のある琺瑯(ホーロー)製とは言え、縁に錆びが見られるなど年季が入っている。何十年…、いや、半世紀以上もこの駅で使われているのだろう。

[2023年(令和5年)3月訪問](群馬県みどり市)

レトロ駅舎カテゴリー:
二つ星 JR・旧国鉄系の二つ星レトロ駅舎

風格ある木造駅舎

群馬県太田市、東武鉄道・伊勢崎線、木崎駅プラットホーム

 東武鉄道の駅を巡り、夕刻、伊勢崎線の木崎駅にやってきた。相対式プラットホームの2面2線の配線の間に、中線1線が外された痕跡があった。

 駅舎と反対側の2番線の背後には、サッポロビールの工場があった。

東武・伊勢崎線・木崎駅、木造駅舎らしい駅舎残る木崎駅

 使い古された板張りが夕陽を浴びる光景は、古き木造駅舎の情感を一層かき立てる。

 私が駅巡りを始めた2000年代には、群馬県や栃木県の東武の末端区間には、レトロさ溢れる木造駅舎がいくつも残っていたもの。しかし2010年頃までにほとんど取り壊された。東武には今日でも木造駅舎は意外と残っているが、新築ように改修された駅舎ばかりだ。

 外に出て木造駅舎に対峙するように立つと、古く威容ある姿に驚かされた。ローカル線の小駅というより、堂々たる主要駅の風情。小泉線の終点・西小泉駅は木造ではないが大柄で、こんなふうに威容を感じさせたもの。

 木崎駅の開業は1910年(明治43年)3月27日。現駅舎はその時以来のものと推定されてる。

東武伊勢崎線・木崎駅、古い造り残す木造駅舎

 サッシ窓になるなど、あちこち改修の手は入っているが、駅舎右手辺りは古びた木のままの造りをよく残している。

東武鉄道、木造駅舎残る木崎駅。軒や柱、壁など古い木の造り

 すり減らされたような木の板、汚れた漆喰、木の軒と柱…、まさに年月を経た木造駅舎らしい佇まいに溢れる。東武にもまだこんな駅舎があったのだ。

もうちょっと木崎駅を見ると…

東武鉄道・伊勢崎線・木崎駅待合室と出札口

 待合室の内部はさすがに改修され外観ほどの古さはではない。でもどこか昭和後期のようなムード。

東武伊勢崎線・木崎駅、古い鉄パイプの改札口を残す。

 ICカードリーダーに挟まれながらも、年季が入った鉄パイプの改札口がまだ残っていた。

東武鉄道・伊勢崎線・木崎駅、石積みの側線ホーム跡

 側線ホーム跡は石積みの造りを残していた。

 昔は利根川で採れた砂利を運搬する東武の貨物線・徳川河岸線が、この木崎駅から分岐していた。半世紀も前の1968年(昭和43年)に廃止されているが、この石積みのホームからも、かつては貨物列車が盛んに出入りしていたのだろう。

 駅舎の古い軒を木の柱が支えている。しかしそれ程古びていなく部分もあり、打ち込まれたネジも新しい。適時、改修されているようで何より。

 そして軒と繋がったトイレへの通路の屋根も木でてきている。こちらは完全に新しい。駅舎に合わせて、わざわざ木で新調したのだろう。たくさんの木造駅舎が失われてきたが、木崎駅の駅舎が大切にされている事が感じられ嬉しい。色々な事を思いながら木の柱が入り乱れるような光景に見入った。

[2018年(平成30年)3月訪問](群馬県太田市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎

レトロな造りを残す駅舎は戦後築??

銚子電鉄・海鹿島駅、改札口跡

 銚子電鉄に乗り、海鹿島駅(あしかじまえき)で下車。関東最東端の駅だとか…。古い改札口の「ご乗車 ありがとうございました 海鹿島駅」に出迎えられた。

 銚子電鉄の起源と言える銚子遊覧鉄道は1913年(大正2年)に開業。同時に海鹿島駅も開業。当時は他に仲ノ町駅、観音駅、本銚子駅、犬吠駅しかなかったので、海鹿島駅の歴史の古さを感じさせる。

 銚子遊覧鉄道の経営は苦しく、4年後の1917年に廃止となった。しかし1923年(大正12年)、廃線跡を転用し、銚子電鉄が開業し、海鹿島駅も復活した。

銚子電鉄、レトロな駅舎が残る海鹿島駅

 海鹿島駅には何年築かは不明だが、古さを残した木造駅舎が健在。

 シンプルな形状で、中ほどに改札口があり、別棟のような左右の部屋を屋根が繋ぐ造りは、昭和30年~40年代の高度経済成長期に建てられた国鉄のコンクリート駅舎を連想させる。そんな国鉄駅舎の場合は、それなりの規模でもっと大きい。しかし僅か6.4㎞のミニ私鉄の小さな駅、同じような造りでも、サイズは最小感溢れる。大正以来の歴史がある海鹿島駅だが、造りや壁の素材なども考えると、昭和30年~40年代に建てられたのではないだろうか…

 駅から東に700m位歩くと海鹿島海水浴場がある。そして沖合の海鹿島には、かつてはアシカやトドが住み、地名の由来となったという。

銚子電鉄・海鹿島駅、手押しポンプが残る古井戸跡

 駅舎前には、壊れた手押しポンプがのある古井戸が残る。かつては駅員さんが水をくみ上げていたんだろうなぁ…

銚子電鉄・海鹿島駅、木の造り付けベンチがある待合室

 正面右手は待合室になっている。狭い室内の壁沿いにぐるりと巡らされた造り付けベンチと天井は木造で、レトロさ溢れる。

銚子電鉄・海鹿島駅、駅舎出札口跡

 左手は駅事務室で、木の出札口跡が残っていた。こんな小さな駅でも、二つの窓口があったのだ。中は埃っぽく雑然と物が置かれていた。

民家の不思議な近さ

銚子電鉄・海鹿島駅、駅舎と駅前

 駅の敷地は、ホームの高さに合わせ盛土され、道路より少し高く位置していた。

 駅舎の敷地に面して民家が建っているのが面白い。ホーム銚子寄りの外れにも民家があり、駅の中を通らなければ、家に出入りできない。駅の中に民家が建っているような不思議な光景だ。

銚子電鉄・海鹿島駅、小さな一面一線のホームと駅舎

 廃線は一面一線の棒線駅。ホームは2両分程度の短さだ。古い木製ベンチに取り付けられたホーローの広告は、しょう油の醸造業が盛んな銚子らしく、地元しょう油業者のものだ。

銚子電鉄・海鹿島駅、ローカル私鉄らしい風景残る

 デハ801が民家の間をすり抜けるように入線してきた。

[2007年(平成19年)10月訪問](千葉県銚子市)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 私鉄の一つ星レトロ駅舎


 久しぶりにちほく高原鉄道へ。転換直前のJR池北線時代に乗りに来て以来で約15年振り。

ちほく高原鉄道・川上駅、無人地帯の秘境駅に佇む木造駅舎

 1920年(大正9年)6月1の開業以来の木造駅舎が残る川上駅で下車。左半分程度が新建材で改修されているものの、古い木造駅舎らしい趣をよく残した駅。正面出入口上部が、三角の切妻屋根になっているの北海道の駅舎らしさ感じさせる。

 駅近くに、草で埋もれた鉄道官舎の廃墟が残存する以外は、今やこれと言った建物が無い無人地帯。日常的な利用者はほぼゼロらしい。ほんももの秘境駅。

ちほく高原鉄道・川上駅の木造駅舎、ホーム側の佇まい

 まだ駅巡りをはじめて数年の頃、このホーム側の佇まいは、私の心に深い印象を刻んだ。古びた木の質感、柱、ポツンと取り付けられた裸電球…、目の前の全てのものが味わい深い。

 木の扉を開けるとガラガラと盛大な音が待合室に響いた。祖父母の家の扉も開け閉めすると、大きな音が鳴ったなぁ…。扉の吊り下げ金具を見ると、レトロでごつごつとし年季もかなり入ってた。まさに古道具が息づく待合室。


 ちほく高原鉄道は2006年(平成18年)4月21日に廃止。この川上駅舎は廃線後も意外と長い事残存したが、2013年1月頃、遂に取り壊されたという。

[2004年(平成16年)7月訪問](北海道足寄郡陸別町)

レトロ駅舎カテゴリー:
JR・旧国鉄系の失われしレトロ駅舎

意外と木造駅舎らしい!?佇まい

 中央本線(中央西線)の藪原駅へ…。塩尻駅から約30㎞ほど南の木曽の山中に分け入った所にある駅だ。

 約20年ほど前、駅を巡るようになった頃に訪れて以来の訪問だ。ハーフティンバー調の装飾が施された木造駅舎という記憶がある。

JR東海・中央本線(西線)・藪原駅、木造駅舎らしさ溢れるホーム側

 久々に訪れると、ホーム側の木造駅舎らしい佇まいに驚いた。柱や軒は年季が入った木のまま。こういう風だったんだ。

中央本線・藪原駅、改札口横にある放送機器

 改札口近くの壁に、古びた機器があるのが目に入った。音量調整のつまみがあり、下には「接」と「断」のセットができる三つのスイッチがあった。駅員さんの構内放送用操作用の機器だろう。三つのスイッチは、待合室、1番ホーム、島式の2番3番ホームだろうか?現在は委託された人が出札業務しかしない簡易委託駅。全てのスイッチは「断」に入っている。いや、古くてそもそももう動かないだろう。

JR東海・中央本線、藪原駅、待合室

 待合室は広めで、後付けで壁が付けられた。今日は冬にしては暖かいが、木曽の山間部、もっと寒くなる日もあるのだろう。外気が遮断できるのは有り難い。

藪原駅の木造駅舎、待合室の木の造り付けベンチ

 後付けの壁にぶった切られながらも、木の造り付けの長椅子は残る。木造駅舎の待合室らしい風情が存分に残る。

山荘風の造りが目を引く駅舎

中央本線・藪原駅、車寄せ越しに見る駅前の風景

 車寄せの柱は丸太で、その台座は表面が石で固められた野趣感じさせるもの。

 車寄せ越しに駅前の街並みが見えた。急斜面を切り開いた地で、上った所に道の駅があるらしい。線路に並行して道があり、旅館が数軒ある。中山道の藪原宿は駅の西北一帯だ。

 久しぶりに藪原駅の木造駅舎を眺めてみた。開業の1910年(明治43年)以来の木造駅舎だが、よく手入れされそれ程古さは感じない。

 駅舎の壁上半分が木組みを露出させたハーフティンバーという造りを模した装飾が施されている。

中央本線・藪原駅、板張りや車寄せなどユニークな造りの木造駅舎

 野趣あふれる車寄せの造り、そして斜めに模様を描くような板張りなど、山荘やロッジを感じさせる造りだ。また車寄せ先端には、神社建築見られる屋根の頂上で木の棒を交差させた「千木(ちぎ)」を思わす装飾が見られる。

 何で山荘風なのかと思ったが、駅の北側にハイキングコースとして知られる鳥居峠がある。かつては駅舎前の植込みに「鳥居峠登り口」とアピールした木のモニュメントがあったようだ。

 そしてかつてはこの駅から上高地駅へ向かうバス路線もあった。名古屋方面から見ると、上高地方面への最短ルートだったとか。

 しかし1986年11月の時刻表を見ると、休日と休前日のみの一日2往復の運行で冬期運休。利用しやすい本数とは言えず、現在は廃止されている事を考えると、主要なルートではなかったのだろう。

中央本線・藪原駅。木造駅舎の前に荒れた庭園跡がある

 駅舎の左側約3分の1は、元の板張りの造りを残していた。かつての藪原駅舎は写真を見ると、サイズ感は今と変わらないが、板張りのありふれた感じの木造駅舎で、山荘風でも無かった。どうやらある時期に今の姿に改修されたようだ。

 駅舎前の植込みは広く取られていて庭園のよう。昔からの駅らしいゆったりとした風情だが、荒れているのがもの悲しさを誘う。

藪原駅の木造駅舎、ホーム側の腰壁は丸太風の板張り

 さあ列車の時間だと思い2番ホームに向かおうとすると、ホーム側腰壁の板張りもちょっと変わっているのに気付いた。良く見ると丸太と言うか、切り出した木の丸みを残したのような板だった。板張りは平らな場合が多いが、こんな所まで山荘風に仕上げたのだ。

長野県木曽村、中央本線の藪原駅、JR東海313系電車が停車

 上り列車は、基本的に駅舎側の1番線からの発車となるが、14時27分発の木曽福島行きは島式の2番線からだった。今でこそ普通列車しか停車しないが、主要駅ばりにホームは広く長かった。

[2023年(令和5年)2月訪問](長野県木曽郡木祖村)

レトロ駅舎カテゴリー:
一つ星 JR・旧国鉄の一つ星レトロ駅舎

藪原駅改修に関する推測のようなもの

 藪原駅の木造駅舎が建てられたのは1910年(明治43年)だが、現在の姿になったのは、後年の改修によるものだ。

 改修前の写真が載っている本(※1)が発刊されたのは1972年。それ以前に撮影されたとしたら、単純に考え、駅舎が山荘風に改修されたのはその後という事になる。

 私の推測になるが、1970年から始まった「ディスカバージャパン」から「いい日旅立ち」と言った一連の国鉄のキャンペーンで、旅行気運が高まっていた頃、上高地や、5kmほど西北にある藪原スキー場の玄関口の駅として行楽ムードを高めるため、その頃に山荘風の駅舎に改修されたのではないだろうか…

 1986年11月の時刻表で、2本あった上高地行きのバスの1本は4時5分発という日さえ上っていない早朝。朝が早い登山家向けの設定なのだろう。きっと当時はまだあった中央線の夜行急行で降り立った人々が利用した事だろうと思ったが、定期の急行ちくまは通過で、11月に数日運行される臨時急行ちくま81号が停車するだけだった。もっともそのバスは木曽福島駅始終着だったので、特急や急行利用が全て止まる木曽福島駅の方がはるかに利用しやすかったのだろう。


 うだうだ言ったが、改修駅舎とは言え、約半世紀にもなると、古き良き味わいが出て来るもの。

 今回の旅は岐阜県奥飛騨の平湯温泉が主な目的で、藪原駅には松本経由でやって来た。平湯温泉と上高地はさほど離れていない。藪原駅‐上高地間のバスで来れたら面白かっただろうなぁ…


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初めて訪れてから、はや18年…

「時が止まったような…」
「タイムスリップした気分…」
「建てられた昭和初期のまま…」

よくそう評される美作滝尾駅の木造駅舎。国内でも最上級の木造駅舎の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。岡山県津山市にあるJR西日本・因美線の駅で、映画「男はつらいよ」最終作の「寅次郎紅の花」のロケ地になった事でも広く知られている。

 私が初めて訪れたのは2004年の12月。もう一度、見たくて再訪した2009年。3回目の2012年は、みまさかスローライフ列車で訪れ駅事務室の中に入り深い感銘を受けたもの。そして2022年8月には、4回目の訪問を果たした。

2004年当時、JR因美線・美作滝尾駅の木造駅舎
(初訪問、2004年当時の美作滝尾駅の木造駅舎)

変わらない駅の移り変わり

 開業した昭和3年(1928年)に建てられた木造駅舎はほとんど変わっていなかった。やはりここだけ時は止まっている。

 しかし初訪問時の写真と比べると、細かい変化はあるもの。欠けた屋根瓦は補修されていた。車寄せには木の駅名標が掲げられ、入り口横には壁に登録有形文化財認定プレートが埋め込まれている。しかしあれから18年経っているのに、味わいを損なう改修が施されていないのは素晴らしい。使い古された木の風情が本当に味わい深い。

 小さな変化があるのは、駅舎まわり…。例えば、駅舎を飾るような2本の松は、時々手入れされているが、時の流れの割にさほどではないとは言え、枝勢は広がり、幹はどっしりした感がある。木々はよりわさわさと茂っていた。

 右側の「男はつらいよ ロケ記念碑」や駅舎中ほどの「鐵道七十周年記念碑」はそのまま。しかし駅舎左手には、いつの間にか謎の岩が置かれていた。

木造駅舎が残る美作滝尾駅、折りたたみ自転車・DAHON K3を共に訪問

 今回は愛車・折りたたみ自転車のDAHON K3と共に訪問。津山駅前のホテルに重い荷物を置いて、幾分か身軽な姿で因美線の列車に乗って来た。1時間半後という、ちょうどいいタイミングの津山行き列車で折り返せるので、帰りも列車にしようかなと思っていたが、結局K3を輪行袋から出し展開した。そして記念撮影。

JR西日本因美線・美作滝尾駅、木造の駅舎と貨物上屋

 駅舎だけでなく、少し離れた所にある側線跡の木造貨物上屋も健在で何より!

 駅前を見渡すと、
「あれ?こんなふうだったっけ!?」
と不思議に思った。駅前が開けたというか広くなっているような気がした。以前はもうちょっと何かあった気がするのだが、思い出せない。

 駅舎正面から外を向いて右手あたりは砂利敷きとなり、駐車場のようになっている。バス数台までなら停められそうだ。片隅には飲料の自動販売機がポツンと置かれていた。津山市の観光名所の一つとなり、たぶん車での来訪を考え、駐車スペースを作ったのだろう。


~家に帰った後、かつて何があったのか写真を引っ張り出しよく見てみた。はっきりとらえた写真が無かったのは悔やまれるところ。取るに足らないと撮影しなかったのだろうが、いざ無くってしまうと、何があったのか…本当にあったのかさえ、さっぱり思い出せない。

 それでも片隅に写り込んでないか探すと、駅舎から外を見て左手には倉庫か何か建物があったよう。そしてトイレの側には、何かコンクリートの建物が建っていたようだ。民家と言った感じではなく、公民館か役所か何かの出張所っぽい雰囲気に思えた~

岡山県津山市・美作滝尾駅前、農協の跡地は公民館に

 駅から坂を下って交差点の右側に、かつて農協があったもの。十数年前、食べ物を買おうとしたが、棚卸しのため休業で、結局その日は、夕方の智頭駅まで何も食べられなかったのは今ではいい思い出(笑)

 現在では公民館が建っている。まだ新築の雰囲気をまとっているが、外壁の一部が木なのは、今年で築92年の美作滝尾駅舎へのオマージュだろうか…?

駅舎に負けなレトロな貨物上屋

JR美作滝尾駅、側線跡と木造の貨物上屋

 鳥取方にある行き止まりの側線跡は、いつの間にか2本の木に占拠されていた。十数年前は木なんて生えていなかった。

 どうやらこの木々、桜らしい。駅前には桜並木があり、駅舎横にも背の高い桜の木がある。春に訪れるのが楽しみだ。

 幸いにも側線ホーム上木造の貨物上屋(貨物上家)は健在。その奥には腕木式の信号が設置されていた。以前は無かったように思うのだが。

美作滝尾駅、薄れた木造上屋柱の注意書き

 貨物上屋の柱に巻き付けられていた鉄板に書かれた注意書きは、だいぶ読めなくなってきた。
「ここは貨物の積卸をする処ですから車両類の放置固くお断りします」
と書かれている。しかしこちらも錆が進み、もうあと少しで読めなくなりそうだ。

美作滝尾駅、レトロな国鉄時代を感じさせる貨物上屋と木造駅舎

 貨物上屋の下に立つと、丸太など木組みで造られた木の大きな屋根に圧倒された。昔はこんな小さな駅でも、貨物のやり取りが盛んに行われていたのだ。まさに日本の鉄道が元気だった頃を伝える鉄道遺産。昔の国鉄駅の風情を伝えるここまでの貨物上屋は、日本全国探してももうほとんど残っていないのではないだろうか…?駅舎同様に貴重だ。

美作滝尾駅、駅舎と貨物上屋の産業遺産学会による認定書

 壁を見る日本産業遺産学会による認定証の写しが2部掲示されていた。

 1つはこの貨物上家1号が推薦産業遺産120号になった事が標されていた。木造駅舎は知られるようになっても、同様に貴重な貨物上屋が注目されないのに歯がゆく感じていた。だけどようやく!と言った思いだ。

 もう一つは美作滝尾駅本屋と貨物上家を保存してきた滝尾駅運営委員会に対する功労賞を贈ったものだ。

 二つとも日付は2021年5月10日。利用は少なくなってしまった無人駅。使われなくなった建物は廃れていくもの。だけど運営委員会の方が丹念に手入れして、木造駅舎は引き立つ。評判を聞き人々が訪れる。結果として美作滝尾駅は生きた駅となっているいのかもしれない。できれば列車で訪問しやすくなれば言う事無いが…

待合室、窓口跡…レトロさ溢れる駅舎

美作滝尾駅、駅舎ホーム側の定位置に収まる古い秤

 駅舎ホーム側には秤が置かれていた。小荷物を扱っていた頃は盛んに使われていたのだろう。コンクリート面が窪んでいて定位置が作られているのが面白い。

 以前はこの秤、無かった。どこかから持ってきたのだろう。同じく味わいある木造駅舎が残る知和駅にも、かつてこんな秤があった。しかし、翌日訪れると無かった。もしかしたら知和駅にあったものを、美作滝尾駅に持ってきたのかもしれない。

 この駅の配線は、現在では1面1線とシンプル。ホームからは田んぼや山々など、のどかな田舎風景が望める。田んぼではかつて田んぼアート展が開催されたとか。

美作滝尾駅の木造駅舎、改札口と待合室

 木目浮かぶ木のラッチ、その奥の年季の入った待合室…、寂れる事無く昔のままの姿を留めた小さな空間こそ、時が止まっていると言われるゆえんだろう。

美作滝尾駅の木造駅舎、昔のままの切符売場など窓口跡

 二つの出札口と、一段低い手小荷物窓口…、昔の造りを完璧に留めた窓口跡は、もう骨董品の域、本当に絶品。

美作滝尾駅窓口跡、手荷物小荷物貨物取扱所の古い看板

 窓口跡には古い看板が掲げられていた。よく見ると「手荷物小荷物貨物取扱所 携帯品一時預り所」という看板で、下には取扱時間が標されていた。昔は全国の駅から駅へ荷物の発送がさかんに行われいたという。昔のままの窓口跡には、そんな時代思い起こさせるそんな看板が相応しい。

 看板をよく見ると、文字の下にも何か文字が見える。古い看板を塗り直し使いまわしているが、色が薄れ、以前の文字が浮かんでいる。JR比婆山駅の駅名標など、駅ではこんな看板の使いまわしはたまに見る。

 以前の内容を見ると、新しい方と内容は大まかには同じだが、新しい方には取扱時間が書き足されていた。時間を書いてより分かりやすくしようとしたのだが、新しく看板を作らずに、同じ看板を使いまわしたのだ。天下の国鉄が、たかが板切れ一枚と思ってしまうが、物を大切にする「もったいない」の精神は、鉄道の現場にも根付いていたものだ。

美作滝尾駅の木造駅舎、駅事務室内部

 待合室から窓越しに
「また、中に入りたいなぁ…」
と思いながら、駅事務室の中を見つめた。10年前、この中に入った時の感動は、まだ心の中に残っている。

夕刻迫るひと時

折りたたみ自転車・DAHON K3と美作滝尾駅の木造駅舎

 折りたたみ自転車と列車で一日中、駅を巡っていると、やはり疲れは溜まる。自販機で冷たいドリンクを買うと、日陰のベンチに避難、美作滝尾駅舎を眺めながら一休み。夕涼みには程遠い暑さだが、しばし癒しのひと時…

美作滝尾駅、夕刻、帰宅する学生を迎えに来た車

 誰も居なかった駅に、一台、また一台と何台かの車が立て続けにやってきた。見学者かと思ったら、降りてこない。ああ、もうすぐ列車がやってくるのだろう。たぶん、車は帰宅する学生を迎えに来た家族の方だ。

JR西日本・木造駅舎が残る美作滝尾駅と三江線カラーのキハ40

 しばらくすると、16時56分発の鳥取行きが1分ほど遅れてやってきた。廃線となった三江線でも活躍した浜田色と呼ばれる色のキハ120だった。


 迎えに来ていた車は、下車した学生達を乗せると去り、駅はまた私一人になった。日はどんどん傾き山の向こうに隠れようとしている。慣れない道を暗い中走るのは、出来れば避けたいと思うと、私も立ち去らなけらばいけない。

 最後にもう一度、足を止め振り返ると、津山駅に向けてペダルを踏んだ。

[2022年(令和4年)8月訪問](岡山県津山市)

レトロ駅舎カテゴリー:
三つ星 JR・旧国鉄の三つ星レトロ駅舎

この記事の後編的な記事、津山駅までの帰路は以下へどうぞ!
木造駅舎・美作滝尾駅、そして折りたたみ自転車で津山駅へ戻る


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.last-updated on 2023/05/09