矢岳駅 (JR九州・肥薩線)~日本の原風景の中に佇む明治の木造駅舎~



早朝の1番列車は私だけを乗せ吉松方面へ…

 人吉駅から吉松行きの始発列車に乗った。単行の列車に乗り込んだのは何と私1人。十何年前、初めて肥薩線のこの区間の下り列車に乗った時も1人だった事に驚いたが。

 肥薩線は2004年に九州新幹線が開業してから、観光路線として注目されるようになった。開業と同時に、鹿児島中央駅-吉松駅間では観光特急はやとの風号が、吉松駅-人吉駅間では観光列車いさぶろう・しんぺい号が運航開始となった。2009年には人吉駅-熊本駅間で、お洒落なリニューアル客車を連結したSL人吉号が走るようになった。3本の観光列車により、肥薩線には鉄道ファン以外の乗客も目に付くようになった。

 しかし、地域輸送という観点から見れば、依然厳しいという現実を突きつけられる。人吉-吉松間は普通列車は1日5本しか無い超閑散区間で、危機的とさえ言える状況なのだろう。

JR九州・肥薩線・矢岳駅に入線した列車

 朝日が虚しく座席を暖め続け、列車は矢岳駅に到着した。この駅で乗ってきた人もいなく、遂に乗客はゼロとなってしまった。終点までに誰か乗ったのだろうか…

肥薩線・矢岳駅の木造駅舎、使い古され年月を感じる柱

 プラットホームには木造駅舎の軒を何十年と支え続けた木の柱が並ぶ。雨風にひたすら晒され風化し、皺のように木目が露わに浮き出た柱が並ぶ様は、壮観でさえあり、この駅の歴史が迫りくるかのようだ。近年の木造駅舎風の新築駅舎とは天と地以上の「格」の違いを感じる。

肥薩線最高所の駅・矢岳駅、標高を標した碑

矢岳駅は肥薩線最高所の標高536.9mにある。人吉市街が標高約100m位なので、その差は何と400mだ。エンジンが息を切らせ、スイッチバックし、ループ線を通り…、20分足らずでこの高さを越えてきたのだ。

 晴れた春の日とは言え、空気は思いの他冷たく、風も吹きつける。ここまでの肥薩線の駅や沿線では桜が車窓を彩ってきたが、この寒さでは一つの花びらさえも開いていなかった。

肥薩線・矢岳駅、かつては矢岳越えの列車で賑わった広い構内

 駅として使われているスペースは、今やホーム沿いの1線のみ。かつての広い構内跡はすっかり草生している。片隅には石造りの給水塔跡の一部も残る。一体、かつては何本のレールが敷かれていたのだろう。

 肥薩線は1927年(昭和2年)の鹿児島本線(現:肥薩おれんじ鉄道転換区間含む)が全通するまで、鹿児島本線の一部で、九州を縦貫する重要なルートだった。広大な構内跡からはその威光が未だに伝わってくる。その当時は蒸気機関車や貨車など、多くの車両が側線を埋め、顔を黒く汚した駅員さんが忙しく動いていた事だろう。

明治の駅舎が佇む田舎風景

JR九州・肥薩線・矢岳駅、開業の明治42年の木造駅舎

 矢岳駅の駅舎は、開業の1909年(明治42年)以来の木造駅舎だ。趣を損ねるような改修をされていないのが素晴らしい。嘉例川駅など他の肥薩線の木造駅舎とほぼ同じ造りの「肥薩線型駅舎」と言える形状だ。面積の割に背が高いが、その割に軒は小さめでずんぐりとした印象を受ける。忘れ去られたようなローカル線の駅舎だから、同線の他の駅舎共々、これほどまでに昔の趣をを留めたまま現代まで残る事ができたのかもしれない。

 嘉例川駅と大隅横川駅の駅舎は既に登録有形文化財になっている。続いて、矢岳駅など同線他の7駅(八代駅、坂本駅、白石駅、渡駅、一勝地、大畑駅、真幸駅)の駅舎も、2012年中に登録有形文化財に申請する予定という。そして、その先にあるのは、肥薩線の世界遺産への登録という。他の名だたる世界遺産ほど有名でも華やかでもないが、明治の鉄道施設が多く残る肥薩線も、後世に残してゆくべき財産だと思う。

肥薩線・矢岳駅、木の質感豊かな木造駅舎

 近づいてみると木の質感は豊かで木造駅舎らしい趣に溢れる。だが、軒や屋根の木材が交換され、床面がコンクリートを塗り直されるなど改修もされ、大切にされている印象を受ける。

 2000年の前半に、初めて矢岳駅で降りた時は雨だった。その時、この軒下にかつてあったベンチで、ライダーがバイクを停め雨宿りしていた。なぜかそんな事が印象深く残っているか我ながら不思議だ。やっぱり駅は旅人を引きつける何かがあり、休憩する旅人が矢岳駅にもとても似合っていたからか…。今振り返ればそなんだろうなあと思う。

熊本県人吉市、肥薩線・矢岳駅、日本の原風景感じる駅前

 駅舎はもちろん、私が矢岳駅で好きなのが駅からの集落の眺めだ。山に囲まれたこじんまりとした風景の中、木造駅舎から一本の道が小さな集落に向け伸びている様が何故かとても好きなのだ。きっと何十年の前の田舎の駅風景はきっとこんな風だったのだろう。長閑な風景に癒される心地がする。今は冬枯れの趣き残る4月だが、もう1、2ヶ月もしたら眩しいまでの緑の風景へと移り変わっているのだろう。

肥薩線・矢岳駅、駅前の集落から駅の方を見る

 集落まで足を伸ばしてみた。民家が寄り集まる小さな集落だ。この集落の中に、旧国鉄の矢岳駅駅長官舎だった木造の建物が残っている。矢岳駅駅舎と同じ明治42年築で、現存する数少ない明治期の鉄道官舎建築として登録有形文化財になっている。今では何かに使われているようなので、少し離れた所から見上げただけだったが、機会があれば是非ともじっくり見てみたいものだ。

肥薩線・矢岳駅、すり減らされた駅前の階段

 駅への階段は、長年、地元の人々に幾度も踏まれ、ひび割れすり減らされている。そして利用客が激減した近年は、風雨がゆっくりゆっくりと削っているの。

肥薩線・矢岳駅の人吉市SL展示館、D51-170

 駅構内隅に、名物の人吉市SL展示館があり、D51 170が静態保存されている。日本全国で静態保存されている蒸気機関車は多いが、申し訳程度の屋根の下、ほとんど雨ざらしにされているものも少なくない。しかしここのデゴイチは屋内と言える環境に置かれている。随分と恵まれた幸せ者だ。すぐ側には民芸品や農作物を無人販売所もあった。

 2007年、このD51-170と矢岳駅が、南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれた。

肥薩線・矢岳駅、駅構内片隅の詰所跡

 人吉市SL展示館の奥には、かつての保線員の詰所と思われる木造の建物があった。昔ながらの駅構内設備で、駅舎同様に古さがある。だが日常的に使われている形跡は無く廃れ気味だった。

肥薩線・矢岳駅の木造駅舎、天井が高く広い待合室

 矢岳駅の駅舎は大柄で、待合室内部の天井も一般的な木造駅舎より1.5倍程度高く広々としている。同じ肥薩線の木造駅舎でも、嘉例川駅、大畑駅真幸駅よりも広々としている。のどかな田舎風景の中にある駅でも、昔はさぞ賑わったのだろう事が察せられる。内部の漆喰や木の壁面は使い込まれた質感を留める。

肥薩線・矢岳駅の木造駅舎、昔のままの窓口

 今は無人駅となってしまったが、出札口跡、手小荷物窓口の跡が今でも残る。天井が高い中、窓口の周りには大きな黒い掲示板が3枚も掲げられ、回りが黒々、そしてつやつやとしているのが印象的だ。昔は駅員さん手書きの運賃表、路線図、手小荷物料金表が掲げられていたのだろうか…。

肥薩線・矢岳駅、国鉄時代のステッカーが貼られたままの出札口跡

 特に昔の切符売場… 出札口の跡は、木の窓枠や窓口が古い木のままの造りを残し味わい深い。今でこそ無人駅だが、昔は窓口が2つもあったんだなと、賑わっていたであろう遠い昔を思い感慨に耽った。

 窓口周りのガラス窓にPR用のステッカーが張られているのが目を引く。左から「ジパング倶楽部」「指定券発売日の案内」「トクトクきっぷうりば」のステッカーで時代を感じるデザインだ。矢岳駅の無人化は1986年(昭和61年)の11月と約30年前なので、それ以前のものなのだろう。

肥薩線・矢岳駅の木造駅舎、手小荷物窓口の持ち送り

 手小荷物窓口跡は引戸こそ新しいものに替えられているが、木製のカウンターや、それを支える持ち送りは古い木のままだ。特に持ち送りが絵画の雲のような曲線を描き、端が刃物のようにやや鋭く削られている造形が凝っていて非常に印象的だ。そして、それが木目浮き出使い込まれた質感に溢れる様は、古いものならではの美しささえ感じる。

 ホームの軒を支える柱同様、造りつけのベンチも風雨に晒され続けてきた。苔が生したように、少しカビてきている…。

肥薩線、いさぶろ・しんぺい号が入線し賑わう矢岳駅

 矢岳駅に吉松行きの観光列車いさぶろう号が入線した。朝から人気が無かった駅が一気に賑やかになり、乗客達は数分の停車時間を利用して、駅舎やSL展示館の見学にと急ぐ。4月上旬の平日でもこの賑わいなのだから、休日はもっと凄いのだろう。

 ちょっとの停車時間しかないのが惜しく、観光列車なのだから、そんなに急がないでもうちょっと…責めて10分位は停車して、駅舎とか駅前の風景とかもっと堪能して欲しいものと思う。だけど、肥薩線の木造駅舎に触れた人々の中で、一部でも地元の身近な木造駅舎の良さに気づいてくれる人が居るとしたら…、それは素晴らしい事なのかもしれないと思った。

[2012年(平成24年) 4月訪問](熊本県人吉市)

レトロ駅舎カテゴリー: 三つ星 JR・旧国鉄の三つ星駅舎

追記: 駅長官舎がホテルに、しかし…

 矢岳駅の鉄道官舎は、ホテルに改装された。(株)CLASSIC RAILWAY HOTELによる古民家ホテル「CLASSIC RAILWAY HOTEL人吉球磨 星岳 月岳(ほしたけ つきたけ)」として、2019年(令和元年)8月2日にオープンした。一室につき定員は最大4名。お値段はなかなかのもの。隣の大畑駅の詰所跡には、同社が運営するレストラン「囲炉裏キュイジーヌ LOOP」がオープン。


 しかし、九州を襲った令和2年7月豪雨で、肥薩線の八代―人吉間だけでなく沿線地域も甚大な被害を受け、そしてコロナウィルスは収束の気配無く、経営環境は大きく悪化した。そのため同年11月、(株)CLASSIC RAILWAY HOTELは会社清算となった。

 しかし今後は、(株)NOTE人吉球磨を中心に、地域の人々が事業の継続を模索するという。何か動きがあれば公式ウェブサイトに情報が載るかもしれない。

矢岳駅・基本情報まとめ

鉄道会社・路線
JR九州・肥薩線
駅所在地
熊本県人吉市矢岳町4706
駅開業日
1909年(明治42年)11月21日
駅舎竣工年
1909年(明治42年)※開業以来の駅舎
駅営業形態
無人駅
その他
人吉-吉松間は、観光列車いさぶろう・しんぺい号を含めても1日5往復の超閑散区間。上下列車を組み合わせ駅巡りをしたい。大畑駅、矢岳駅、真幸駅近辺に食料品店は無いので食物は事前の確保が無難。矢岳駅に飲料の自動販売機はあったが。(2013年6月現在)